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おんな城主直虎特集 井伊家

『井伊谷七人衆』 おんな城主直虎ゆかりの地を歩く~直虎紀行 伍の巻

更新日:

 

2017年大河ドラマ主人公・井伊直虎の足跡を追う『直虎紀行』。

彼女の地元浜松でゆかりの深い史跡や寺院へ足を運び、400年前の「おんな城主」に迫ろうという当企画。これまで「井伊家発祥の井戸」や「龍潭寺」などを訪れたが、今回取り上げたいのは井伊直虎の家臣たちである。

いったい井伊谷では、どのような家臣団が編成されていたのか? そこには「七人衆」と呼ばれる有力なメンバーが揃っていたのであった。

 

井伊谷七人衆の下に親類衆などの配下が連なっていた

もともと今川家に仕えていた井伊家は、いわゆる有力な国人衆であり、彼らの下にも多くの家臣がいた。

『引佐町史』では、井伊氏家臣団の構造を

井伊氏―小野氏(家老=年寄)─井伊谷被官衆・井伊谷親類衆

としており、「おんな城主 直虎」の時代考証担当者である小和田哲男氏は次のような説を提唱されている。

「井伊氏の家臣団構造をみておこう。(中略)井伊氏の親類で、本家から分かれた庶流家がこの「井伊谷親類衆」であった。(中略)赤佐・奥山・石野・田中・井平・谷津・石岡・田沢・松田・上野・岡・中野氏らが「井伊谷親類衆」ということになるが、特に中野氏は、一番遅く生まれた庶流家ということもあり、かなりの力をもっていたようである。『井伊家伝記』によると、井伊直盛が桶狭間で討死のとき、「遺領は中野越後守に預ける」と遺言したほどであった。井伊氏家臣団のもう一つの柱は「井伊谷被官衆」である。史料的には、「都田上下給人衆」、「瀬戸衆」などがあり、都田・瀬戸・祝田といった地域武士集団である。(中略)それぞれ、都田や瀬戸に居住している在郷家臣であった。」(『引佐町史』小和田哲男氏の執筆担当部分)

生意気を申し上げるようで恐縮だが、私の考えは小和田氏とは少々異なる。

井伊氏(直虎・虎松)─井伊谷七人衆─親類衆・被官衆

つまり小野氏は家老ではあったが、あくまで井伊谷七人衆の一人であり、その下に多くの配下が連なるという考え方だ。

まずは頭領たる「井伊氏」の内訳については、『井伊家伝記』にこんな記述がある(茶色の文字が訳文)。

(原文)「新野左馬助、中野信濃守討死の後、次郎法師、地頭職御勤、祐椿尼公(直盛公の内室なり)、実母、御揃、直政公御養育申候えども、皆々女中斗故、但馬諸事取斗我儘斗致、何とぞ井伊谷を押領可仕旨相巧み申候」

(訳文)「新野左親矩と中野直由の討死の後、次郎法師が地頭となり、祐椿尼(井伊直盛の妻)、井伊直政の実母、の3人が揃って直政を養育したが、皆女性であったので、小野但馬守が取り仕切ってやりたい放題であり、何とかして井伊領を横領しようと企んでいた」

文字通り「虎の子」であった虎松(後の直政)を3人の女性が守り、この井伊家・新野家・奥山家の3人の女性の強力タッグなくして、虎松の存命はなかった。

3名の女性をあらためて確認してみよう。

◆井伊直虎:井伊家宗主・虎松の後見人
◆井伊直虎の母:新野親矩(今川方の重臣)の妹(娘とも)
◆虎松の母:奥山朝利(井伊家庶子家・奥山氏)の娘

彼女らがしっかり組み合って後の井伊直政をフォローしていた。

引き合いに出して申しわけないが、例えば徳川家康の嫡男・信康が城主であった岡崎城には、

◆於大の方:徳川家康の母(水野氏)
◆築山殿:徳川家康の正室(今川氏)
◆徳姫:信康の正室(織田氏)

の3人の女性がおり、こちらは見事に不和である。

家康の母・於大の方は、今川氏を嫌っており築山殿に冷たく当たった。築山殿は、夫が今川氏から離反したため氏真の怒りを買い、両親が自害するはめになった。そして徳姫は、築山殿とソリが合わず「自分の夫である信康が乱暴者で姑の築山殿は武田氏と内通している」と父(織田信長)に内部告発している。

上記の経緯については真贋が微妙ながら、いずれにせよ彼女らの不協和音が信康を死に追いやった一因であることは間違いないであろう。3人の女性が「(我が孫、我が子、我が夫に)徳川家を継がせたい」と強く願い、それを妨げるような行動を控えていれば、信康が徳川二代将軍になっていた可能性は決して低くはないハズだ。

 

話を「井伊谷七人衆」に戻そう。

直虎が城主であった時代の「井伊谷七人衆」は、筆頭家老の小野政を中心とする直虎のブレーンであった。

①小野氏:井伊家筆頭家老
②中野氏:井伊家の庶子家
③松下氏:後に徳川家臣
④松井氏:二俣城主
⑤近藤氏:後に徳川家臣になった「井伊谷三人衆」の一人(宇利城主)
⑥鈴木氏:後に徳川家臣になった「井伊谷三人衆」の一人(柿本城主)
⑦菅沼氏:後に徳川家臣になった「井伊谷三人衆」の一人(都田城主)

彼らも、それぞれが小さいながら一城の主(土豪・小領主)である。

今回はそれを一人ずつ確認していきたい。

 

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①小野氏

直虎紀行5-17

篁屋敷跡(浜北区尾野)

大河ドラマで話題になるであろう小野氏の本貫地は、 遠江国赤狭郷小野村(現在の静岡県浜松市浜北区尾野小野海道)である。

小野村は、小野妹子の子孫でもあり百人一首でも有名な小野篁の長男・小野俊生が開拓した土地で、字の「小野海道」は「小野開土」の意だと言う人もいる。ただ、「かいと・かいつ」の語源は「垣外・垣内」であり、館跡によくある地名である。※1

小野篁が病死すると、小野俊生は、父の骨臓器を山ノ神の祠の横に塚を築いて埋め、篁神社(篁稲荷の祠)を建設。その後、篁(たかむら)神社→多賀村(たがむら)神社→多賀神社と変化したという。

現在、多賀神社は無く、その後身社は、高根神社(浜北区尾野)とも、六所神社(浜北区宮口)ともされている。

なお、篁屋敷跡の石碑(上の写真)には、

右の石碑:小野朝臣篁之墓
中央の石碑:仁寿二年十二月二十二日薨 東宮学士兼参議左大弁従三位/文政巳年奉再建
左の石碑:篁屋敷之随仙□□□ 建者小野村□□□助者

と刻まれている。

※1 江戸時代に井伊谷を領した井伊谷近藤氏は、「細江町にも小野があり、領内に同じ地名があると混乱する」と言い、「(浜北区尾野は)領地の端にある(動物で言えば尾の位置にある)」として、慶長8年(1603)に「尾野」と表記を変えた。

《小野氏系図》

現存する小野氏系図は多種多様であるが、小野和泉守は26代とされる。

1小野妹子…23重艶─24政房(正房)─25兵庫助重正─26和泉守政直…

直虎を追い出すことに成功した小野但馬守は、井伊谷城の三之丸に屋敷(後の井伊谷近藤氏陣屋)を建てて移り住んでいたが、その栄華は短く、元亀元年(1570年)、親子共々徳川家康に処刑され、小野和泉守、但馬守と続いた家老家は絶えた。

直虎紀行5-2

蟹渕(井伊谷) 小野但馬守が処刑された場所

小野但馬守は井伊谷城の落城後、洞窟に隠れていたところを近藤氏に発見されて捕縛されたそうだ。

『井伊谷旧記』には、怨霊と化して中井氏(二宮神社の宮司家)を祟ったとも記されているため、小野但馬守を発見したのは中井氏で、その功績により二宮神社の宮司家に抜擢されたのではないかと想像できる。

中井氏は、鎮魂のために但馬明神を小野屋敷(井伊谷城三之丸)に建て、その後、新領主の井伊谷近藤氏は三之丸を陣屋とした時に取り除いてしまった。そして二宮神社を「二宮神社本殿跡」碑がある場所から現在地に遷座する時、ご神託により、鳥居横に「但馬社」を建てた。

現在、その但馬社は、拝殿横の天王社に合祀されている。

 

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②中野氏 

直虎紀行5-6

中野初代直房~四代直之の墓(井伊谷龍潭寺)

井伊直盛(井伊直虎の実父)が桶狭間で切腹すると、養子の井伊直親は、
「いよいよ自分の出番だ」
とはりきったに違いない。

ところが、井伊直盛が奥山孫市郎に告げた遺言は、以下のとおりであった。

(原文)「今度不慮の切腹不及是非候。其方介錯̪̪仕候て死骸を国え持参仕、南渓和尚、焼香被成る候様に可申候。扨又、井伊谷は、小野但馬の心入、無心元候故、中野越後守を留守に頼置候。此以後猶以小野但馬と肥後守主従の間、無心元候間、中野越後守に井伊谷を預け候て、時節を以、肥後守、引間え移替申候様に直平公に委細可申」(『井伊家伝記』)

(訳文)「今、思いもかけず切腹する事になったが、これは致し方ない事である。お前は、介錯して(私が腹を切ったら、私の首を刎ねて)、遺体を井伊谷へ運び、南渓和尚に埋葬などを頼むように。あと、井伊谷城は、小野但馬守道好(道政)の心入り(計らい)が気がかりであるので、中野越後守直由を井伊谷城の留守居役(井伊直親の後見人)として置き、これ以後は、なおも、小野但馬守道好と井伊肥後守直親との主従関係が心配であり、中野越後守直由に井伊谷城を預けている内に、頃合いを見計らって、井伊肥後守直親を引馬城へ移すよう、井伊直平公に詳しく伝えるように」

この遺言により、中野越後守直由は、井伊宗家が名乗る武家官位の「信濃守」を用いて「中野信濃守直由」と名乗り、井伊領主となったのである。

中野家は、最も新しい庶子家であるので、その中では最も井伊家の血が濃く、発言権を持っていた(それまで庶子家の中では奥山氏が最も強大な勢力を持っていたが、奥山氏の主な人物は桶狭間の戦い等で死んでしまったので、「井伊谷七人衆」には名を連ねていない)。

《中野氏系図》

井伊忠直─1中野直房─2直村─3直由─4直之─5三孝…

◯三代目・中野直由(?-1564)
井伊直親の後見人。井伊直盛の遺言で、井伊領主となったが、この相続に異を唱えた小野但馬守と戦い、中野氏に組した奥山氏の宗主(奥山朝利)が討たれる結果となった。その後、和解したのか、永禄7年(1564)9月15日、今川氏真の命により、新野兄弟(親道・親矩)と共に引馬城を攻めるが、あえなく天間橋で討死している。

◯四代目・中野直之(?-?)
中野直由の子。子は三孝と一定。

◯五代目・中野三孝(?-?)
中野直之の子。井伊家家老。弟は松下一定。

 

③松下氏

直虎紀行5-4

松下屋敷(頭陀寺城)跡

信州での井伊直親の世話は、井伊直満(直親の実父)の家老であった勝間田(今村)藤七郎正実が行っていた。

が、井伊谷に帰還すると、井伊谷の状況がよく分かっている松下源太郎清景が世話役(直親の家老)に。

井伊直親の死後、松下清景は、弟・常慶の紹介で徳川家康に仕え、直親の正室(井伊直政の生母)を娶り、虎松(後の井伊直政)を養子にした。この松下虎松は後に徳川家康の小姓となり、復姓を許されて「井伊万千代」と名乗ったため、松下家に子がいなくなった。そこで、中野直之の次男の一定を養子に迎えた。

松下氏の本貫地は三河国碧海郡松下郷(現在の愛知県豊田市枡塚東・西町)とも、遠江国の松下(現在の静岡県菊川市西方字堀田小字松下)ともいわれ、出自もハッキリとしない。

清景の子孫は、越後与板藩(藩主は与板井伊氏)の家老を代々務め、清景の弟である松下常慶入道安綱の子孫は火付盗賊改方を務めている。

若かりし頃の豊臣秀吉を雇ったという松下加兵衛之綱(頭陀寺の松下屋敷に住んでいた)や、虎松を保護したという鳳来寺松下氏は親戚にあたる。

松下清景は、徳川家康に仕えていたので、その家は浜松城の近くであることは確かであるが、その位置は分かっていない。

松下虎松(後の井伊直政)は、実母・継父(松下清景)と共に親戚の家(頭陀寺の松下屋敷)に住んでいたという説もあるが、手習いを頭陀寺ではなく浄土寺で行っているので、浄土寺の近く、すなわち、浜松城下の松下清景宅に住んでいたものと思われる。

 

④松井氏

直虎紀行5-14

信康の墓がある清瀧寺(天竜区二俣)

遠江松井氏の本貫地は、山城国葛野郡西院松井(現在の京都市右京区西院町松井)で、鎌倉時代は幕府の御家人として山城国に住んでいたという。

《遠江松井氏系図》

松井宗能─貞宗─信薫(兄)─宗信(弟)─宗恒

松井山城守宗能は、堤城(静岡県菊川市下平川字堤)を築いて住み、松井山城守貞宗(「八郎」「兵庫助」とも)に跡を譲った。

貞宗の長男の松井左衛門亮信薫は、今川氏の命で永正11年(1514)、米倉城に移った二俣氏に代わり二俣城主(笹岡城主)になり、堤城は廃城となった。その信薫が病死すると、弟の松井左衛門佐宗信(「郷八郎」「強八郎」「五郎八郎」とも)が継ぎ、新たに蜷原城を築いて笹岡城を居館としている。

この松井宗信は、今川義元の武将として三河国各地で歴戦したが、永禄3年(1560)の「桶狭間の戦い」で討死。宗信の長男・松井山城守宗恒(「八郎」とも)が跡を継ぐも、今川氏から徳川氏に寝返った引馬城主・飯尾連龍と姻戚関係にあったので、今川氏真に駿府へ呼び出されて謀殺されたという。

松井宗信の弟・松井因幡守助近(「兵庫助」とも)の子孫は二俣に土着した。今川氏真時代の古文書には、松井相模守・松井又七郎・松井八郎三郎(宗信の弟)・松井内膳などの名が見え、これらのうちの誰かが、井伊直虎時代の「井伊谷七人衆」であると考えられる。

※二俣では、北から南へ笹岡城(二俣古城)、蜷原城、二俣城、鳥羽山城が一直線上に並んでいる。古文書では全て「二俣城」として登場するので、古文書の「二俣城」がどの城であるか注意しながら読む必要がある。

 

さらに彦根市の松居家に奇妙な文書がある。

(原文)「松井郷八郎 居城、遠州二俣。老年、引佐郡瀬戸村ニ蟄居。法名、入道方久。井伊信濃守直盛、於尾州桶狭間戦死今川義元為于時、井ノ谷成空城、直盛ノ息次郎法師因為地頭職為後見従。家康公則瀬戸方久托預井伊領。」(「松居家文書」)

一つずつ疑問点を挙げていきたい。

> 松井郷八郎 居城、遠州二俣。
松井郷八郎宗信は、遠江国二俣の二俣城主であった。これはわかる。

>老年、引佐郡瀬戸村ニ蟄居。法名、入道方久。
年老いたので、城主を引退し、瀬戸村で余生を送った。法名は「方久」である。ということは、松井宗信が瀬戸方久になったということであるが、松井宗信は桶狭間で討死している。

>井伊信濃守直盛、於尾州桶狭間戦死今川義元為于時、井ノ谷成空城、直盛ノ息次郎法師因為地頭職為後見従。
井伊直盛が桶狭間の戦いで死ぬと、井伊谷城が空城になったので、直盛の子の次郎法師が地頭職を継ぎ、松井宗信は後見人になったという。直盛の跡を継いだのは、娘の次郎法師ではなく、養子の井伊直親である。「後見人」とは、「井伊谷七人衆」のことか。

>家康公則瀬戸方久托預井伊領。
徳川家康は、瀬戸方久ではなく、井伊谷三人衆に旧井伊領を与えた。

瀬戸方久は、瀬戸村の豪商(新興高利貸し)で、井伊家も彼に多額の借金があったらしい。「おんな城主 直虎」では重要人物であり、先頃発表されたキャストではムロツヨシ氏が演じるようだ。

瀬戸方久=松井宗信=新田喜斎とする説がある。井伊直平の家老で、気賀領主とされる新田喜斎には娘がいたが、息子はいなかったので、松井宗信の息子を養子にした。このため新田喜斎は松井宗信と混同されたという。新田喜斎は新田氏(名倉氏)で、瀬戸方久は松井氏である。研究者によれば、瀬戸方久とは松井総十郎のことだそうであるが、俗説は「貧農から豪商になった人物」であり、NHK大河「おんな城主 直虎」では、「無一文から商売で成功をおさめ、井伊家の 財政を揺るがすほどの力を持つ豪商に」とこの俗説が採用されている。

※二俣城は、徳川家康の嫡男である信康が切腹したことで有名な城である。信康の墓は、二俣城址に近い「清瀧寺」にある。 「清瀧寺」に「井伊直虎ゆかりの地」の案内板がある理由は、「信康も直虎も、井伊直平の曾孫だから」だそうである。なお、二俣氏の菩提寺は、玖延寺(浜松市天竜区二俣町阿蔵)で、松井氏の菩提寺は、平成15年(2003)に全焼した天龍院(磐田市上野部)である。

松井氏は今川氏の被官である。「井伊氏家臣団」の「親戚衆」は相次ぐ戦いで数が減り、「被官衆」にしても、井伊谷の土豪は討死して、今川氏の被官が多くなったと考えられる。

井伊谷徳政令を井伊直虎ではなく、今川氏真が出していることからしても、井伊氏は国衆(国人領主)から、戦国大名になった今川氏の家臣(家来)へと変わったように感じられる。

 

近藤石見守康用(井伊谷三人衆とも)

直虎紀行5-3

近藤氏墓所(新城市中宇利)

近藤家の始祖は、ムカデ退治で有名な藤原秀郷である。

その秀郷の後裔である藤原脩行は、近江国司となり、近江国の「近」と藤原の「藤」で「近藤」と称したのが近藤氏の始まりだという。つまり、「近江国の藤原氏」であり、「伊勢国の藤原氏」が「伊藤」と称したようなものである。
近藤初代脩行の孫の近藤景親は、駿河国司になり、島田に住んで、島田景親と名乗った。景親の長男の島田景重は、伊豆に移り、平治の乱において源義朝に従って討死した。次男である島田景頼の子孫の近藤直満が、三河国八名郡宇利に住した。

《井伊谷近藤氏系図》

藤原秀郷…近藤脩行-近藤行景-島田景親-島田景頼-島田能成-近藤直景…近藤直満-満用-忠用-庸用(康用)-秀用-貞用

近藤満用は、松平清康(徳川家康の祖父)に仕えた。

近藤氏の家紋は、藤原氏の「下がり藤」紋と「鹿角」紋である。満用の長男・乗直は、松平清康と鹿狩りをした時に、鹿を捕えると、その角を引き裂いたので、その腕力に驚いた清康から鹿角紋を与えられたという。しかし、戦いで歩行の自由を失い、家督は次男の忠用が継いだ。

近藤庸用(家康より「康」の一字を賜って「康用」と改名)の子の秀用は井伊直政と対立して出奔、後に徳川二代秀忠に仕えることになる。そして、彼の子孫は旗本「五近藤」家となった。通字は「用」(もち)である。また、宗家(金指近藤家)の通称は「登之助」である。

「五近藤」の始祖

・金指近藤家の始祖:貞用(秀用長男、宗家)
・気賀近藤家の始祖:用可(秀用次男)
・井伊谷近藤家の始祖:用義(秀用三男)
・大谷近藤家の始祖:用行(用可の子)
・花平近藤家の始祖:用伊(秀用の弟)

※宗家の近藤登之助貞用は、歌舞伎『幡随院長兵衛』に出てくる近藤登之助にして、小説『旗本退屈男』(作者は愛知県北設楽郡設楽町津具出身の佐々木味津三)の「天下御免の向こう傷」で有名な主人公・早乙女主水之助のモデルである。

 

⑥鈴木三郎太夫重時(井伊谷三人衆とも)

直虎紀行5-1

柿本城址

三河鈴木氏は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着した一族で、戦国時代には、寺部(豊田市寺部町)、酒呑(豊田市幸海町)、足助(豊田市足助町)などの諸家に分かれていた。通字は「重」である。

酒呑鈴木氏の鈴木長門守重勝は「白倉城」(新城市上吉田字白倉)を築いて居城とした。遠州に侵攻して、浜松城を居城とした徳川家康は、さらに、三河国から井伊谷に至る街道筋の下吉田に築城を命じた。

これが下吉田(新城市下吉田字柿本)の「柿本城」(「下吉田城」「山吉田城」とも。)である。

《山吉田鈴木家系図》

鈴木重勝─重時─重好

・井伊直親の母親は、鈴木重勝の娘(重時の妹)である。

・鈴木重好の母親は、井伊氏庶子家の奥山朝利の娘である。

鈴木重好は井伊直政に仕えて数々の戦功をあげた。
その後鈴木氏は、井伊家を離れ、水戸藩の家老を代々務めている。

 

⑦菅沼次郎右衛門忠久(井伊谷三人衆とも)

直虎紀行5-5

都田城址(北区都田町)

三河国の北部(山間部)の「奥三河」には「山家三方衆」(亀山城の奥平氏・田峯城の田峯菅沼氏・長篠城の長篠菅沼氏)がいた。

菅沼氏の発祥については詳らかではないが、三河国設楽郡賀茂郷菅沼(現在の愛知県新城市作手菅沼)に興った菅沼氏(菅沼の土豪の菅沼俊治)を、美濃国から進出してきた土岐氏(土岐定直)が討ち、菅沼氏と称したのが始まりだという。

宗家は、田峯(だみね)城主の田峯菅沼家であり、他に野田城主の野田菅沼家、長篠城主の長篠菅沼家など、庶子家は奥三河に分布しているが、「井伊谷三人衆」の菅沼忠久は、都田城主の都田菅沼氏である。

都田菅沼家は、長篠菅沼家の庶子家(菅沼俊弘は、長篠菅沼2代宗主・元成の二男)で、菅沼俊弘・元景親子が都田に住して、「都田菅沼氏」と称し、井伊直盛・直親に仕えた。忠久・忠道親子は、井伊直虎・直政に仕えた。宗主の通称は「次郎右衛門」である。

《都田菅沼氏系図》

菅沼1俊弘─2元景─3忠久─4忠道…

・菅沼忠久の妻は、鈴木重時の娘(重好の姉)である。

都田(静岡県浜松市北区都田町)は、『倭名類聚鈔』の遠江国引佐郡京田郷のことで、伊勢神宮の京田御厨があり、上下(上都田と下都田)に分かれ、京田神明宮(内宮と外宮)があった。

都田川の川畔に「都田王城」、山頂に「都田城」(上の写真)があったというが、「都田王城」は屋敷城(居館)であろう。

山頂には広い平坦地があり、都田城址とも、京田神明宮(内宮)跡とも、ミカン畑跡ともとれ、以前は石垣があったというが、今はなく、縄張りもはっきりとしない。

 

【番外編】新野左馬助親矩の本貫地(新野)

「おんな城主 直虎」で、「井伊谷七人衆」以外の重要人物は、井伊直親を救った勝間田(今村)藤七郎正実と、井伊直政を救った新野左馬助親矩と、井伊家の人間ではあるが南渓和尚であろう。

新野左馬助親矩は、今川氏一族であるが、井伊直虎の伯父、あるいは、祖父にあたる人物である。

小野但馬守の讒言により井伊直親が今川氏真に殺された後に虎松(後の直政)を保護したのが彼だ。

直虎紀行5-15

新野古城(八幡平城)

新野氏の本貫地は「新野」(静岡県御前崎市新野)である。

鎌倉時代の史料には、遠州の御家人として、井伊・横地・勝間田氏がセットで登場することが多いが、新野氏も登場する。すなわち、『吾妻鏡』の建久元年(1190)の記事の「新野太郎」、建暦3年(1213)の記事の「新野左近将監景直」、『承久記』の承久3年(1221)の「新野右馬允」らであり、彼らは「新野太郎系新野氏」とよばれ、その居城は新野古城(八幡平城)である。

南北朝時代の記録には、「新野」の名はみられない。

この時代の新野地区の記録は、釜原城(「鎌原城」とも)が南北朝初期の戦いで落城した――と『正道寺縁由記』に伝わる程度である。

直虎紀行5-16

新野新城(舟ヶ谷城)

そして戦国時代、再び「新野」の名が登場し始めた。

新野氏の出自は、

①『尊卑分脈』では、源義家八世孫の今川俊国が始祖だとする。
源義家…今川国氏─俊氏(入野)─俊国(新野)

②今川氏系図では、今川範国(駿河今川氏の始祖)の孫の満範が始祖だとする。
源義家…今川国氏─基氏─範国─貞世─満範(新野)

③『新野村誌』掲載の新野左馬介系図では、今川国氏の孫の義時が始祖だとする。
源義家…今川国氏─義為─義時(新野)

と諸説あり、史実は分からないが、いずれも今川氏であるので、「今川系新野氏」と呼ばれている。今川一族が新野に住んで、「新野」と名乗り、新野新城を築いて土着したのであって、「新野太郎系新野氏」と「今川系新野氏」は無関係とされている。

 

新野親矩の妻は、井伊系の奥山10代親朝の娘(奥山11代親秀(朝利)の妹)であり、新野親矩の妹(娘とも)は井伊22代直盛の妻となって、井伊直虎を生んでいる。

今川義元の指示による政略結婚であろうが、人質交換ともとれる。

直虎紀行5-7

今回は、新野左馬助の里である、御前崎市新野へ行ってみた。

新野親矩は、『新野村誌』には「新野左馬之介」とあり、家紋は「竪二引両」としているが、現在、新野では、「新野左馬助」と表記し、家紋は「二引両」(丸に横二引両)としている。

直虎紀行5-8

 

「新野古城」は「山」にあるが、「新野新城」は、「山」というより「岡」にあるので、「新野新城」が居館で、「新野古城」が居城のようにも思われる。

が、どちらも居城であろう。新野親矩は今川氏の重臣であったので、今川館に詰め、老後は井伊谷の新野屋敷に隠居したという。

直虎紀行5-9

左馬武神社の幟の家紋も、屋根瓦の家紋も「竪二引両」である。

今川範忠(駿河今川氏)は、「永享の乱」(1438-1439)での戦功により、将軍・足利義教から「天下一苗字」の恩賞を賜った。これは今川家の宗主(範忠の子孫)のみが「今川」という苗字の使用を許されるというもので、庶子家は、堀越(遠江今川氏)、小鹿、瀬名などに苗字を改めた。

この「天下一苗字」の規定により、新野氏は、「今川氏」と名乗れずに、本貫地の地名を用いて「新野氏」と名乗ったのである。

家紋についての使用規定は定かではないが、今川宗家の家紋である「横二引両」の使用を憚って、「竪二引両」にしたのではないだろうか。

直虎紀行5-10

祠の裏に掘った跡がある。

新野氏の墓は、石棺(石廟)に入れられて、埋められていたという。鎌倉の「ヤグラ墓」を模したものだとする説があるが、「横穴」を模したように見える。

いずれにせよ、まだ学術調査が行われていないので、はっきりとは言えない。新野一族の墓であろうが、新野親矩の墓であるかは分からないのである。

「古来、山ノ中腹ニ墳墓ノ地ト称スルアリ。人コレニ触レバ祟ルト。人ヲ雇イテアマネクコレヲ発掘スルニ石棺アリ。紋所ハ丸ニ竪中黒ニシテコレゾスナワチ新野氏ノ紋所ナリ。石棺内ニ五輪ノ塔アリ。」(『新野村誌』)

直虎紀行5-11

「新野左馬助公の墓」として、二基の五輪塔と石廟の破片が並べられているが、火輪が三個あることから、まだ未発掘の墓が少なくとも一基は埋まっていると考えられる。

 

左馬武神社

さて、新野親矩は隠居場所(終の棲家)に妹がいて、妻の実家も近い井伊谷とした。一説には、今川氏が井伊家の目付家老として送り込んだという。井伊谷小学校の西(引佐保育園の北)に「新野」という字があった。ここに屋敷を建てて住んでいたという。

永禄5年(1562)、事件が起きた。

井伊家筆頭家老の小野但馬守が、「井伊直親が徳川家康に内通している」と今川氏真に内部告発したのである。井伊直親は、すぐに新野親矩を駿府に派遣して今川氏真を宥めさせた。

さらに、井伊直親自身も陳謝に駿府へ行こうとしたのであるが、掛川城下で、掛川城主の朝比奈氏に討たれてしまった。さらに、今川氏真は、井伊直親の子である虎松(後の井伊直政)を討つように命じたが、新野親矩が「養子にする」、あるいは、「出家させる」と言って、再び今川氏真を宥め、虎松を引き取って保護したという。

また、新野親矩は、この時はまだ今川館に住んでいたとする説もある。小野但馬守の内部告発を今川館で聞き、今川氏真を宥めた上で、

「すでに落着した件であるが、小野但馬守が・・・」

と井伊谷へ報告したという。これを聞いた井伊直親は、

「落着した件であるので、父のように切腹を仰せつかることはあるまい」

と安心して陳謝に駿府に向かったという。

そして、井伊直親が誅殺されると、その後の混乱を抑えるために、今川氏であり、井伊氏の縁者である新野親矩が、井伊家の目付家老として井伊谷に送り込まれたという。

新野親矩は、中野直由の項に書いたように引馬城攻めの天間橋で飯尾氏に討たれ、その墓は、「遺命」(遺言)通り、能仲和尚(新野出身。新野親矩の弟説あり)が住職だった東光院に建てられた。また、井伊家の恩人ということで、龍潭寺にも墓がある。

 

直虎紀行5-12

新野親矩の墓(龍潭寺)

新野親矩の子は『新野村誌』掲載の「新野左馬介系図」によると8人もいるが、娘が7人、息子は1人だけで、その唯一の息子が小田原城攻めで討死して新野家は絶えた。

『井伊家伝記』では、息子はおらず、娘が3人いたとあり、井伊直政はこの新野家の断絶を悲しみ、新野の娘たちを木俣、庵原、三浦に嫁がせたという。

新野親良(ちかよし)は、彦根藩11代藩主・井伊直中の十男で、井伊直弼の異母兄である。筆頭家老・木俣守易の養子となり、木俣中守と名乗るが、文政13年(1830)10月15日、彦根藩祖である井伊直政の恩人の新野親矩の新野家を再興して2000石で別家した。

とはいえ、新野や井伊谷に移り住んだわけではなく、彦根(屋敷は彦根東高校の運動場の北)に住み、 彦根藩15代藩主・井伊直弼の時には家老として、藩主である弟を支えた。

間蔵山の新野家の墓の発掘は、井伊直弼が派遣した調査隊が行ったものである。このような扱いからも新野親矩が井伊家について恩人であったことがうかがい知れよう。

 

平成28年(2016)4月16日、左馬武神社で「新野左馬助公献茶祭」が開かれた。

直虎紀行5-13

これは、3月に、温室栽培の「つゆひかり」という品種の茶葉を手摘みし、手揉みして、4月に左馬武神社に奉納するというもの。昭和63年(1988)に始まり、今年で29回となった。

宮司は、上水神社(新野)と下水神社(池新田)の宮司を兼任されている二俣氏である。

 

二俣氏は、『二俣由来記』(二俣家文書)には野見宿彌の家臣、鈴木覚馬『岳南史』には春日大社の神主、桐田幸昭『中世小夜中山考』には浜松市天竜区二俣に興った氏族とあり、その出自ははっきりしない。一説に、菅原道真に仕えていたが、天竜区二俣町に移り住み、二俣氏と称すると、今川氏に従属し、杜山城の城主となり、後に、二俣古城(笹岡城)に移ったという。

新野の北が横地氏の本貫地である横地(現在の菊川市東横地・西横地)である。

横地氏の始祖の横地太郎家永(家長)は捨て子で、白鶴が守っていたという。二俣弾正(近永)が、春日大社参詣の帰りに見つけて育てた。

「捨太郎」と名付けられたこの子の父親は、実は源義家であり、後に小夜の中山で親子の対面を果たした。この時、二俣弾正は、「春日大社から春日神を勧請して藤谷神社を建てて宮司になるように」と義家に命じられたという(藤谷神社は、式内社の奈良神社の後身社ともいう)。

このため、今も横地には二俣氏はおられるが、浜松市天竜区二俣町の二俣氏は、愛媛県に移住された。

 

おんな城主直虎 登場人物の史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

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著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

 





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