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おんな城主直虎特集 井伊家

『要塞化した井伊氏居館と桶狭間』 おんな城主直虎ゆかりの地を歩く~直虎紀行 参の巻

更新日:

 

地元浜松では「おんな地頭」として知られ、2017年大河ドラマの主人公でもある井伊直虎

彼女の足跡を自らの足で辿ってみよう!という当企画の第3回は、井伊氏の居城だった「井伊城」がテーマである。

二宮神社神主の中井直恕が著した『礎石伝』

よほどの城マニアでなければ全国的に無名なこの井伊城、詳細は、天保13年(1844)、二宮神社神主の中井直恕が著した『礎石伝』(※原文は記事末に掲載)に書かれている。

概要から申し上げると、同城は平安末期に井伊共保(ともやす)が建てた「井伊氏居館」 を本丸として、二之丸、三之丸が加えられて屋敷城となり、「井伊城」(あるいは「井伊谷城」) と呼ばれた。

井伊城2

屋敷近くにある城山には宗良親王を迎えた時に御所之丸が築かれたが、戦国時代に山の斜面が掻き上げられて堀と土塁が作られ、「城山城」や「掻上城」と呼ばれるようになった。住居部分では戦時に対応しきれないため、詰めの城として城山城を築いたのである。

観光ガイドでは、住居部分と城山部分を別物として扱い、「城山城を井伊谷城」として、さらには「本丸、二の丸、三の丸などの屋敷城を井伊氏居館」として紹介しているが、実際は1つの城だった。

『礎石伝』によると、その本丸には、

①「濫塔(らんとう)の松」
②「尹良(ゆきよし)親王の御胞衣塚」
③「井伊家礎石」
④「井伊大明神の宮」

があったという。まずはこちらを一つずつ見ていこう。

井伊城3

①「濫塔(の)松」

「濫塔」とは、ここでは「墓所」の意である。

「武田氏と内通している」あるいは「謀叛の企てあり」と讒言され、弁明のため駿府の今川館へ向かったところ、切腹を命じられた井伊直満・直義兄弟の墓(「井殿の塚」という)であり、そこに植えられていたのが2人の弟・直元(三人とも井伊直平の息子)が自ら手植えした巨木の松である。

『礎石伝』が書かれた江戸末期に、松は枯死して椎の巨木にもたれたとあるが、現在はタブノキの巨木が生えている。また、城内から先祖の墓と思われる五輪塔が時々出土したともあり、それもタブノキの根元に置かれている。

 

②「尹良(ゆきよし)親王の御胞衣塚」

『浪合記』には「尹良親王は、遠江国飯谷ヵ館にて誕生なり。御母は、飯谷井伊介道政女也」(飯谷=井伊谷)と記されている。

第3回の記事(詳細はコチラ)で示したように、尹良親王の母親は、井伊道政の娘の重子(駿河姫)ではなく、香坂高宗の娘の可能性が高い。なお、「御胞衣塚」 も、榊の大木も、現在は見当たらない。

 

③「井伊家礎石」

『礎石伝』という書名の由来となった石である。現在は確認できない。

 

④「井伊大明神の宮」(井伊神社)

井伊大明神とは、「井伊八幡」と呼ばれる八幡神の化身・井伊共保のことであり、井伊神社は井伊城の鎮守社として祀られていたが、現在は二宮神社に合祀されている。

井伊谷宮(ご祭神は宗良親王で井伊谷龍潭寺の横にある)の境内社である井伊社と、こちらの井伊神社は直接関係がない。※井伊社のご祭神は宗良親王を擁して北朝軍と戦った井伊道政・高顕親子。

一方で佐和山龍潭寺の参道脇にある井伊神社(滋賀県彦根市古沢町)は、井伊谷八幡宮から井伊大明神をご分霊し、ご神像を造って祀ったのが創始の神社である。天保13年(1842)、彦根12代藩主の井伊直亮が井伊共保750回忌にあたって祀った。

なお、江戸時代に入ると、井伊氏は彦根に移り、井伊谷は五近藤※の「井伊谷近藤氏」が領することとなった。このとき陣屋は、井伊城の三之丸に建てられたという。※「五近藤」とは、井伊谷、金指、気賀、大谷、花平に分家した近藤氏のこと

現在、井伊氏居館跡は住宅が立ち並び、当時の面影を残すものはほとんど皆無。唯一と言っていいのが北西の端にある「井殿の塚」だけである。逆に言えば「この場所だけは壊してはいけない、残さなくてはならない」という場所だと推察できる。

井伊氏居館の北には、南北朝時代に宗良親王のための二宮御所が建てられた。そして戦国時代は井伊直満の屋敷となった。

円通寺足切観音堂

円通寺・足切観音堂

彼の死後は、井伊直満・直義兄弟の菩提寺「円通寺」(龍潭寺末寺)となるが、三方ヶ原の戦い後、山県隊によって焼き払われてしまう。 そして月日を経ること約400年、昭和31年(1956)に円通寺と明円寺が合併して晋光寺となった。上記の写真は江戸時代に再建された円通寺の足切観音堂である。

 

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井伊氏居館に住んだ直平、直宗、直盛、直虎の事跡

井伊直満は、井伊一族ではあるが、宗主ではないので、井伊氏居館には住めなかった。住んだのは、宗主(「虎の目の一族」)の
井伊直平(20)─井伊直宗(21)─井伊直盛(22)─井伊直虎
である。

今回は、年齢についての考察を加えつつ、この4人の事蹟をまとめておきたい。

20代井伊直平(なおひら・1479/1489-1563)

井伊直虎の曽祖父で母親は不明。

直平は、今川氏の命で、今川から武田に付いた杜山城(犬居城とも)の天野氏を討ちに行く途中、落馬して亡くなった。井伊氏の勢力圏遠江を狙う味方に毒殺されたという説もある。※毒殺したのは引馬城主の飯尾連龍説と、飯尾連龍の妻のお田鶴の方説がある。飯尾毒殺説は、飯尾が天野と共に武田に寝返っていたからとする。(後に飯尾は徳川に寝返る。)お田鶴の方説は、お田鶴方が天野の縁者(一説に妹)だからとする。

この時、従者の大石作左衛門が直平の遺体を大石の故郷の川名に運び、遺体を埋めると殉死したという。

その後、埋めた遺体を掘り返して龍潭寺に移さなかったことを考えると、川名に埋められたのは直平の遺志であり、彼の母親が川名の大石氏であった可能性が高いという。

また、直平には複数の側室がいたことが分かっている。川名では、そのうちの1人が殉死している。

 

21代井伊直宗(なおむね・?-1542)

井伊直虎の祖父である。

今川氏の命で出陣し、田原城を攻め落とした後、残党によって殺された。

 

22代井伊直盛(なおもり・1506-1560)

井伊直虎の父である。

直盛は、多くの寺社を建てたことで有名で、『井伊家伝記』には「報恩寺、大藤寺、円通寺、神宮寺村八幡宮、渋川村八幡宮、同村万福寺、都田村八幡宮、小野村大宝寺、領内神社仏閣数多御建立・御寄進の地有之候」とある。円通寺は先に書いたように井伊直満・直義の菩提寺となり、大藤寺は、井伊直親の菩提寺となった。

なお、「井伊共保出生の井」を整備して井伊家菩提寺の龍潭寺に寄進したのも直盛であり、「龍潭寺」は、直盛の戒名である。

井伊直平には、「1479年生まれで85歳で没」説と「1489年生まれで75歳で没」説があるが、孫の井伊直盛は1506年生まれと判明しており、1479年生まれであれば直盛と27歳差になる。1489年生まれであれば、17歳差となる。孫と17歳差というのは、生物学的に無理であろうから、おそらく1479年生まれであろう。

それにしても27歳差というのは、たとえば直平が13歳の時に直宗が生まれ、直宗が14歳の時に直盛が生まれたというギリギリの年齢差である。

井伊直盛は1560年の桶狭間の戦いで55歳で亡くなったとされているが、『寛政重修諸家譜』には「桶狭間にをいて義元とともに討死す。年三十五」とある。桶狭間で35歳死亡説を採ると1525年生まれとなり直平との年齢差が大きくなるので辻褄が合いやすい。また、共に直平を祖父とする井伊直親(井伊直虎の許婚)との年齢差も10歳差となって具合が良いが、井伊直虎が井伊直親と同じ1535年生まれであるとすると、10歳の時の子となってしまう。

 

井伊直虎(なおとら・?-1582)

他の戦国時代の女性同様、生まれた年も幼名も不明である。

ただし没年については1582年と判明。死亡時の年齢は43歳説(→1539年生まれ)と47歳説→(1535年生まれで井伊直親と同じ)の2説がある。

名前に「虎」とあることから、寅年生まれで、徳川家康と同じ1542年または一回り上の1530年生まれとする説もある。伝承では、「直親より年上」であるから、1530年生まれ(5歳年上)なのかもしれない。

井伊直虎家系図3

この系図を見ると、直親は、直虎の父親世代の人間であって、直虎よりかなり年上だと思われるが、直宗(長男)と直満(次男?)の年齢が、親子ほど離れているので、直虎と直親は同世代なのだという。

以下は、龍潭寺の「開山過去帳」の末尾に南渓和尚が書いたとされる覚え書きである。

「心翁舎弟刑部尉道鑑間名代是牧田三頼ヲ下地ニテ打死。其息彦次郎是ハ安溪玄岱申。其息肥後守戒名剣峯宗恵申也。只今於浜松申井伊兵部少輔殿申是也。」

訳すと『「心翁(直宗)」の舎弟(弟)「刑部尉道鑑(直元)」は討死。その息子の「彦次郎(直満)」も逝去。その息子の「肥後守(直親)」の戒名は「剣峯宗恵」である。現在、(その息子の)「井伊兵部少輔殿(井伊直政)」は浜松にいる。』となる。

つまり、南渓和尚は、

井伊直虎家系図4

と言っており、直虎と直親は同世代ということになる。

 

さて、井伊直親が信州の松源寺に逃げたのは、9歳の時(1544年12月29日)であり、彼の婚約者である直虎は1544年以前に生まれていたことは確かである。

多くの研究者は「井伊直虎が生まれたのは、井伊直親が生まれた1535年±5年」と想像しているが、父直盛を1506年生まれとしたら、24歳~34歳の時の子となり、十代半ばで嫡男を儲けた直平や直宗と大きく事情が異なってしまう。

井伊直虎の母(祐椿尼)は、天正6年(1578)に亡くなっている。直虎が亡くなったのはその4年後の天正10年(1582)である。直虎が母と同じ年齢まで生きたのであれば、4歳の時の子となり、生物学的にはありえない。

直虎が、母14歳の時の子だとすれば、母よりも10歳短命だったことになる。直虎の死亡年齢は50歳前後と考えられているので、母親の死亡年齢は60歳前後ということになろう。

かように戦国武将の年齢(生没年)を考えると、頭が混乱することが多い。

これを一気にスッキリさせる方法は、

①記録(古文書)が間違っている。

②実子ではなく、養子。

と考える事であるが、あくまでも最終手段。直虎一族については、まだまだ研究の余地がありそうだ。

 

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井伊直盛切腹の地 桶狭間

桶狭間古戦場公園

桶狭間の戦いについては、『井伊家伝記』に、

「今川義元駿遠三之大軍勢を催出張。五月十九日所々之軍尓打勝て少々間休息油断之所江、信長謀計を以急ニ攻掛。軍兵を二手尓分、一手ハ先手ニ掛、一手ハ義元之本陣江急攻掛、織田造酒丞、林佐渡守攻入、毛利新助終ニハ義元を討ち取申候。依之、近習六十餘人不残、或ハ戦死、或ハ切腹、皆々傷害也。直盛公右之人数之中や。」

【意訳】織田信長は、軍勢を二手に分け、先陣と本陣を攻めた。今川義元が討ち取られると、帰国する者もいたが、近習に選ばれるような立派な武将たち(約60名)は、全員、討死、あるいは、追い腹をして死んだ。井伊直盛も近習(先陣の大将)であり、逃げ帰るような事はせず、遺言を残し、奥山孫市郎の介錯で、追い腹して果てた。

とある。

軍勢を二手に分けて、先陣と本陣を攻めるという戦法は『松平記』に次のようにある。

「永禄三年五月十九日昼時分大雨しきりに降。今朝の御合戦御勝にて目出度と鳴海桶はざまにて、昼弁当参候処に、其辺の寺社方より酒肴進上仕り、御馬廻の面々御盃被下候時分、信長急に攻来り、笠寺の東の道を押出て、善勝寺の城より二手になり、一手は御先衆へ押来、一手は本陣のしかも油断したる所へ押来り、鉄炮を打掛しかば、味方思ひもよらざる事なれば、悉敗軍しさはぐ処へ、山の上よりも百余人程突て下り、服部小平太と云者長身の鑓にて義元を突申候処、義元刀をぬき青貝柄の沙也鑓を切折り、小平太がひざの口をわり付給ふ。毛利信助と云もの義元の首をとりしが、左の指を口へさし入、義元にくひきられしと聞えし。」

さて、「桶狭間の戦い」は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)、尾張国の桶狭間で行われた合戦であることは説明するまでもないだろう。

この9日前の5月10日に井伊直盛と松平元康(後の徳川家康)を大将とする今川軍の先鋒隊が駿府(今川義元の本拠地である静岡県静岡市)を出発。遅れること2日の5月12日、今川義元本隊も出陣した。

井伊直盛が陣を張ったのは「幕山」(愛知県名古屋市緑区有松町大字桶狭間幕山)である。

陣の周囲に張られた幕が「幕山」という山名の由来と言い、古い本には「幕山には二俣城主・松井郷八郎宗信が陣を敷いた」とあるが、現在、 松井宗信は、高根山に陣を置いたと考えられている。

その幕山の約300m南に「巻山」(まきやま)がある。

イヌマキが生えている「槙山」であったが、井伊直盛が織田軍にとり巻かれて自刃したことから「巻山」と表記されるようになったという。太平洋戦争時には高射砲部隊の対空陣地が置かれた場所で、現在は名古屋市立桶狭間小学校となっている。

この桶狭間小の東方約200mに、上の写真の桶狭間古戦場公園がある。

 

「桶狭間の戦い」に加わった井伊谷勢は、200人とも、300人とも、500人ともいわれている。死者は100人とも、ほぼ全員ともいわれており、定かではない。

桶狭間討死十六人の墓

「桶狭間の戦い」が、井伊家にとって痛かったのは、宗主が切腹したというだけではない。庶子家の奥山氏や上野氏といった井伊家にとって重要な16人の武将が討死したことである。

この16人は、「桶狭間討死十六人の墓」として龍潭寺に葬られている。

その十六人は、『井伊家伝記』によれば、

・小野玄蕃(小野亥之助の父)
・田中善三郎
・奥山彦市郎
・奥山六郎次郎(奥山因幡守嫡子)
・小野源五
・上野惣右衛門
・上野源右衛門
・上野彦市郎
・多久郷右衛門
・気賀庄右衛門
・御厨又兵衛
・市村信慶
・牧野市右衛門
・上野孫四郎
・奥山彦五郎
・袴田甚八

である。

中井直恕の写本では、岩井庄右衛門と自分の先祖の中井宗兵衛を加えた18人とある。

この桶狭間の戦い後、今川氏の勢力が減退し、「遠州忩劇」と呼ばれた時代に突入して行くことになる。

続きは「肆(四)の巻」へ。

 

おんな城主直虎 登場人物の史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

 

『礎石伝』による井伊城原文

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「井伊古城」地は、「井伊明神社」中に相成申候。凡本丸之内、南方壱丁半余は堀之内より土手之上迄壱丈位も在之候。大手御門の場所、南方の真中より少し東へ寄申候。西方の南へ寄申候而「御所之丸」え通申候門在之候。又、坤方之隅に鞁楼在之候由申伝へ候。
西方に堀在之候えども、今は浅く相成申候。
北方、東方は堀の形無御座候。
「井伊大明神の宮」相建申候場所は、古今同所に御座候。宮の前に而少し南へ寄申候所、「井伊家礎石」、昔より御座候事。宮の三間計南に、昔より「井戸」御座候。水も在之候。是、則、名井なる由申伝へ候。宮の前、但し下の段に昔の「築山」、石十余も苔一面に生茂りて建並べり。実に物さびたる風景言語にのべがたし。
宮の地へ少し寄たる所に「御胞衣塚」と申所之石上に「榊の大木」在之候。昔、南朝二品尹良親王御誕生所也。応永十九年壬辰年夏四月関東御下向の節は、一品征夷大将軍正二位中納言兵部卿尹良親王、御母は、井伊重姫と『浪合記』に御座候。
「井伊古城」乾隅に「井伊家の古墳」御座候。是は於駿州而被成御生害候井伊彦次郎直満候。同直義候。御両人の御墓所に御座候間、于今神主家に而祭礼相勤申候。「松の古木」在之候処朽折候而、今は「椎の大木」に寄懸り居申候。俗に「濫塔松」と申候。且又、往古御先祖様方御墓所も御城内にも御座候歟、折々、「五輪石塔」等ほり出し候事も御座候。扨、「濫塔」と申候事は多分に事にも被存候。井伊直元御法躰被成候而、「隠龍院」に住せ給ふ。此右御両公の為供養塚を被為築候而、彼の松を手づから被植給ふと申伝へ候。
「井伊城本丸」と申候所、凡北より南の段下迄弐町半余、又、東西壱町半余如此御座候。
井伊の城郭地面の儀は、山の巽方本丸にして、南より西へ推廻り式・三之郭在之候。且、「信州往還」筋も只今の道よりは余程東へ寄候而、南方は「鎌田橋」より始、北は「興禅庵」へ付当り候而、西へ折曲り、「二宮大門」より北へ往来在之候。尤、「円通寺」門前より北には町家は一向無之所也。永禄五年迄、如此御座候。其後、只今の往来町家筋は出来申候也。
「御所之丸」と申候は、山の絶頂に御座候。「大手御門」は、巽口に在之候。「搦手御門」は、西方の南へ寄坤方口に御座候。北方に岩、御座候。是を「陵石」と称し申候。此「出丸」に一品将軍宮宗良親王入御坐々ける。此所より南海を一面に見下し申候。
以上 中井直恕著『礎石伝』より引用

 

 





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