2020年大河ドラマ『麒麟がくる』が間もなく最終回を迎えますね。
開始当初は、いきなり野盗に襲われる場面があり、馬上の敵を弓矢で射たり、扉を開けた敵に槍をぶっ刺したり、衝撃的なシーンで見応えありましたが、本作に先駆けて戦国のリアルが話題となったのが『真田丸』でした。
三谷幸喜氏のユニークな脚本が秀逸だった。
ユーモラスだった草刈正雄さんの真田昌幸はじめ、役者陣の好演も目立った。
演出も秀逸だった。
屋敷Pはじめ、スタッフも覚悟が出来ていた。
ともかく、『真田丸』はドラマとして出来がよい。
それは確かなことですが、最大の魅力は
【戦国時代とはこういうものだったのか!】
と、目を見開かされた部分もあったことじゃないでしょうか。
例えば鉄火起請など、禍々しい中世の風習が取り上げられたように、現代からは想像もつかない価値観に触れられたことです。
その理由を知るために読みたい本。
それは、あのドラマの時代考証を担当した平山優氏の著書『戦国大名と国衆 (角川選書)(→amazon)』に他なりません。
※真田丸の時代考証は他に黒田基樹氏と丸島和洋氏
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どうして信繁が主役になれなかったのか?
『真田丸』で考えたいこと。
それは、真田信繁がなぜ歴史ある大河ドラマにおいて、これまで一度も主役にならなかったのか?ということです。
知名度、人気ともに、戦国時代のみならず日本史上屈指の人物であることは間違いない。
それでも抜擢されなかった。
真田信繁という人物を描くためには、時代が追い付いてなかったのかもしれない――。
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江戸時代から『真田太平記』まで、彼を主役に据えた傑作は多数あるにも関わらず『真田丸』を見終えたあと痛感したのは、そのことでした。
真田幸村ではなく、信繁が主役と抜擢された2016年。平成も終わりつつあり、時代変わっておりました。
いっぱしの社会人の証となるマイホーム(城)やマイカー(名馬)はおろか、妻子すら持てない平成の世。
戦国時代ならば、天下人にも大名にもなれない、そんな武将や浪人のような世代が社会に溢れていた。
そんな時代だったからではないでしょうか。
かつての大河ドラマの戦国モノといえば、一国一城の主となり、優しい妻子に囲まれてハッピーエンドを迎えたもの。
そんな時代から見れば真田信繁は破滅型であり、受け入れがたかったのかもしれません。
そして研究がそこにはある
むろん要因は社会の変化だけではありません。
研究成果も、真田信繁を語る上で不足していた気がします。
平山氏の新刊を読んで感じたことは、まさにそこなのです。
『真田丸』を見ながら、『真田太平記』を思い出して、全然違うものだと驚かされました。それに、真田一族というのも、こういうものだったのかと。
智謀に優れた一族であることくらい、もちろん知ってはおりました。
しかしそれだけではない、泥臭さがそこにあった。
生々しさ、と言い換えられましょうか。
戦国の武士って、こういうものだったんだっけ?
頭をひねってしまうこともある。
もっとカッコイイ、忠誠心が強くて、殿に必死になってついてゆく。
そういうイメージを抱く方が多かったでしょう。
しかし『真田丸』は違う。
真田昌幸は、武田勝頼の前で自分が武田家を支えると宣言したあと、もう「滅びる」とあっさり言い切るわけです。
それがあの真田昌幸の性格だと割り切ってよいものでしょうか?
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あれ? もしかして、私たちはクリーンアップした武士道の世界を見てきたのかな?
そう感じませんでしたか?
江戸時代以降、戦国時代のように謀叛を起こされたらばまずいという規範が強くなり、その教育が徹底されます。
そうなると、各大名家でも「うちの家はこんなに君臣一丸となっておりました!」という方向にクリーンアップしてゆくわけです。
『真田丸』は、こういう漂泊前の戦国武士の姿があった――それこそが魅力じゃないか、そう思うわけです。
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