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田畑政治(たばたまさじ)の生涯 いだてん阿部サダヲが演じるもう一人の主役とは?

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ヘルシンキ五輪で日本五輪復帰

おそらく『いだてん』で田畑最大の見せ場となるのが戦後の東京オリンピック誘致でしょう。

これは長い道のりでした。
なんせ日本はオリンピック参加すら断られてきたのです。

昭和23年(1948年)のロンドンオリンピックの開催地は、かつての敵国イギリスです。
いくら政治とスポーツは別といっても、日本への反発は当然あります。
厳しい国内事情の中、鍛え上げてきた選手たちも断念するほかありませんでした。

しかし我慢のならない田畑は、日本選手権の決勝を五輪にぶつけ、日本水泳選手団の実力をアピールすることを忘れません。

特に悔しがったのが、「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋廣之進です。
世界記録すら樹立しましたが、日本は国際水泳連盟(FINA)から弾かれています。

その記録が世界で認められることはなかったのです。

古橋廣之進/wikipediaより引用

もし古橋がロンドンに参戦できていたら……。
指導者としての悔しさは募るばかり。

翌昭和24年(1949年)、ロサンゼルスで開始された全米水泳選手権大会に、マッカーサーの許可を得て遠征。
まだまだ日本への風当たりが厳しく、ホテル宿泊を拒まれるばかりか「ジャップ!」と唾棄されることもありました。

そんな彼らに日系人実業家フレッド・イサム・ワダは、宿を提供しました。
日系人にとって、日本人アスリートの活躍は心躍るもの。このワダとの関わりが、のちに生きてきます。

ワダの献身が選手の背中を後押ししたのでしょう。

同大会で日本人選手は活躍し、
「日本人、すごいねえ!」
という周囲の声にワダは心躍らせます。
日系人として苦しみ生きてきた彼にとって、殊のほか嬉しいものでした。

そしてこの年には、国際水泳連盟(FINA)復帰も叶います。
まさに、田畑の策と奮闘あってのことでした。

五輪以外では、活躍めざましい日本人選手。
彼らのためにも、何がなんでも五輪の舞台を取り戻すことこそ急務となりました。

その願いは、次の昭和27年(1952年)ヘルシンキ五輪でついに叶います。

ヘルシンキ五輪記念タワー/photo by Jonik wikipediaより引用

ただし、この大会で水泳陣は不振を極めました。

【全体のメダル】
金:1
銀:6
銅:2

【うち水泳のメダル】
金:0
銀:1
銅:0

あの「フジヤマのトビウオ」こと古橋すら、アメーバ赤痢に苦しんだのです。
選手村で治療のため寝込み、やっと出場しての8位。
おそらくや選手としての最盛期が既に過ぎていたということも影響していたでしょう。

しかし、この大会が田畑に新たな目標を芽生えさせたのでした。

 

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東京で五輪をやろう!

ヘルシンキ大会に参加した田畑は、
『なんだ、結構こじんまりとしているな』
とすら思いました。

それと同時に、これらなら日本でも出来ると確信します。
そんな中、ヘルシンキ五輪の翌昭和28年(1953年)、IOC委員のフレンケルが来日しました。

五輪を開催すれば観光客も誘致できます。
戦争で傷ついた日本にとって、魅力あふれる計画。
田畑は、東竜太郎と共に立ち上がり、東京都、そして日本政府の説得にかかります。

東龍太郎/wikipediaより引用

五輪の開催は、予算にいくら必要なのか、未知のもの。
戦前誘致のようにイケイケドンドンでもない中、田畑は粘ります。

なにせ、元政治記者です。
政界へ顔が利くのを使わない手はない。

そこで時の都知事・安井誠一郎や、総理大臣・岸信介らも、田畑の舌で説得したのです。

昭和31年(1956年)、メルボルン五輪にも二大会連続で日本選手団の団長として参加した田畑。
この大会では、団長として選手を見守るだけではなく、大会運営に必要なものについてもジックリと観察しました。

【全体のメダル】
金:4
銀:10
銅:5

【うち水泳のメダル】
金:1
銀:4
銅:0

水泳競技のメダル数こそぼちぼちながら、力強い味方もおりました。

北島義彦招致実行委員長に、日系アメリカ人の実業家フレッド・イサム・ワダ。
ワダはアメリカ大陸を行脚し、日本での五輪開催に向けて説得の任を担ったのです。

田畑のこうした作戦は当たりました。

昭和34年(1959年)、IOC総会。
日本の簡潔なスピーチは、見る側の心を打ちました。

対抗馬は、デトロイト、ウィーン、ブリュッセル。
アジアでの五輪開催はここまでなし。

こうなると、東京であってもよい――そんな声は大きくなります。
かくして東京五輪は、恵まれた状況で開催にまでこぎつけたのでした。

 

東京五輪への準備着々と

昭和35年(1960年)のローマ五輪。
田畑はオリンピック運営を学ぶために参加しました。

政治的な問題もありました。

例えば、冷戦下の当時は中国といえば、中華民国の時代です。
しかしその名前では、中華人民共和国は不参加となるでしょう。そうした協議を見て、学ぶことは多かったようです。

日本の獲得メダルを増やすため、実施競技の増加も訴えました。

それが柔道と、女子バレーボールです。

柔道といえば、戦前の東京五輪招致に尽力するも、その悲願が叶わないまま世を去った嘉納治五郎が取り組んだ競技。
このころは、世界の多くの国に広がっていました。

女子バレーボールは東京五輪で「東洋の魔女」と絶賛されることになる競技です。
田畑のセンスが光りますね。

 

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まさかのJOC辞任

東京五輪の立役者であるといえる田畑は、しかしながら直前でJOCを辞職させられてしまいます。

衝撃は昭和37年(1962年)、インドネシアで開催された第4回アジア競技大会で起こりました。
大会主催者側が、中華民国(台湾)とイスラエルの参加を拒んだのです。

ローマ五輪でもこうした問題があったのは、前述の通り。
スポーツは政治と切り離すべきという理論は、結局のところ理想にとどまってしまうのが、この後のスポーツ大会でも繰り返されることになります。

いずれにせよこの決定に対し、国際オリンピック委員会(IOC)は、本大会を正規競技大会としては認定しないことにします。

決断を迫れる日本は、迷いながらも大会に出場。
日本としてはこの大会を合法化しようと努力するほかありません。
しかし、それはできないことでした。

「無責任な参加」
参加したことが間違いであったと、日本でも批判の声が高まります。

その責任を取らされるカタチで、田畑は辞任せざるを得なくなったのです。
事務総長、さらには選手強化対策本部常任顧問の肩書きが田畑から失われ、同時に組織委員会会長の津島寿一もその座をおりました。

田畑は東京五輪組織委員会の委員として、選手を励ますことになりました。
役職にはついていないものの、熱心に応援は続けます。

確かに東京五輪では無役です。
しかし、彼こそがこの五輪の功労者であることは、紛れもない事実でした。

 

スポーツ振興に捧げた生涯

東京五輪での日本水泳選手団はいまひとつの活躍でした。

こうした結果を受けて、田畑は水泳復活に向けて動き、その後もスポーツ振興に一生を尽くします。

昭和46年(1971年)、日本体育協会の副会長に就任。
昭和48年(1973年)には、JOC委員長となり、昭和52年(1977年)になって、JOC名誉委員長就任、JOC功労章銀章受賞と続きます。

水泳のみならず、昭和47年(1972年)開催の札幌五輪にも協力を惜しまないなど、スポーツ大会への援助に身を投じたのです。

そして昭和59年(1984年)。
享年85で逝去するまで、日本のスポーツ振興に捧げた、熱い人生でした。




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文:小檜山青

【参考文献】
『評伝 田畑政治: オリンピックに生涯をささげた男』杢代哲雄(→amazon リンク
『オリンピック物語―古代ギリシャから現代まで (中公新書ラクレ)』結城和香子(→amazon リンク

 



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