お城野郎! 織田家 合戦

槇島城の戦いで足利義昭が見せた最後の意地 【シリーズ信長の城vol.8】

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対する信長の戦術とは?

義昭の軍事行動に対して信長は長光寺城の柴田勝家、肥田城の蜂屋頼隆、佐和山城の丹羽長秀、そして坂本城の明智光秀をすぐさま派遣します。

柴田勝家は、まだ築城中の瀬田の石山城に殺到し、これを手際よく落とします。ここは織田軍団の真骨頂、スピードの勝利でした。多少、軍備や陣形が整っていなくても、城が完成するまでのわずかな隙を狙うには、早く取り掛かることこそが重要です。

続いて今堅田城にとりかかります。
今堅田城は、三方を琵琶湖に囲まれた湖に突出した砦で、陸地からの攻撃正面が1つに限定されるため、攻撃側には攻めにくく、守備側には守りやすい城です。さらに琵琶湖を後背地にしているため、琵琶湖上から舟での補給や退却も可能とする湖城で織田方には苦戦が予想されました。

しかし、信長は既に琵琶湖の活用術を十分に心得ています。

三方が湖なら、「湖から近づけばいいじゃないか!」と発想を転換し、明智光秀に命じて、坂本城から船で出撃させます。こうして明智光秀が琵琶湖上から船で城に近づき、火を放ち猛攻を加え、今堅田の守備兵は数日で砦を明け渡してしまいました。

義昭の誤算は、琵琶湖の制水権を信長ががっちり握っていたことでした。佐和山城と坂本城を結ぶ湖上の進軍及び防衛ルートにくさびを打ち込むという意味では今堅田城の位置は絶妙でしたが、ルートを遮断するには一点では無理です。
義昭には琵琶湖に直線を引くためのもう一点、つまり対岸から後詰めを繰り出してくれる勢力がありませんでした。

これまでのように堅田衆や近江の国人衆が琵琶湖の水運や利権を握っていれば、琵琶湖に突出した湖城を築いても湖からの後方支援を得られたのですが、信長が琵琶湖を取り巻く主要な港湾を押さえている限り、それは望めません。せめて浅井家の山本山城が管轄するの尾上湊(おのえみなと)あたりから後詰めの援軍は欲しいところでしたが、これも来ませんでした。

 

日本3大湖城で行われていた、もう一つの上田合戦

ここで日本の3大湖城について押さえておきましょう。

◆日本三大湖城
坂本城
大津城
膳所城(ぜぜじょう)

すべて三方を琵琶湖に囲まれた、琵琶湖岸の城ですが、時代がそれぞれ織田期、豊臣期、徳川期とずれており、時代によって城の持つ意味も違います。

湖城の絶対条件は、琵琶湖の制水権を同時に有していることです。

坂本の町は元々、近江国中に寺社領を持つ比叡山延暦寺の門前町として栄えた町でした。

ここに坂本城を築城することで、比叡山を越えて京へ向かうルートを確保。そして坂本城は最終的に、佐和山城―長浜城―安土城―大溝城という琵琶湖の東西南北に張り巡らされた防衛網によって琵琶湖側の後方が完璧に守られます。

これによって応仁の乱以降、不安定だった東からの京都防衛の要として機能します。

ここへ侵攻するには坂本城だけではなく、琵琶湖も完全に掌握しなければ京都の東から攻め込むことをほぼ不可能にしました。このように坂本城は京都への入り口として、そして琵琶湖の航路も押さえる戦略要地としての意味を持つ城でした。

豊臣期の大津城は、琵琶湖の水運と商業地「大津」の港町を城下町に取り込むように築城された城です。秀吉の天下統一、惣無事令により、近江でおなじみの国人衆同士の利権争いも減っており、特に水運や航路を海賊のような実力行使も辞さない特定の国人衆に押さえられることはなくなりました。

こうなると城と城で水運ルートを保持して、自ら警備する必要はなくなり、物資の集積地、特に最終的に京都へ向かう物資が集まる港町を城によって押さえるほうが支配者にとって重要となってきます。これが大津の町です。

信長の時代から商業地を取り込む城が各地に築城され始めましたが、秀吉がこれを継承したといえるでしょう。

ちなみに湖城で唯一、戦闘が起こったのが、関ヶ原の戦いの前哨戦である「大津城の戦い」です。

城主の京極高次が突如東軍に寝返り、わずか3千の手勢で1万5千の西軍を相手に大津城で9日間にも渡り引きつけました。最終的に立花宗茂に高所から大砲を撃ち込んで、同城は開城しましたが、その日がまさに関ヶ原の戦い当日であり、結果的に関ヶ原に向かう西軍の増援を阻むことに成功しました。

西軍の諸将は、湖城は琵琶湖方面から包囲するというセオリーを踏襲しなかったために多大な犠牲と時間を費やしてしまい、関ヶ原に間に合わなかったのです。真田昌幸の「第2次上田城の戦い」と同様の戦いが西でも行われていたんですねぇ。

なお、江戸期になると、膳所城(ぜぜじょう)が瀬田の大橋付近に築城されました。

ここで琵琶湖水運にとって劇的な変化が起こります。古来より日本海の北陸や敦賀から京、大坂への物資の輸送ルートとして栄えてきた琵琶湖水運でしたが、江戸期に入り北廻、南廻りの航路が開発され、京や大坂に物資を運ぶのに琵琶湖を必要としなくなったのです。これにより琵琶湖水運は衰退し、湖城の戦略的意味にも変化が起こります。

琵琶湖水運の利権のうまみも減ると、この地域は水運ルートや港町の防衛よりも江戸と京都を結ぶ街道の防衛の方が戦略的に重要となってきます。
膳所城は、琵琶湖を制する城というより、街道を押さえる城としての役割が大きくなったのです。実際、同城は湖城ながら街道に近い場所に築城され、もはや琵琶湖の制水権を確立するための城ではなく、中山道を押さえる城として位置付けされました。

このように日本3大湖城とひとくくりにされ、すべて琵琶湖に突き出た縄張りという共通点を持ちながら、築城された時代背景が違うために、各城の持つ意味は全く異なるのです。

信長の時代は、まだ浅井家が尾上湊(おのえみなと)などの湖北の港を押さえていて、琵琶湖を巡る勢力圏争いの真っ最中でした。今堅田に砦を築くという義昭の目の付け所はよかったのですが、肝心の朝倉、浅井の後方支援がなければ湖城は持ちません。一方で強固な湖上ネットワークを築いた信長の先見の明が光る戦いで、のちの安土城築城のコンセプトにつながるエポックメイキングな戦いだったといえるでしょう。

 

信玄死んだ。日本死ね!」by義昭

元亀4年(1573年)2月、今堅田、石山の城があっさり落ちると、将軍義昭の風向きが悪くなります。

義昭の軍勢は近江から撤退。北近江の浅井家も小谷城に封じ込められたまま、近江各地で決起した寺社勢力や国人衆は、誰からも後詰が期待できない絶望の中で織田軍団に各個撃破されてしまいました。

琵琶湖上に張り巡らせた防衛網に自信を持った信長は、更に兵力の大量輸送を目指して大船の開発に着手。家臣の丹羽長秀に命じて佐和山城下の内湖で大船を建造し、武田信玄の西上に備えて兵の輸送力を強化します。

織田家と正式に断交した武田家は、3月になると織田−武田の緩衝地帯である東美濃に家臣の秋山信友(虎繁)を信濃から進出させ、信長の本拠地・美濃に迫ります。

一方、京の洛中まで進出してきた織田方に対して、義昭は二条城に籠って徹底抗戦を表明。しかしここで悲報が義昭の下に入ります。西上を続けていた武田勢が突如、甲斐に退却し始めたのです。どうやら武田信玄が死んだらしいとのことで、織田家にとっては九死に一生を得る出来事でした。

実は信長は、三方ヶ原の戦い以降、進軍速度を著しく落とした武田勢の動きを既に怪しんでいたといわれています。石山、今堅田の戦いは、何らかの理由で軍を進めない武田勢の動きを察知して、素早く処理したのです。

さらに追い討ちをかけるように、摂津では荒木村重に調略されたキリシタンの高山友照、重友父子が公然と反乱を起こします。

高山父子は、戦死した和田惟政を継いだ17歳の惟長を追放し、高槻城を乗っ取り織田家に臣従します。続いて荒木村重も主家の池田家を完全に乗っ取った上で、織田家に味方します。
割を食ったのは摂津三守護の最後の生き残り、伊丹親興で、彼は将軍決起に賛同して反信長に付いたものの、お隣の荒木村重が信長に寝返りしてしまったために、再び村重に攻められてしまいます。

真面目に将軍に従っていただけで二度も荒木村重に攻められるという、自ら何も行動を起こさない代償はとても高くつきました。

結局、伊丹城は落城。その後入った荒木村重により有岡城と改名され、そのまま居城となりました。有岡城は後年、軍師官兵衛が1年もの間、幽閉されていたことで有名ですね。

信長の城7-9

©2016Google,ZENRIN

義昭への悲報は更に続きます。

元亀4年(1573年)7月、これまで四国から畿内全域に大軍勢を送り込んできた阿波、三好家家老の篠原長房が当主の三好長治に攻め滅ぼされるという珍事が起きました。

篠原長房は長身で文武両道、そして家老格というイケメン武将でした。

が、何事も過ぎたる者はなんちゃらで、他の家臣の妬みを買って讒言に惑わされた三好長治に討ち取られたと云われています。また、既に織田信長に通じていた三好長治によって手土産代わりに成敗されたとも云われています。

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四国でも内乱勃発!この後、阿波三好家は織田家と和解しつつも急速に衰退し、長宗我部元親の侵攻にさらされます/©2016Google,ZENRIN

畿内における三好宗家の戦略は四国からの大兵力によって支えられていましたが、この阿波三好家の内紛によって、畿内への兵力の供給が絶たれ、武田家に続いて三好家も信長包囲網から脱落していきます。

 

槇島城の戦い

振り上げた拳のやり場に困っているであろう義昭に対して、信長は大人の対応で朝廷を通じて和議を申し入れました。

朝廷には逆らえない義昭は一旦和議を受け入れます。

が、武田信玄の死や阿波三好家の内紛を知ってか知らずか、未だに強気の義昭は同年7月に二条城と宇治の槇島城で再び決起するのです。しかもここからは、武士の棟梁の血が騒いだのか、義昭は自ら軍事行動を起こしたのでした。

織田方は真っ先に二条城を包囲。足利将軍派の多い京の上京を徹底的に焼き払い、たまらず二条城は開城します。

義昭はそれでも徹底抗戦を貫き、山城守護の居城であった槇島城(まきしまじょう)に籠城しました。当時は周辺に「巨椋池(おぐらいけ)」という巨大な池があり、下流の大坂方面から大船で入ることができ、海や湖のない京の都の港の役割を持ち、物流の要衝でした。後年、秀吉が伏見城を築城したのは巨椋池の北側で、交通と物流の要衝だったことが分かりますね。

槇島城はその巨椋池と宇治川の急流に挟まれ、水に守られた地に築城された代々の山城国の守護所でもありました。

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現代では完全に埋め立てられてしまいましたが、槇島城の西側には宇治川に沿うように広大な巨椋池がありました/©2016Google,ZENRIN

槇島城攻めに出た信長配下の将は宇治川の渡河に苦労したと云われています。

ためらう武将たちに「お前らが行かないなら俺様が行くぞ!」と信長。これまでの戦い方からして、冗談では済まされない勢いの信長に気圧され、諸将が大軍を二手に分けて渡ります。

このとき源平合戦時代の故事に由来して2つの軍に先陣を競わせたと云われてますが、織田方は総勢7万という大軍です。宇治川のような大河を渡らせるのに渡河ポイントが1箇所だと1日かかってしまうので、軍勢を二手に分けることがあります。

しかし戦いを前にして優勢な軍勢を二手に分けてしまうというデメリットもあり、第4回の川中島の戦いにおいても、武田信玄の別働隊が千曲川の渡河に遅れたために優勢だった信玄の本隊が謙信の本隊に襲われ大損害を受けるということがありました。

信長の2隊のうち1隊は稲葉一鉄父子を先陣とした美濃衆で、宇治平等院の対岸から押し渡り、平等院一帯を焼き払いました。
もう1隊は佐久間信盛、丹羽長秀、柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉を中心とした信長本隊で、本陣の「五か庄」から真っ直ぐ西向きに宇治川を渡河して槇島城に迫ります。

足利将軍家の軍勢は織田家の2隊が合流する前に、各個撃破を狙ってどちらか1隊を攻撃すべきだったのでしょう。

ところが、この時の織田家の兵力7万に対して足利将軍家の軍勢はわずか4千にも満たないものでした。信長が2隊に分けたところで3万以上の兵力ですから、渡河ポイントで各個撃破を狙ったところで義昭に勝ち目はありません。
城攻めには敵の数倍の兵力で挑むべきという定石通りの戦略に加えて信長の叱咤で勢いを得た織田軍は早々に攻略。この後、足利義昭は息子を人質を差し出して京から追放されてしまいます。

この戦いの前、信長は何度も義昭に対して講和の使者を立てたといわれています。

しかし朝廷のお墨付きを得ていたとしても4千の足利将軍家の軍勢に対して、信長の大軍勢は明らかに本気です。義昭には畿内勢力でついてくる味方も少なく、信長はこの戦いを機に、尽力してきた足利幕府の再建をほぼあきらめたのでしょう。

信玄が死に、三好家も内紛で衰退し、将軍義昭は京から追放されて信長包囲網は瓦解。
義昭はこの後、あれほど嫌っていた三好家宗家の三好義継を頼って河内の若江城に入ります。嫌ってはいるものの三好義継は義昭の実妹の夫なのです。

義昭追放後、信長は元号を元亀から天正に改め、天正元年(1973年)8月、いよいよ最後の仕上げ、浅井、朝倉攻めに注力します。

次回へ続く

 

筆者:R.Fujise(お城野郎)

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

 

※編集部より

R.Fujise(お城野郎)の日本城郭検定・二級合格証書を掲載させていただきます。

FUJISEさん城郭検定2級

 

 



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