武田勝頼/wikipediaより引用

歴史書籍

なぜ戦国最強の御家が滅んだか?平山優『武田氏滅亡』が圧倒的な読後感

源氏の流れを汲み、甲斐に根を張った名門武田家。

武田信虎が国内をまとめ、武田信玄が領土を拡張し、そして武田勝頼の代で滅びる――。

大河ドラマ『真田丸』の序盤において、視聴者の心を最も揺さぶったのは、気高くも儚く消えた武田勝頼の姿ではなかったでしょうか。

従来囁かれてきた暗愚の二代目像からはほど遠く、運命に抗う力すら失い、自害に追い詰められていった勝頼。

彼が追い詰められていったのは、一体何故なのか。

それを新書離れした分厚さで描き出したのが本書『武田氏滅亡 (角川選書)(→amazon)』です。

厄介なことに、750頁を越える本書を読んで得られる結論は「結局、武田勝頼は何が悪くて滅びてしまったのだろう?」という大きな疑問です。

もとより現代から振り返る歴史に明解な答えなど辿り着くことは困難極まるものかもしれません。

それでも真摯に核へ迫ろうというのが本書であり、当代随一の武田氏研究者・平山優氏の検証・思考には僭越ながら学ぶ箇所だらけであります。

 

長篠の敗戦よりも痛打となった御館の乱の判断ミス

従来、武田家滅亡の原因は勝頼の無能さにあるとされてきました。

いや、そもそも信玄時代からかなり無理をしていてそれがたたったのだという見方もありました。

長篠の戦い】において、鉄砲の天才・織田信長に対して、騎馬による突撃という古い戦術をとった武田勝頼という典型的な見方もありました。

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ただ、大敗したとはいえ1575年の長篠の戦いから、1582年の武田家滅亡までは7年という歳月があります。

こうした人間の能力だけが武田家のような大きな組織を滅ぼすというのは、少々単純化された話のような気がします。『信長の野望』と違って、現実は人間のステータスだけで動くものではありません。

長篠のあと、勝頼はむしろ領土を拡大し体制の立て直しに成功しています。

領土の広さだけで比べたら、むしろ父・信玄の代を上回っています。

※ただし、本拠地を次々に変えて、領土拡大先で完全に所領化した織田信長と異なり、地元の国衆を傘下にするだけの武田氏基盤が意外に脆弱だったという指摘もありますが……それはさておき

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勝頼の失敗は、長篠の敗戦よりも、1578年に起きた【御館の乱】の方が深刻でした。

御館の乱とは、隣国・越後で起きた謙信死亡後の上杉跡継ぎ騒動であり、甥っ子の上杉景勝と、北条からの養子・上杉景虎が争ったものです。

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勝頼は、北条氏と同盟関係にあり、正室を北条家から娶っているにも関わらず、北条氏政の実弟・上杉景虎支援に失敗し、北条との同盟が決裂してしまいました。

御館の乱の終結時に勝頼は、景虎を破った景勝と同盟を結ぶのですが、北条という貴重な同盟相手を失うという大きな損害をもたらしました。

そしてさらにその2年後、決定的な打撃を受けます。

「高天神崩れ」です。

 

和睦をチラつかせて決断を鈍らせ……巧妙すぎる信長

北条氏と熾烈な関東をめぐる争いを繰り広げるようになった武田家。

この北条と呼応したのが、徳川家康でした。

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1581年、徳川勢が高天神城(静岡県掛川市)を攻めたとき、勝頼は北条に対応するため、徳川の侵攻に対して思うように援軍を送ることができませんでした。

ここで城を攻める家康の同盟者である織田信長は、残酷かつ的確な指示を出します。

「敵が降伏をしてきても決して受け入れるな」

「勝頼が援軍を出さなかったせいで高天神城の者たちは見殺しにされた」

そう知らしめるのだ、と。

高天神城に籠城した者たちは、この残酷な意図のもと、食糧供給を絶たれて餓死してゆきます。

脱出しようとした僅かな者も、張り巡らされた徳川の包囲網にかかり、敢えなく戦死。彼らはなるべくむごたらしく悲惨な死に方をする方が宣伝になると信長は計算したわけです。

戦死した者たちの多くは、武田家に付き従ってきた有力な国衆たちでした。

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この状況でなぜ勝頼が援軍を出せなかったのか。

それは前述の通り北条の状況もありましたが、実は、信長が和睦交渉をすすめていたこともありました。

和睦で解決できるのならば、援軍を出さずともよいと勝頼や重臣が考えてもおかしくはないわけです。

武田家の中で長篠の記憶は生々しく、下手に織田勢とぶつかるのは避けたいという意識もあったことでしょう。

しかしこれは結局のところ、信長の時間稼ぎだったというわけです。

勝頼は信長の策にかかり、高天神城と彼の威信を失ってしまったのです。

 

選択肢は常に困難極めるものばかり

さらに信長は、勝頼は正親町天皇に逆らう「東夷であり朝敵である」と喧伝することにも手抜かりはありませんでした。

勝頼は莫大な金に目がくらんで北条との同盟を破棄した男であり、味方が追い詰められても援軍すら出さない冷たい男であり、さらに朝敵でもある。

そんな認識が世間に広まってしまったのです。

後に、穴山梅雪や木曽義昌らは勝頼を裏切ることになりましたが、彼らに言わせれば「勝頼の方こそ我らの信頼を先に裏切ったではないか」ということかもしれません。

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振り返ってみますと、武田勝頼は、長篠の戦いでの敗北は何とか立て直すことが出来ました。

人的損害は何とかできたのです。

しかし、高天神城で地に落ちた名声は、もはや彼自身の運命とともに、墜ちるところまで墜ちるほかありませんでした。

失われた信頼、世間に広がった不信感は、簡単に拭いさることができない――そんな典型的な例だったのでしょう。

 

常に薄氷を踏む思いの選択を迫られ

高天神城陥落の翌年、勝頼は僅か50名ほどの者たちと落ち延び、最期を迎えます。

結果的に勝頼は間違えました。

そして滅びました。

しかしその選択肢は常に極めて難しいものばかりで、彼は決定的なミスばかりをしていたわけではありません。

選択した直後、勝頼も武田家の重臣たちも「今、間違ったことをしてしまった」と気づくことはできなかったでしょう。

後で影響が及んできて、結果的にあのときああしてはいけなかったのだ、と理解したことでしょう。

そういう複雑な状況を「勝頼は暗愚であった、だから滅びたのだ」とまとめてしまったらどれほど楽でしょうか。思考停止できたらそれでスッキリすることでしょうか。

本書は750頁という厚さで「ところが、歴史というのはそんなに単純なことではない」と突きつけて来ます。

読後は、妙な疲労感を覚えました。

それは滅びの物語をたどる重さだけではなく、私たちも勝頼のように最善の選択をしたつもりでいて、あやまった道を歩み、そしてそれに気づいていないかもしれない、と感じたためです。

人にとって失敗とは何か。歴史だけではなく、人間のそんな本質にも迫る労作です。

このヘビー級の読後感、なかなか味わえない一冊です。

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【参考】

『武田氏滅亡 (角川選書)』(→amazon

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