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おんな城主直虎特集 井伊家

龍潭寺は遠江井伊氏の博物館!? おんな城主直虎ゆかりの地を歩く~直虎紀行 弐の巻

更新日:

 

桜が散り、新緑の季節となって久しい。

気候の温暖な遠州浜松の山々は、ふつう5月に入れば早くも深い緑に覆われ、観光客で溢れる湖とは対照的に人の往来はまばらにして、辺りはうら寂しい気配に包まれる。

ここは井伊家と縁の深い臨済宗妙心寺派の寺――龍潭寺(りょうたんじ)である。

 

彦根の龍潭寺ばかりが注目されてきたが……

龍潭寺と言うと以前は、歴史に詳しい人から「彦根のお寺でしたっけ?」と返されることもしばしばであった。最近になってようやく「井伊直虎ゆかりの井伊谷(いいのや)のお寺ですね」と笑顔を浮かべる人も増えてきたのは、他でもない彼女が大河ドラマの主役に抜擢されたからである。

ではなぜ、これまで「彦根」という近江の地名が優先して出てきたのか。

理由は皆さんご推察の通り、徳川四天王の一人にして直虎の後継者である井伊直政が、その地に城を築き、彦根藩祖となったからである。

もともと近江の中心には、佐和山城があった。が、関ヶ原の戦いで城主の石田三成が処刑されると、徳川譜代の楔として、直政が入城。以来、近江井伊氏の居城となるが、その佐和山の麓にあるのが弘徳山龍潭寺(滋賀県彦根市古沢町)。萬松山龍潭寺の分寺だ。

遠江井伊氏の菩提寺である萬松山龍潭寺は、もともと「小堀遠州作の庭園と鴬張りの廊下」で有名な寺であった。

今では「直虎ゆかりの寺」として、直虎関連のイベント会場になったり、売店で直虎関連グッズが売られたり、NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の故地訪問には欠かせない存在となっている。言わば遠江井伊氏の博物館的存在であり、土日ともなれば駐車場は車で埋まるほどだ。

2017年になり、いざ「おんな城主 直虎」の放送が始まれば観光バスの数も急増するであろうから、門前の道路が片側一車線だけに、駐車待ちの車で大渋滞となるのでは。そんな余計な心配を抱いてしまう。

 

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山門をくぐって直進すると、まず石垣にぶつかる寺

私が龍潭寺へ私が足を運んだのは何度目だろうか。正直、数えることもできないぐらいだが、いつ来ても何度見ても不思議に思うことがある。

普通の寺は、山門をくぐると目の前に本堂が飛び込んでくる。ところが龍潭寺の場合は、

───石垣

なのである。

山門をくぐり、そのまま直進すると石垣にぶつかってしまうため、一瞬「ドコへ進めばよい?」のかわからなくなり、実際、一番最初のときは心底戸惑った。今では正解が右であることはわかっているが、いざ右に曲がっても、また石垣に突き当るので、今度は左に曲がって石段を登る――そんな複雑な造りなのである。

そう、ここは、単なる宗教施設としての寺ではない。

井伊家発祥の井戸で少しばかり触れさせていただいたが、あらためて同寺の案内板にあった文言をご紹介すると。

「この寺域はもと井伊八幡宮の境内でしたが、五百年前井伊氏がこの地に龍泰寺(現龍潭寺)を造営しました。龍潭寺は井伊城南の守り砦の役目を果たしてきた歴史があります。この参道石垣に小規模ながら城郭造りの跡が残されています」

ゆえに、初めて同寺を訪れる観光客は、
「この石垣は、龍潭寺砦の石垣なんだ」
「砦だから、参道が複雑なんだ」
と納得するのである。

ふと昔に思いを馳せてみる。

門を通ったら目の前が石垣で、左右どちらに進もうかとキョロキョロしている間に、中央の石垣の上から石だの矢だのが降ってきて命を落とす……。実際に、そんな場面はあったのだろうか。あるとすれば井伊何代の出来事がキッカケになってこのような複雑な構造になったのか。

私ときたら些細な謎でも突き当たると「もっと詳しく知りたい」と思ってしまう性格なので、いつも歴史の迷路に迷い込んでしまう。

 

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行基によって開かれた八幡山地蔵寺の後身寺

かつてこの寺の場所には、手水舎に相当する御手洗の井戸(井伊共保出生の井)から続く井伊谷八幡宮があった。

それが南北朝時代に、後醍醐天皇の御子の宗良親王を迎え入れた時に、井伊谷八幡宮を渭伊神社に合祀し、この地を砦(龍潭寺砦・八幡山砦)とし、そして間もなく戦国時代を迎えた。

この石垣が砦の石垣であれば、それは、南北朝時代の遺構となる。

石垣の元となる石積みは、飛鳥時代末あたりに百済から伝えられたそうだが、中世(鎌倉・室町時代)の城では殆ど見られず、土を盛り上げた土塁が主流であったと聞く。石垣の城が出現するのは戦国時代も後半のことで、「三方ヶ原の戦い」を描く時、浜松城に石垣があったかなかったかと議論になるぐらいであるから、南北朝時代の城砦に石垣があったとは思えない。迷路のような道ではあったとは思うが。

萬松山龍潭寺の歴史をもう少し詳しく振り返ってみよう。

そもそも龍潭寺は、天平5年(733年)、行基によって開かれた八幡山地蔵寺の後身寺である。行基の生誕地には諸説あるが、地元・引佐では「引佐の四方浄の生まれ」とされ、周辺には行基開創の寺院が多い。

八幡山地蔵寺のご本尊は行基作の地蔵菩薩で、前回取り上げた「井伊共保出生の井」の横にあった。が、井伊共保が寛治7年(1093年)に亡くなると、その法名「自浄院殿行輝寂明大居士」により、「自浄院」と改称されて、遠江井伊氏の菩提寺となる。

南北朝時代は、井伊谷八幡宮が薬師山麓の渭伊神社に合祀され、跡地は「龍潭寺砦」「八幡山砦」として、井伊谷城(城山城)と坂田砦の間にある繋ぎの砦とされた。

自浄院に後醍醐天皇の御子・宗良親王(法名「冷湛寺殿」)が葬られると、親王の法名から一時は「冷湛(れいたん)寺」と改称。それが戦国時代になって臨済宗(妙心寺派)に改宗し、現在地に(たぶん自浄院主となられた文寂和尚がおられた「凌苔(りょうたい)庵」の名から)「龍泰(りょうたい)寺」とし て建てられた。造営したのは井伊直虎の曽祖父・井伊直平である。

そして「桶狭間の戦い」で亡くなられた井伊直盛(直虎の父)が葬られると、彼の戒名「龍潭寺殿天運道 鑑大居士」により、「龍潭(りょうたん)寺」と改称され、井伊直盛、そして井伊家の菩提寺となる。

 

元は本堂裏に井伊谷八幡宮があり、仁王門の場所には鳥居が

話を境内に戻そう。

石垣を過ぎて階段を登ると、また分岐がある。右方が龍潭寺の前身である自浄院跡(井伊共保出生の井の横にあったが、龍潭寺の塔頭となった)で、前方が拝観受付がある庫裡、左方が仁王門へと続く道である。順路案内は前方を示しているが、ここは、左に折れて仁王門へ。

仁王門

すると門の向こうに本堂が見えてくる。

この光景こそが普通の寺で見ることのできる風景だろう。往古は本堂裏に井伊谷八幡宮があり、仁王門の場所には鳥居があった。そして、社殿と鳥居を結ぶ直線の延長線上に「井伊共保出生の井」がある。そう、先程触れたこの井戸まで続く参道は直線だった。

仁王門は、経年劣化して、周囲と調和しているが、実は平成元年(1989)に建てられた新しい構造物。その斜め前にはかつて松岳院があり、この塔頭名は南渓和尚が名付けた井伊直虎の母の出家名「松岳院壽窓祐椿」(しょうがくいんじゅそうゆうちん)にちなんでいる。

在住期間こそ異なるが、祐椿尼(ゆうちんに・井伊直虎の母親)、祐圓尼(ゆうえんに・井伊直虎)、井伊直政、井伊直政の母親の4名が住んだこともある塔頭だ。

子育て地蔵

松岳院の建物は現存していない。

が、その横の井伊直政の母が、我が子の無事と成長を祈願した「子育て地蔵」と、井伊家の安泰を祈願して植えたという梛(ナギ)の巨木は残っている。

 

再び、先の分岐点に戻ると、東門(旧鐘楼堂)の前に「龍潭寺伽藍」の文化財指定碑がある。

藤棚の奥の客殿は平成10年(1998)に建てられた新しい構造物であるので文化財指定はされていないが、その左の庫裡は、静岡県指定文化財の構造物だ。

龍潭寺2

静岡県指定文化財の「龍潭寺伽藍」とは、「山門、庫裏、本堂、稲荷堂、開山堂、井伊家霊屋(たまや)」のことで、非常に残念なのは井伊直虎の時代の建物が「三方ヶ原の戦い」後、武田軍の赤備え(山県昌景隊)によって焼かれてしまったことである。現在の建物は、江戸時代の彦根藩によって再建・創建されたもので、直虎自身は、その姿を目にしていない。

「龍潭寺伽藍」については、静岡県教育委員会『文化財ガイドブック -構造物編-』に次のように書いてある。

「龍潭寺は、室町時代に井伊直平が黙宗禅師を招いて開山とし、禅宗の寺となった。その後江戸時代を通じて、井伊家の菩提寺として栄えてきた。境内には、山門・本堂・開山堂・井伊家霊屋・稲荷堂・庫裏など、江戸時代前期から後期にかけて建立された諸堂宇が伽藍を構成している貴重な遺構である。最も古い山門は、明暦2年(1656)の建立。本堂は延宝4年(1676)の建立で、整形六間取りの方丈形式を採り、周囲に1間半の縁が巡る。開山堂は元禄15年(1702)の建立で、方三間、重層、宝形造、本瓦葺。寛政8年(1796)建立の稲荷堂は、一間社流造、板葺、向拝軒唐破風付の小振りな堂舎であるが、向拝の水引虹梁は龍を丸彫りした彫刻で見る者を圧倒する」

私が勉強不足なだけだが、寺社にしろ、城郭にしろ、この手の解説文はなぜ専門用語ばかりなのだろう?

そんな風に思いながら受付で拝観料を支払い、栞と境内図を受け取る(別料金の御朱印は後ほど受け取る手順)。そばには売店もあって「ここでしか買えない龍潭寺の資料」も入手可能だが、荷物になるので後回しにし、キュッ、キュッ、キュッ……と音を立てながら鴬張りの廊下を歩いていく。

 

本堂の中央には、釈迦三尊像がある。ご本尊は虚空蔵菩薩であるが、秘仏であるから見ることはできない。右には遠江国最大と言われる大仏(釈迦牟尼仏)、左には宗良親王のご位牌がある。龍潭寺は、宗良親王の菩提寺でもあるのだ。

見上げると、左甚五郎作といわれる龍の彫刻がある。今は無き大仏殿の蛙股の彫刻だという。髭が折れているが、これには「夜な夜な動き出して悪戯をするので、髭を折って懲らしめたら、動かなくなった」という伝承がある。折った僧侶の「嘘も方便」とみた。

さらにその先、夢が叶うといわれる正夢稲荷の稲荷堂を過ぎると開山堂にあたる。
開山堂には、龍潭寺開山の黙宗(もくじゅう)和尚像と、その師である文寂(ぶんしゅく)和尚(自浄院の院主)像がある。

文寂和尚が開いたお寺が長野にある松源寺(長野県下伊那郡高森町)で、井伊直親の逃亡先である。ただし、この松源寺は、天正10年(1582)の織田信長による武田征伐の時に焼失。現在は約2km離れた松岡城址に再建されている。井伊直親は逃亡先で松岡氏に保護されていたが、実は、文寂和尚は、松岡城主・松岡貞正の実弟なのであった。

井伊直虎のよき理解者である大叔父の南渓和尚は、黙宗和尚の弟子であり、龍潭寺二世住職である。彼は井伊直平の次男だとも考えられていたが、「南渓過去帳」にある両親の戒名が井伊直平夫妻のものとは全く異なることから、養子であることが判明。頭脳明晰であったので、養子にして菩提寺を守らせたのであろう。南渓和尚には井伊家の血が流れていなかったので、仮に還俗しても、井伊家の宗主になることは出来なかったのである。

開山堂の奥が「井伊家霊屋」である。「位牌堂」のことで、左側に多くの位牌が置かれている。

正面にある像のうち、中央が龍潭寺殿こと井伊直盛、右が井伊家始祖・井伊共保、左が井伊家中興・井伊直政の像である。左上の像は、井伊直親の像である。

本堂の裏の北庭は、小堀遠州作「国指定名勝龍潭寺庭園」として有名だ。庭を眺めながら座禅をして音声ガイドに耳を傾けたいところである。

龍潭寺4

※本堂前のお庭は「補陀落の庭」といい、浜名湖を模している。

屋外の墓地には、「井伊氏歴代墓所」と「武将墓所」がある。

龍潭寺5

井伊氏歴代墓所の中央、左が井伊直盛、右が井伊共保の墓で、左側の墓列の中に井伊直虎の墓(正確には供養塔)がある。ただし、この「井伊氏歴代墓所」は2015年12月より立ち入り禁止。

「武将墓所」には、井伊家家臣、近藤氏、歴代住職の墓がある。

 

【番外編】~宗良親王の墓「井伊谷宮」(井伊谷)~

龍潭寺に隣接して、後醍醐天皇の御子の宗良親王を祀る井伊谷宮がある。
井伊谷宮へ行くには、一度、龍潭寺の外へ出て、井伊谷宮の鳥居をくぐって参拝するのが正式であろうが、実は繋がっている。龍潭寺の敷地は24000坪あったが、明治に入って井伊谷宮を建てるに当たり、北半分の12000坪を提供したのである。

「井伊氏歴代墓所」の前の道をさらに奥へと進み、「宗良親王御墓」の門前へ。

通路

「宗良親王御墓」は、宮内庁が管理している宗良親王の墓所で、門が閉じられていて、お墓の近くまでは行くことが出来ない。ただし、正月1/1~1/7(期間は曜日の関係で、年によって異なる)と命日の9/22の例大祭には扉が開く。

このときは近くで参拝できるが、普段はムリなので

井伊谷宮3

望遠レンズを使って撮影!

井伊谷宮の御祭神である宗良親王は、後醍醐天皇の御子であり、歌人として有名であるが、南朝の将でもある。
井伊氏は、宗良親王を擁して南朝方に付いて戦ったが、北朝方に敗れ、その勢力は一時衰えた(後に盛り返したのが井伊直平である)。

井伊神社

宗良親王と共に戦ったのは、12代井伊道政・13代井伊高顕親子とされ、この両名をご祭神とする井伊社が、井伊谷宮の境内にある(井伊初代の共保をご祭神とする井伊神社とは関係が無い)。

 

井伊谷宮1

井伊社には手鏡を作法に則って奉納する。
その作法とは、手鏡守を授与していただき、虎目石はお守りとして身につけ、手鏡は、井伊家の通字「直」を円と井で囲んで奉納するというものである。

井伊谷宮2

ご祭神の宗良親王と井伊直虎とは直接の関係はないが、通常の宗良親王の絵柄の絵馬以外に直虎絵馬もある。境内には拝観無料の資料館があるが、展示物は宗良親王関係の品々で井伊氏関係の展示物は無かった。

 

さて、宗良親王については、

①井伊道政の娘と結婚し、子を儲けている。
②井伊谷城で亡くなられた。

という伝承が井伊谷にある。

宗良親王の弟は、「奥山半僧坊」の通称で知られる深奥山方広寺を開いた無文和尚であるので、「ご遺体を方広寺まで運べばいいのに」と思うが、ここに埋めたのは、大人の事情があったのであろう。改葬される前は、井伊谷城の大手門前に埋められていたという。

親王

宗良親王と井伊道政の娘の井伊重子(重姫、駿河姫)との間に生まれた子は、井伊谷では尹良(ゆきよし)親王だとされている。

ところが、尹良親王を祀る川宇連神社(かうれじんじゃ・愛知県北設楽郡豊根村坂宇場字御所平)へ行ってみると、尹良親王像の台座の「尹良親王事蹟」には・・・

親王2

尹良親王の母親は、井伊道政の娘ではなく、香坂高宗の娘とあった。
実は、研究者の間では、尹良親王の母親は香坂高宗の娘であり、井伊道政の娘が生んだのは、「興良親王」と「桜子姫」だとされている。
そして、興良親王の子孫が井谷氏で、桜子姫の子孫が井嶋氏である。

『井谷家譜』には、

宗良親王─興良親王─尹良親王─良王─正良…

とある。

尹良親王が宗良親王の子ではなく、興良親王となっている。興味深い家譜であるので、ぜひ取材に行きたいところだ。5代井谷和泉守正良が南朝狩りを避けて伊予国に逃れたので、当主(「当主」とは、「現在の宗主」のこと)は、今も愛媛県に住んでおられる。

一方、井嶋氏は浜松市に住んでおられる。縁結び観音や底が信州の諏訪湖に繋がっている「底無井戸」などで有名な井嶋氏の菩提寺・洞雲寺(浜松市西区神ヶ谷町)へ行ってみた。

洞雲寺1

井嶋家の始祖は、井嶋五郎兵衛忠道である。そして、井嶋家の家紋は、井伊家と同じ「丸に橘」である。

「五郎兵衛忠道碑」の背後にある石碑は・・・

洞雲寺2

井伊家始祖・井伊共保の石碑であった。井嶋氏は、以前は「桜子姫の後裔」と称していたが、最近は「井伊共保の後裔」と称している。

それはそうと、「五郎兵衛忠道碑」の碑文が非常に興味深い。

洞雲寺3

「永禄年間今川氏ノ爲ニ井伊谷城落城シ井伊氏一族四方ニ難ヲ逃ル中ニ五郎兵衛忠道アリ 洞雲寺ニ身ヲ寄セ井島ノ姓ヲ稱シ天正ノ初期神宮寺ヲ創立ス(後略)」

【大意】永禄年間、今川氏が井伊谷城を攻め、井伊氏は一家離散し、桜子姫の子孫の松千代は、龍潭寺を経て洞雲寺へと逃れてきて、神ヶ谷に土着した。井伊谷の「井」から姓を「井嶋」、通称は「五郎兵衛」、家紋は井伊家と同じ「丸に橘」とした。井嶋家の菩提寺として賀久留神社の南側に神宮寺を開基したが、明治43年(1910)、小学校建設のために廃寺となり、ご位牌等は洞雲寺に移された。

どこが興味深いかと言うと、「永禄年間に今川氏が井伊谷城を攻め、井伊家は、一家離散した」という点である。

永禄年間の出来事と言えば、

・永禄三年(1560)、桶狭間の戦い
・永禄五年(1562)、駿府に向かう途中の井伊直親が掛川城下で討たれる。

くらいしか思い浮かばない。

井嶋家の伝承では、家老の小野但馬守が、「桶狭間での大敗は、井伊直盛が反逆したためである」と今川氏真に讒言したため、氏真が井伊家根絶を決意、井伊谷城を攻め、井伊直盛を継いで宗主となっていた井伊直親を捕えて処刑したという。大敗の原因を、先鋒隊の松平元康(後の徳川家康)の反逆とする説はあるが、同じ先鋒隊の井伊直盛の反逆とする説は初耳である。

この井伊谷城の落城により、井伊一族は離散した。松千代は神ヶ谷に逃げ、「井伊家はもうダメだ」と井伊谷に戻るのを諦め、神ヶ谷に土着することにしたが、実際は、井伊直虎が宗主となって井伊家を立て直したのである。

ここまでは通説とは大きく異なる伝承である。

では、そもそもの通説とはいかなる話になっているのか?『寛政重修諸家譜』を見てみよう。

【寛政重修諸家譜】

直親(中略)永祿五年、家臣小野但馬道好、今川氏眞に讒し、直親、東照宮をよび織田右府に志を通じ、隱謀を企るの由を訴へしかば、氏眞これを誅せむとす。ときに今川の親族新野左馬助某は、直親かしたしき友なりければ、日來の志をしり、氏眞をとゞめ、いそぎ使して直親にそのむねを告。直親はすみやかに駿府におもむき、異心なきよしを申ひらかむとて、十二月十四日、遠江國掛川をすぐるのところ、城主朝比奈備中泰能その意をしらず、氏眞をせめむがためにゆくならむとおもひ、俄に兵を出して圍みうつ。直親、やむ事を得ずしてこれとたゝかひ、終に討死す。年二十七。法名宗慧。」(『寛政重修諸家譜』 ※「泰能」は死んでいるので、「泰朝」の誤り。)

【大意】

井伊直親は、徳川家康とその同盟者の織田信長に内通し、家老の小野但馬守が「井伊直親は徳川・織田と内通している」と今川氏真に内部告発すると、氏真は、直親を殺すように指示した。これに待ったをかけたのが、今川庶子家の新野親矩であり、親矩の必死の説得により、氏真は殺害命令を取り消したという。ところが、この取り消し命令が、掛川城主・朝比奈泰朝の耳には届いておらず、弁明のために駿府に向かう井伊直親一行を、泰朝は、駿府へ今川氏真を討ちに行く一行だと勘違いして成敗したという。

また、新野親矩に成敗中止を承諾した手前、駿府の親矩の前では殺せなくなったので、親矩の意見を取り入れたと見せかけて掛川で誅殺したという異説もある。

これは、「今川氏に背くとこうなる」という見せしめであり、今川氏は、井伊直親を殺したばかりか、さらに朝比奈泰朝に井伊谷城を攻めさせたというのである。

永禄5年(1562)の今川氏の井伊谷城攻めを伝える古文書がある。

『礎石伝』と『濱松御在城記』である。

◆『礎石伝』

「六十二 遠州城東郡新野村城主新野左馬助は、今川家之親族ニ而又井伊家共親類なれば、讒言之様子を聞出し候間早打二而井伊城え通達致しければ、井伊直親、永禄五年春三月二日早天、主従僅廿五人馬之頭を押並べ、只一散駆出し、懸川宿朝比奈が城下を罷過ける時、城兵大勢追取巻及合戦ける所、此度は今川家之疑念を申披んが為なれば、六具等之用意はなし。皆々素肌武者なれば主従廿五人不残討死也。永禄五年夏、懸川城主朝比奈備中守、井伊城を攻之。此時無主にして家之子郎等思様に防戦難出来、武備窮困して、旧功之家臣不残生害す。惜哉。井伊遠江介共保以来五百二十餘歳を経て、井伊城于茲落城したりけり。」

【大意】 永禄5年3月2日に、駿府に申し開きにいくために井伊城を出た井伊直親一行25人は、掛川城下で、今川方の掛川城主に討たれた。同年夏、掛川城主が井伊城を攻めた。城主・井伊直親が誅殺されたばかりで、次の城主がまだ決まっていなかったので、指揮する人がいなくて思うように反撃できず、落城した。

◆『濱松御在城記』

遠州引間ノ城主飯尾豊前守ハ、駿州今川ノ先鉾トシテ、尾州織田軍勢卜所々ニテ合戦、然ニ永禄三年十九日、義元、尾州桶狭間ニテ討死ノ後、氏眞、亡父ノ弔合戦之心掛モ無之、朝夕酒宴遊興二長ラルゝ故、権現様、永禄四年ヨリ信長公卜御和睦被成候。(自是先ハ、今川ト一味)遠刕引間ノ城主飯尾豊前守・同國井伊谷ノ城主井伊肥後守・同國嵩山ノ城主奥村修理ヲ始、大方氏眞ヲ叛キ、信長公及権現様江内通仕候。此由氏眞聞及、永禄五年三月ハ井伊谷、同年四月ハ引間、同七月ハ嵩山、此三城へ駿河ヨリ人數ヲ差向被攻候。井伊谷・嵩山ハ落去、引間ノ城ニテハ、寄手ノ大將新野左馬助討死。城内ニモ、飯尾同心渥美・森川・内田等ノ歴々討死仕候得共、猶堅固二守二依テ、氏眞、調略ヲ以テ、致和談候。此以後永禄七甲子、氏眞三州江發向、権現様卜所々ニテ攻合、同国一ノ宮ヨリ人數ヲ引取被申候刻、飯尾ハ権現様江御味方ノ躰相見候ニツキ、氏眞ヨリ遠州二俣ノ城主松井左衛門(初強八と申候哉)、豊前守姉婿ナルニヨリ、渠ヲ媒トシテ縁者二取クミ、駿府江呼寄、永禄八年極月廿日、駿府ニノ丸飯尾屋敷江押詰、被誅之、然共引間城ハ豊前守家臣江間安藝守・同加賀守持固候故、翌年二月、権現様より御慇之御書被下候由、」

【大意】永禄三年の桶狭間の戦い後、今川氏真は、父・義元の弔い合戦をせずに、遊興にふけっていたので、呆れ果てた徳川家康は、氏真を見限り、永禄四年、織田信長と和睦すると、三河・遠江国の国境付近の国衆に「あなたも氏真を見限ろう!」と声をかけた。すると、引馬(引間、曳馬)城主・飯尾豊前守連龍、井伊谷城主・井伊肥後守直親、市場城主・奥村修理亮貞隆が家康に内通した。これを知った氏真は、永禄5年3月に井伊谷城(浜松市北区)、同年4月に引馬城(浜松市中区)、同年7月に市場城(豊橋市嵩山町)を駿河国から兵を送って攻めると、井伊谷城と市場城は落城した。しかし、引馬城攻めでは、今川方の新野親矩が討死し、飯尾方の被害も大きかったが、落城はしなかったので、和談とした。永禄7年、今川氏真は、三河国に侵攻し、各所で徳川家康と戦ったが、「神君一宮砦後詰め」後に駿府へ戻り、「これで飯尾氏が徳川氏についたことがはっきりした」として、引馬城主・飯尾連龍の姉婿である二俣城主・松井左衛門(郷八)を介して話をもちかけ飯尾連龍親子を駿府に呼び、永禄8年12月20日、今川館内の飯尾屋敷で誅殺したので、引馬城は、2人の家老、江間兄弟が守ることになった。

「神君一宮砦後詰め」は家康の武勇伝の1つで、15000人の今川勢に囲まれた一宮砦を徳川家康がたった2000人の兵で蹴散らしたというものである。

余談になるが飯尾連龍亡き後の引馬城は家老の江馬(江間)兄弟が治めたが、兄は武田につこう、弟は徳川につこうと言って兄弟でもめ、兄が弟を殺してしまったばかりか、今度は弟の家臣が兄を殺して家老がいなくなってしまい、徳川家康に簡単に攻略されることとなる。家康は引馬(曳馬)が「馬を曳く」、つまり敗戦につながる縁起の悪い地名として、荘園名「浜松荘」から「浜松」と改め、引馬城も「浜松城」に改名された(『倭名類聚鈔』に「濱津」とある。)この引馬城は、浜松城の西の東照宮の位置にあった。

はたして井伊直親は、永禄5年夏の井伊城(井伊谷城)攻めで捕えられ、井伊谷で処刑されたのであろうか? それとも掛川城下で討たれたのか? 井伊谷城の戦いの時、井伊直虎は甲冑を身につけて戦ったのだろうか?

井伊直親が掛川城下で討たれたのは、『礎石伝』にある3月2日か、寛政重修諸家譜』などにみられる今までの通説、井伊城落城後の12月14日なのかは分からないが、井伊谷城で捕縛されて誅殺されたのではなく、掛川城下で誅殺されたのは間違いないと思われる。

というのも、井伊直政の嫡男である井伊直勝は、佐和山(彦根)藩主の大任を全う出来ないとして、安中藩に移封されたが、この時、「祖父である直親の菩提を弔いたいので、祖父が殺された掛川藩への移封を希望する」と申し出ていた(しかし、却下される)。直勝の子の直好の代に希望が通ると、直勝も直好と共に掛川に住み、掛川で亡くなった。墓は可睡斎(静岡県袋井市)にある。

 

おんな城主直虎 登場人物の史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

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著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

 





1位長篠の戦い 注目すべきは…


わろてんか伊能栞
(高橋一生さん)のモデル
小林一三とは?


2位 西郷隆盛49年の生涯!


3位 史実の真田幸村とは?


4位 最上義光 名将の証明


5位 ホントは熱い!徳川家康


6位 意外と優しい!? 織田信長さん


7位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


8位 毛利元就の中国制覇物語


9位 伊達政宗さんは史実も最高!


10位 最期は切ない豊臣秀吉


注目! 史実の井伊直虎とは?





井伊家 井伊直虎 井伊直政 小野政次 龍雲丸
織田家 織田信長 濃姫 織田信忠 織田信雄 織田信孝 三法師 平手政秀
徳川家 徳川家康 結城秀康 徳川秀忠 松平信康 酒井忠次 榊原康政 本多正信 水野勝成
豊臣家 豊臣秀吉 豊臣秀長 豊臣秀次 福島正則 加藤清正 豊臣秀頼
伊達家 伊達政宗 伊達成実 義姫
最上家 最上義光 鮭延秀綱 山形城 大宝寺義氏 山野辺義忠
毛利家 毛利元就 毛利隆元 吉川元春 小早川隆景 毛利秀元 陶晴賢
島津家 島津義弘 島津の退き口
真田家 真田幸村 真田信之
立花&高橋家 立花宗茂 立花道雪 立花誾千代 吉弘統幸
浅井・朝倉家 朝倉宗滴 姉川の戦い 金ヶ崎の退き口
前田家 まつ 豪姫 前田利長 前田利常
黒田家 官兵衛が長政を叱責の真相
北条家 河越夜戦 小田原征伐 のぼうの城の真実
細川家
仙石家
長宗我部家
武田・上杉家
諸家 足利義輝
剣豪・武術・忍者 宮本武蔵
キリシタン ルイス・フロイス
合戦 桶狭間の戦い 長篠の戦い 手取川の戦い 厳島の戦い 月山冨田城の戦い

◆薩摩藩 西郷隆盛 島津斉彬 大久保利通 小松帯刀 西郷従道
◆長州藩 木戸孝允 木戸松子 高杉晋作 山県有朋


◆古代 安倍晴明
◆江戸 葛飾北斎
◆世界史 クレオパトラ ルイ16世 チェ・ゲバラ


わろてんか あらすじ&感想レビュー

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