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おんな城主直虎特集 井伊家

『徳川家康の遠江侵攻』 おんな城主直虎ゆかりの地を歩く~直虎紀行 捌の巻

更新日:

 

井伊直虎年表八の巻

永禄5年(1562)12月14日、井伊23代直親は、駿府(静岡県静岡市)の今川館に向かう途中、掛川(静岡県掛川市)で、今川の重臣・朝比奈泰朝に討たれた。

今川氏真は続けざまに、直親の子・虎松(後の井伊直政)も殺すように命じる。

そこで今川庶子家の新野親矩が虎松を「出家させる」あるいは「養子にする」との助命を申し出て、無事に認められたが、この直親の死により、井伊20代直平が再び井伊家宗主となり、井伊谷城は庶子家の中野直由が城代として守ることになった。

通説では「新野親矩が虎松を保護して井伊谷の新野屋敷に入れた」となっている一方、井伊直親の屋敷があった祝田(浜松市北区細江町中川祝田)の伝承はコレとは異なる。

「虎松をすぐに家老の1人が抱きかかえて瀧峰不動尊(祝田)に運んで隠し、様子を窺って龍潭寺(井伊谷)に移した。さらに夜陰に紛れて鳳来寺、さらにさらに、信州へと逃がした」

この後、今川重臣の朝比奈泰朝が井伊谷城(井伊氏居館)を攻め込み、井伊一族は討たれ、同城は陥落。井嶋氏などは井伊谷を離れ、今川氏真に従う武将により「井伊谷七人衆」(通称「七士」)が結成されたという。同時に城山は、城山城(井伊谷掻上城)に改修された。

※「永禄五年、井伊城没落後、掻揚城をしつらひ候而従今川氏真而七士罷居候。」(『礎石伝』)

 

その後、井伊直虎の曾祖父直平にも悲劇が襲いかかる。

『井伊家伝記』によれば、永禄6年(1563)、今川氏真が織田信長攻めに出陣し、吉田(愛知県豊橋市)まで兵を進めた際、殿(しんがり・最後尾)を務め、白須賀(浜名湖の南部・静岡県湖西市)に陣を敷いていた井伊直平の陣内から出火、白須賀村が全焼した。

これを「井伊氏の謀反」と考えた今川氏真は、「織田軍と井伊軍の挟み撃ちでは不利だ」として、浜名湖の北部を通って掛川城に逃げ込んだ。

※「氏真壱万八千之人数、三州吉田江相支、直平公手勢、遠州白須賀江張陣之所ニ、不慮ニ南風はけ志き節、直平公軍中出火、町中在々迄燒拂申候故、氏真軍中にて悪評申候ハ、「井伊直平ハ肥後守直親を傷害被仰付候を鬱憤ニ存候て、今度白須加ゟ燒立、臀打仕候。先ハ信長勢追付相支申候。後ハ井伊直平、臀打仕候上者、先後ニ大敵を引受候てハ無覺束候。此軍ハ一と先御引、直平方を糾明を被遂御尤ニ候」、軍中ニて一同ニ評定申候故、氏真同心にて、遠州本坂越ゟ掛川城主朝比奈備中守方迄引退被申候。」(『井伊家伝記』)

直平が、「謀反ではなく失火である」と弁明すると、氏真は「そうであれば、忠誠心を示せ」と言い、今川方から離反した社山城(犬居城とも)の天野氏を討つように命じた。

社山城本丸

社山城の本丸跡

直平は、高齢であったが、

「下知(ご命令)が下されたのであるから、致し方あるまい」

と言って出陣し、9月18日、有玉旗屋(麁玉郡半田谷か・現在の浜松市東区有玉南町畑屋)で急死した。

死因は落馬とも、毒殺とも、敵の急襲にあったともいわれていてハッキリしない。享年は、通説では75歳であるが、85歳の可能性が高い(年齢の考察については「参の巻」参照)。

鎧橋

井伊直平の遺体は、御馬付の従者・大石作左衛門が、自らの故郷である川名に運び、「鎧橋」(上の写真)で鎧を脱がせ山の上に直平の遺体を埋めると、大石は殉死したという。また、直平の側室であった飯尾乗連の娘も殉死したと伝わる。

※直平の意識は朦朧としていたが、死んではおらず、鎧橋で落馬して絶命したという伝承もある。

直平墓

井伊直平の墓は川名の向山にあり、その戒名「西月顕祖大居士」から「西月さま」と呼ばれている。

渓雲寺

渓雲寺

井伊直平の菩提寺は川名の渓雲寺である。

玉泉

玉泉庵跡の歴代住職の墓

渓雲寺は玉泉庵の奥寺だというが、共に福満寺の塔頭だったようだ。

遠江守護職を巡る今川氏と斯波軍(斯波氏・大河内氏・井伊氏の連合軍)との戦いの時、今川氏によって焼かれ、その後に井伊直平が川名に葬られたので、菩提寺として渓雲院が再建された。

 

鐘

鐘楼跡

次郎法師(井伊直虎)は、渓雲寺に梵鐘を寄進している。記録には「福満寺に寄進」とあるので、当時は福満寺と呼ばれていたのかもしれない。

その次郎法師寄進の梵鐘は、第2次世界大戦の金属類回収令により供出されたので、今はない。鐘の無い鐘楼だけが建っていたが、それも解体されてしまった。

戦後に出された復元案は、鋳造代金(当時のお金で360万円)が集まらず、頓挫。昨年(2015年)、NHK大河ドラマが「おんな城主 直虎」に決まったことにより、再び復元化への動きが高まっている。

直平が亡くなった翌永禄7年(1564)9月15日、引馬城主の飯尾連龍が今川方から離反したとして、今川氏真から討伐命令が下り、その後勃発した引馬城の戦いでは、逆に中野直由と新野兄弟が、「天間橋」で討死する。

天間橋の所在不明。研究者の方が「安間橋のこと」と言っておられるが、おそらく「伝馬橋」であろう。

 

飯尾墓

飯尾連龍の墓

引馬城がなかなか落ちないので、今川氏真は飯尾連龍に二俣城主の松井宗恒を通して和議を申し込み、氏真の娘と連龍の息子・辰之助の結婚を提案した。

間に入った松井宗恒には連龍の姉が嫁いでおり義兄にあたる。連龍は、自分の身内が持ってきた縁談であるので信じてしまい、妻であるお田鶴の方と 辰之助を伴って駿府の今川館へ赴くが、結婚式の最中に親子共々討たれてしまう。

この時、お田鶴の方は、薙刀を手に暴れまくり、さらに今川館に詰めていた新野親矩も討たれたと伝わる。

ところが浜松では、駿府へ向かったのは連龍と辰之助のみとの伝承もある。連龍の死後、正室のお田鶴の方が引馬城の女城主となり、遠江国に侵攻してきた徳川家康と戦って討死したと伝えられているのだ。

また新野親矩も上述のように井伊谷に住んでいて、引馬城攻めで討ち死にしたとされている。

 

井伊直虎年表八の巻-2

 

 

井伊直平の死後2年間、井伊家には宗主がいなかった。その間は城代の中野直由が「信濃守」と名を変えて宗主代理を務めていたのである。

引馬城の戦いでその直由も討死すると、筆頭家老・小野但馬守が井伊谷を治めていたと思われるが、井伊氏は絶えていなかった。

『藤原氏井伊奥山系図』には、井伊直親に2人の弟(直方・直重)がいるとあり、井伊谷徳政令を凍結した井伊主水佑という人物も登場している。ただし、この宗主不在の2年間、誰が地頭職を継いでいたかは不明だ。

そして、永禄8年(1565)、ついに、井伊直盛の娘の次郎法師が「女にこそあれ井伊家惣領に生候」で「地頭」になった。

当時の地頭は領主の意味で、宗家に生まれた次郎法師は女性であるにもかかわらず領主となった。

おんな城主の誕生である。

彼女は直親の遺児、虎松の後見人となり、井伊谷七人衆が統治の補佐をした。

 

男子なら南渓和尚がいるではないか?

と思われた方もおられるかもしれない。彼が僧をやめて宗主になる道はなかったのだろうか。

龍潭寺の南渓和尚は、直平の子であるが、南渓過去帳に記載された両親の戒名が、直平夫妻のものとは異なっている。しかも、その戒名から身分の低い者であることも分かっている。

おそらく才能をかわれて養子となったのであろう。井伊家の血が流れていない南渓では、還俗しても井伊家の宗主にはなれないのだ。

次郎法師の初仕事は、南渓和尚に徳政令免除の黒印状を発給したことだ。

この黒印状は「次郎法師寄進状」とも「直虎黒印状」とも呼ばれているが、署名は「次郎法師」であり、まだ還俗して「直虎」とは名乗っておらず、出家したまま城主になった(あるいは城主・虎松の後見人になった)と考えられている。

黒印状の発行日は9月15日である。

『井伊家伝記』には、井伊家のために吉日(月は三善の9月、日は八幡縁日の15日)を選んで発行したので、9月15日は、井伊家にとっていいことが起こる日になったと著者の祖山和尚は喜んでいるが、実際はそうではあるまい。

単純に考えれば、井伊直平が龍潭寺(当時はまだ「龍泰寺」)に寄進状を出したのが、井伊谷八幡宮の縁日(現在は10/15に最も近い日曜日)の永正4年(1507)9月15日であるから、それに倣っただけのように思われる。

「直政様五歳の節、御児孫繁栄懇祈の為に、右寄進状御認め候故、月は三善の九月、日は八幡宮の縁日十五日にて、殊の外御親切の思し召し之有る文章に御座候。」(『井伊家伝記』)

 

私が想像する当時の井伊谷城の状況は、「虎松がいて、それを3人の女性(後見人の直虎、直虎の母、虎松の母)が囲み、さらに井伊谷七人衆が補佐する」というものである

一方で、「城主が直虎で、その横に軍師(顧問)として南渓和尚がいて、虎松はいなかった」と考えておられる方も多い。

しかし、今川氏は、直虎と南渓が組むことを最も恐れていたので、直虎は井伊谷城(井伊氏居館)を本拠とし、南渓は龍潭寺で切り離し、二人が会うことはなかったと思われる。

───では、なぜ、徳政令免除の黒印状を9月15日に出すことが可能だったのか?

1年前の9月15日に何が起きたか思い出していただきたい。

この日、中野直由と新野親矩が引馬城攻めで討死している。ということは、龍潭寺で法要が行われ、宗主として次郎法師が参列したはずである。

そこで南渓和尚に会うことが出来たのであろう。井伊谷八幡宮の祭典もあり、今川派の監視も和らいでいたハズだ。

 

「井伊谷徳政令」について

「井伊谷徳政令」は、永禄9年(1566)に今川氏真が出した徳政令である。

井伊氏は国衆(国人領主・地頭)であるので、井伊領に徳政令を出すのは井伊氏のハズ。今川氏が出したということは、井伊氏の衰えを見て内政干渉を始めたともとれるし、井伊氏は既に国衆ではなく今川家臣になっていたとも考えられる。

さて、この井伊谷徳政令は、 「井主」(井伊主水佑)の一方的な拒否と、「銭主方」(銭主方久=瀬戸方久)が難渋したことにより凍結され、「井次」(井伊次郎直虎)の対応も消極的であったため、2年間にわたり実施されなかったことが、永禄11年(1568)8月4日付の関越氏経(関口氏経)の「井次」(井伊次郎直虎)への書状から分かる。

書状とは次のものだ。

其谷徳政事、去寅年以 御判形雖被仰付候。井主私被仕候而、祝田郷中・都田上下給人衆中、于今徳政沙汰無之候間、本百性只今許詔申候條、任御判形旨可被申付候。寅年被仰付候処ニ、銭主方令難渋、于今無其沙汰儀、太以曲事ニ候、此上銭主方如何様之許詔申候共、許容有間敷候。為其一筆申入候。恐々謹言。
八月四日
関越氏経(花押)
井次参

しかし、徳政令推進派の祝田禰宜の要請をうけた匂坂直興が駿府において徳政令施行に向けての工作を進めたことや、9月14日に徳政令を出した本人・今川氏真が井伊谷の豪商・瀬戸方久に買得安堵状を発給して「銭主方令難渋」が無くなったことから、11月9日に次郎直虎と関口氏経と連名で2年間凍結されていた「井伊谷徳政令」が施行された。

【参考】 今川氏真が瀬戸方久に買得安堵状

【原文】今川氏真判物(瀬戸文書)

於井伊谷所々買徳地之事
一、上都田只尾半名       一、下都田十郎兵衛半分(永地也、)
一、赤佐次郎左衛門名五分二 一、九郎右衛門名
一、祝田十郎名          一、同又三郎名三ヶ一分
一、右近左近名          一、左近七半分
一、禰宜敷銭地          一、瀬戸平右衛門名
已上
右、去丙寅年、惣谷徳政之義雖有訴訟、方久買得分者、次郎法師年寄誓句并主水佑一筆明鏡之上者、年来買得之名職・同永地、任証文永不可有相違。然者今度新城取立之条、於根小屋、蔵取立、商買諸役可令免許者也。仍如件。
永禄十一戊辰年九月十四日
上総介(花押)
瀬戸
方久
【現代語訳】

井伊谷(井伊領内)各所で瀬戸方久が買得した土地の件
一、上都田村の只尾の名の半分
一、下都田村の十郎兵衛の半分(永地である。)
一、赤佐次郎左衛門の名の五分の二
一、九郎右衛門の名
一、祝田村の十郎の名
一、同祝田村の又三郎の名の三分の一分
一、右近左近の名
一、左近七の(永地の)半分
一、(祝田村の蜂前神社の)禰宜が敷銭で買得した土地
一、瀬戸村の平右衛門の名
以上
上記の10ヶ所は、去る丙寅年(一昨年、永禄9年)、「井伊谷徳政令」(惣谷徳政)について訴訟があったが、瀬戸方久の「買得分」(買い取った土地)については、井伊次郎法師の「年寄」(家老)の「誓句」(起請文。公文書)、並びに、井伊主水佑(川手景隆)の「一筆」(証文)から明らかであるので、年来(以来ずっと)買得した名職(名。軍事奉公する在村被官の年貢負担地)・同じく永地(永代買取地)は、証文の通りで、違ってはならない。しかるに、今度、「新城」を建設するので、根小屋(新城の城下町)に蔵(食料庫、武器庫)を建設すれば、同地での商売の税金を免除する。よって以上の如し。
永禄11年9月14日
今川上総介氏真(花押)
瀬戸村の方久

 

井伊直虎年表八の巻-3

今川氏真が「井伊谷徳政令」を出した理由は、残念ながら不明。

井伊領が今川直轄領となり、城代となった小野但馬守が今川氏の指示の下、どのような政治を行ったかを見て判断したいところであるが、小野政権が短命(1ヶ月)だったため判断つきかねる。

 

さて、ここからは武田信玄と徳川家康の遠江侵攻を見ていこう。

信玄は家康と、「大井川を境にして東部(駿河国)を武田氏が、西部(遠江国)を徳川氏が領する」という今川領分割の密約を交わすと、農閑期に入った永禄11年(1568)12月6日、早くも行軍を開始した。

12,000人の軍勢を率いて駿河へ侵攻したのである。

そして、1週間後の12月13日にはすぐさま駿府を占領。この時、今川氏真は、掛川城主の朝比奈泰朝を頼って掛川に落ちた。

時を同じくして徳川家康も12月13日に遠江侵攻を開始しており、井伊谷城や引馬城(後の浜松城)を陥落、12月27日には今川氏真が立て籠もる掛川城を包囲した。そして、翌永禄12年(1569)5月17日、掛川城の無血開城により、今川氏は滅亡する。

 

今川氏真の辞世は2首ある。

悔しともうら山し共思はねど 我世にかはる世の姿かな

(訳)悔しいとも、羨ましいとも思わないが、私の最盛期は過ぎて、今は別の人の最盛期だ

なかなかに世にも人をも恨むまじ 時にあわぬを身の咎にして

(訳)もう世の中も、人も、恨むのはやめよう。時代に合っていなかったことが私の罪だ

この両句を知ったとき、氏真を叱責したい気持ちになった。

「井伊氏や、飯尾氏の人々を殺しておいて、自分のことしか考えてないの? 謝罪はないのか?」

今川氏真は、生涯約1700首の和歌を詠んでいる。

世が世であれば、その肩書は「戦国大名」ではなく、「歌人」だったであろう。実際、今川氏は滅亡したと書いたがそれは大名としての今川氏が滅亡しただけで、氏真は各地を流転、文化人として活躍している。

江戸時代に入っては、幾ばくかの土地を安堵され、大坂の陣の前年までという長生きをしている。しかも子孫は幕府の高家(格式の高い旗本)として仕えたのだから、さすがに名家は強い。

「歴史に『たら』『れば』は無い」と言うが、

①もし、井伊直虎が井伊家宗主にして城主であり続けていたら、徳川家康の遠江侵攻を今川家臣として阻止したであろうか? それとも元許嫁の井伊直親の意向を汲んで歓迎したであろうか?

②井伊家の人々を死に追いやった今川氏の滅亡の時、直虎は何を思ったであろうか?

戦国時代の切ない最期を思うごとに、妄想が尽きることはない。

 

 

さて、徳川家康の遠江侵入ルートは古文書によって異なる。

通説は「本坂越」(姫街道)である。

三遠国境の本坂峠を越えて侵入したとする説で、先発隊が気賀で襲撃を受けたので、進路を北にとって井伊谷経由で引馬城入りしたとする古文書と、進路を南にとって浜名湖を船で渡って引馬城入り、あるいは、見付城入りしたとする古文書がある。

『井伊家伝記』では、本坂越で侵入した先発隊が気賀で襲われたので、徳川本隊は本坂越を避け、豊川→井之瀬(豊川の渡河点)→加茂→下宇利→冨賀寺に宿泊→奥山→井伊谷と侵攻したと伝わる。

※「永禄十一年、松下常慶、早追にて三州岡崎え参り、江間加賀内通の委細、逐一言上申し候所に、家康公、不斜御悦にて、御支度仰せ付けられ、御人数二千人、先勢、本坂越遣はされ候所に、遠州引佐郡気賀の鄕人、尾藤主膳、山村修理、両人大将にて、一揆を相企て、権現様御入国を相拒み、先勢え鉄炮を打ち掛け申し候故、これより本坂越引回し、家康公え注進す。之に依り、三州豊川より井之瀬を渡り、加茂、下宇利通り、冨賀寺本陣、奥山通り、井伊谷へ御出遊ばせられ候。今泉四郎兵衛、菅沼新八郎(只今菅沼織部殿先祖なり)、牧野馬之丞(只今牧野駿河守先祖なり)、戸田丹波(二連木松下丹波守祖なり)、牧野半右衛門、稲垣平右衛門、山下帯刀等、御人數二千人、松下常慶を案内として、山路を踏み分け、昼夜もみ立て、遠州井伊谷まで御出成され候事。」(『井伊家伝記』)

 

家康は、早朝、小野但馬守が城代を務める井伊谷城を攻めさせるが、戦うことなく城は落ち、小野但馬守は付近(三岳山麓の洞窟とも竜ヶ岩洞とも)に隠れた。

しかし、後に井伊谷三人衆の近藤康用に見つかり、蟹淵(大堰河原とも)で処刑。

理由は、「井伊直親を内部告発して今川氏に殺させた上に虎松(後の井伊直政)まで殺そうとしたから」というものであった。

※「扨又、権現様、三州岡崎に於いて、小野但馬、井伊谷を押領致し候て、直政公、御立ち退き成され候段、御聞き及び、則、近藤平右衛門、鈴木三郎太夫、菅沼次郎右衛門(これを井伊谷三人衆と云ふ)、右三人衆を遣はされ候て、井伊谷を御乗取り成され候。右三人衆、三州宇利より進発、山越に遠州頓幕山越え、奥山の郷え入り候て、三人衆人数、鬨の声を揚ぐに、防き戦ふ者、壱人も之無き故、直に井伊保の城を取り巻く所に、小野但馬、防戦成り難く、井伊谷を立ち退き、近辺に忍び居り申し候所、永禄十二年四月七日に、権現様、堀川城責めの節、御仕置きに仰せ付けられ候。その罪科は、権現様え御内通仕り候井伊直親傷害は但馬讒言、その後、段々直政公を失ひ奉る可き相企み申し候故、陰謀、重料にて、則、井伊保に獄門に御掛け成され候。但馬子二人、之有り。同年五月七日に、御吟味遊ばされ候て、弐人ともに、またまた御仕置に仰せ付けられ候。」(『井伊家伝記』)

※「町ヨリ上ニ大堰、下ニ蟹淵アリ。井伊家御在城ノ仕置場也。永禄十二年四月七日、小野但馬此所ニテ仕置。法名「南江玄策沙弥」。同五月七日、倅二人此所ニ於テ仕置。「幼泡童子」、弟、「幼手童子」ト南渓和尚過去帳ニ有リ。」(『井伊谷旧記』)

 

蜂前神社

蜂前神社

井伊谷から気賀を避けて瀬戸へ行き、そこで豪商・瀬戸方久の案内で都田川を渡った徳川家康は、祝田の羽鳥明神(現在の蜂前神社)で休憩(祝田城=井伊直親屋敷で休憩とも)、その間、刑部城を攻め落とさせた。

羽鳥明神の近くに2本の松の巨木があり、家康が名を問うと、「御代松」と「日本松」だと言うので、気を良くし、

ばとり神 日本手に入る浜松の 敵は引馬野 味方原かな

と詠んだという。

「羽鳥」と「場取り」、「羽鳥平の松」「浜松」は「松平」で、「日本松」と「2本の松」・・・掛詞(?)が多いので訳しにくい。

敢えて意訳すれば、こんな感じだろうか。

「羽鳥神が鎮座されている羽鳥平の2本の松まで(井伊領)は手に入った。次は、浜松庄の引馬野こと三方ヶ原を手に入れようか」

 

家康は、遠州侵攻の功労者は井伊谷三人衆(菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時)であるとして、彼らに井伊領(「井伊谷跡職,新地・本地一円」)を渡したことが、遠江侵攻開始の前日に書かれた「徳川家康起請文案」から分かる。

今度就遠州入、最前両三人以忠節井伊谷筋令案内、可引出之由、感悦至也、其上彼忠節付而出置知行事
一井伊谷跡職、新地・本地一円出置事(但、是ハ五百貫文之事)
一二俣左衛門跡職一円之事 一高園曽子方之事
一高梨 一気賀之郷 一かんま之郷
一まんこく橋つめ共 一山田 一川合
一かやは 一国領 一野辺 一かんさう
一あんま之郷 一人見之郷并新橋・小沢渡
右、彼書立之分、何も為不入無相違永為私領出置所也、并於此地田原参百貫文可出置也、井伊谷領之外、此書立之内、以弐千貫文、任望候地可出置也、若従甲州如何様之被申事候共、以起請文申定上者、進退かけ候而申理、無相違可出置也、其上縦何方へ成共、何様忠節以先判形出置共、於此上者相違有間敷者也、委細者菅沼新八郎方可申者也、仍如件、
十二月十二日
家康
菅沼二郎右衛門殿
近藤石見守殿
鈴木三郎太夫殿

成功報酬を示して、井伊谷三人衆を動かしたのであろう。

また、都田川の渡河点を教えた瀬戸方久であるが、 永禄12年(1569)5月17日に今川氏が滅亡すると、8月3日には徳川家康に買得安堵状を出してもらっている。

世渡り上手な男だ。

しかし、立場が変われば見方も変わる。徳政令を出した今川氏を慕い、徳川氏が「侵略者」にしか見えなかった人たちもいた。「徳川家康起請文案」にある「気賀之郷」や井伊領刑部の人々がそうだった。

 

「直虎紀行」(番外編)~堀川城址(気賀)~

区役所

井伊谷へ電車で行く場合、JR浜松駅で下車すると非常に不便である。

2006年の大河「功名が辻」(司馬遼太郎)で脚光を浴びたJR掛川駅で降り、天竜浜名湖線(通称「天浜線」。旧・国鉄二俣線)に乗り換えて「気賀(きが)駅」で下車するのがよい。

ちなみに「気賀」は「けが」(「欠けた場所」「崖」の意)と言ったが、二俣線開通時に「怪我(事故)につながるのでよくない」として「きが」と読むようになった。

駅舎には奥浜名湖観光協会が入っており、荘司さんという超絶面白い人が案内して下さる。

踏切を渡り正面に見える黄土色の建物は「浜松北区役所」(旧・細江町役場)だ。右手の建物が浜松市に合併する時に駆け込みで建てられた「みをつくし文化センター」で、「NHK大河ドラマ館」が入っている(大阪市の市章で有名な「澪標(みをつくし)」は、細江町の町章でもある)。

「みをつくし文化ホール」の奥の建物は、中央が気賀関所、右が細江町図書館で郷土資料室にはよくお世話になっている。気賀関所では、着物(レンタル衣装)に着替えて撮影できる。

 

案内所

気賀関所の裏に「奥浜名湖田園空間博物館 総合案内所」がある。地元の特産物の販売や観光案内をしており、雰囲気は「道の駅」に似ている。この奥浜名湖田園空間博物館には、大河ドラマのオフィシャルショップが設置されることになっている。

堀川城

この気賀には「堀川城」があり、大虐殺が行われたという(後述)。

史実であれば、「家康の黒歴史」であろう。

江戸時代の地図を見ると、都田川は、井伊谷川と合流し、落合川となり、再び大川と新川に分かれて引佐細江(細江湖)に注いでいる。

東から西へ流れる大川の左岸(南側)に「堀川」という字があり、今川氏が斯波氏との戦いの時に建てた「堀川砦」(「気賀砦」とも)があった。

※「堀川砦」は、「刑部城」の出丸で、斯波軍(武衛衆(斯波氏の軍勢)・引間衆(引馬城主の大河内氏の軍勢)・井伊衆(井伊氏の軍勢))に襲われた時、刑部城から援軍が出陣したと「伊達忠宗軍忠状」の永正9年(1512)4月6日の項にある

「四月六日 武衛衆・引間衆・井伊衆、千五百計りにて、三手ニ分、ほり河へ一手打詰、せめ入候を、刑部より出会、おいこミ、ていたく仕候き。」(「伊達忠宗軍忠状」)

「堀川」の南が「大鳥居」であり、その「大鳥居」の北端に「首塚」がある。

現在、首塚の横に「堀川城址碑」と「井伊家ゆかりの地 伝堀川城跡」の案内板が立っている。

 

屯倉水神社

「堀川城」(「気賀城」「鵜の毛城」とも)とは、呉石「堀川」から南の「鵜毛」「大鳥居」に築かれた城で、「大鳥居」にあった式内社(引佐郡の三宅神社)ともいわれる「屯倉(みやけ)神社」を要塞化した城である。

家康侵攻の際にはこの城に2000人が立て籠もったとされるが、「堀川」の屯倉神社だけでは狭く、2000人も入れないので、その城域は「鵜毛」や「大鳥居」まで広がっていたと考えられている。

また屯倉神社は、現在、油田岩脇(旧・東岩崎)の「水神社」に合祀されて「屯倉水神社」となっている。

※「屯倉(みやけ)」とは、ヤマト政権の直轄地のことである。南北朝時代、気賀庄は後醍醐天皇領であり、宗良親王は、井伊庄ではなく、気賀庄に送り込まれたのを、井伊氏が保護したとも言われている。

この城は、徳川家康の遠江侵攻に備えて、今川方の新田友作、竹田高正、山村修理、尾藤主膳らが築いた城柵である。城主は新田友作であったようで、城内での軍議において、

───徳川氏に付くべきである。

と判断。

しかし、この言により殺されそうになり、彼は逃げるようにして城を出て、行方をくらませた(老ヶ谷「古屋敷」に隠れ住んだ)。

代わりに城主になったのは、竹田高正である。

永禄12年(1569)3月27日、家康の堀川城攻めの時には、気賀はもちろん井伊領刑部の住民も合わせて2000人が立て籠もっていた。

地元ではよく「気賀七ヶ村」と言うが、当時の「気賀七村」とは、上村、下村、小森、葭本、呉石、油田、伊目の7ヶ村で、小野と広岡は井伊領であり、新田友作が隠れていたとされる老ヶ谷は開拓前で集落はなかった。

当時、気賀七ヶ村の人口は2000人、刑部の人口は1000人であり、合わせても3000人にしかならない。2000人が立て籠もったということは、武士だけではなく、農民も、そして、男だけではなく、女も立て籠もったことになる。

そして3月27日、徳川家康はここを3000人で攻め、

───男女供ニナデ切リニゾシタリケル。(大久保彦左衛門『三河物語』)

たった1日で1000人を殺した。

この戦いに井伊衆は、徳川方として井伊谷三人衆の指揮で参軍している。身内(刑部村の住民)を討つ心境は、戦国時代の常とはいえ複雑であっただろう。

さらに家康は、生き残った1000人の探索・詮議を半年間行い、700人を捕まえ、9月9日には呉石「塔ノ下」で斬殺、700の首を畷に並べた。

これを「獄門畷」という。

首を埋めた場所(前山「寺屋敷」)には円頓寺が建てられたが、明治に入って廃寺となった。

獄門畷

獄門畷の「堀川城将士最後之地」碑

円頓寺

円頓寺跡

 

なお堀川城にいた守将たち4名の行末は以下の通りである。

新田友作 出家し、剃髪して「喜斎」(「法休喜斎」「新田友作入道喜斎」)と号していたが見つけ出され、慶長11年(1606)8月15日、呉石「谷塚」(「塔ノ下」とも)で処刑された。

竹田高正 戦いの3月27日、堀川城内で「もはやこれまで」と切腹。生まれ故郷の足利の善徳寺を請じて全得寺を建てたが「堀川城の戦い」の時に焼失してしまう(元和3年(1617)に再建)。屋敷は「堀川」の東の「間ノ脇」にあったという。

山村修理 戦いの3月27日、堀川城を抜け出して葭本「小引佐」(引佐峠の東の峠)まで逃げたが、燃え落ちる城を見て、後に「修理殿の松」と呼ばれることになる松の木(現在は枯死)の下で切腹した。

尾藤主膳 戦いの3月27日、本城である舘山寺の堀江城に逃げ込もうとしたが入城を断られ、大手門前の「十頭」(現在の静岡銀行館山寺支店付近)で自害。首は埋められ、首塚の上に小祠(十頭八幡宮)が建てられた。

新田喜斎の墓

新田友作(喜斎)の墓

全得寺

知足山全得寺

山村修理

山村修理の墓と「堀川城戦死之碑」

十頭八幡

十頭八幡宮

堀川城と堀江城の戦いで死んだ人の中には僧侶もいたことや、死者の数が多かったこともあり、井伊谷龍潭寺の南渓和尚が祐圓尼(井伊直虎)と共に各地を回って葬儀を行ったと伝わる。

また、この堀川城は、周囲が川(大川(都田川)とその支流)に囲まれていて、「干潮の時は渡れるが、満潮の時は舟でしか渡れない」城である。

浜名湖は「遠津淡海」と呼ばれる湖(古代では巨大な湖を「海」といった)で、「遠江」という国名の由来となったが、明応7年(1498)の大地震で海(太平洋、遠州灘)とつながって汽水湖となり、潮の干満の影響を受けるようになったのだ。

この様子を実際に自分の目で見て確認しようとした徳川家康は、城兵に見つかり、老婆が住む農家の竃に逃げ込んだ。城兵が通り過ぎると、煤で真っ黒になった家康が出てきたという。

堀川城を落とした後、家康が老婆に、

「先日のお礼がしたい。欲しいものはあるか」

と聞くと、欲深いばあさんは、

「目通り八町」

と答えたが、家康は、驚きも否定もせず、その通り、8町(1町=3000坪=0.99㌶)、すなわち、約8ヘクタールの土地を与えたという。

以上が気賀に伝わる伝承である。

目通り八丁

 

堀川城での死者の数であるが、古文書には、「堀川城の戦い」ではなく、「堀川の一揆」として、

「殺したのは、一揆を煽動した108人の城兵(武士)だけで、農民を1000人も殺していない」

「一揆を起こした農民700人を捕らえたが、全員赦免した」

とある。

「城中百八の首級を山田平右衛門に命じ、気賀にて獄門にさらさる」(『武徳編年集成』)

「城兵百八が首を討、其餘烏合の一揆七百人は寛仁の御沙汰にて悉く赦し給ふ」(『校正三河後風土記』)

現代の研究者も、

「人口3000人のうちの1700人が死んだら、男(田畑を耕作する者)がいなくなるから、そこまではしないはずである。また、刑部城は落城し、刑部は堀川城を攻めている井伊谷三人衆の領地になっているので、刑部からの参戦者はいないはずで、参戦者が2000人というのであれば、気賀の全住民が参戦したことになる」

「700人を処刑したというが、これは堀川城の戦いの参戦者ではなく、落城後、約半年間で暴れた者たちを捕らえていたのを処刑したのであろう」

と懐疑的である。

「ある程度は信用できる」とされる『濱松御在城記』には、討ち取ったのは184人で、その首は鵜毛に晒したとある(「気賀ノ一揆トモ堀川之城ニ楯籠ニツイテ」として、「百八十四人ノ首(為七百ハ非也。但上下男女共數歟)鵜毛ト申所ニ御掛サセ」)。

ただ、「堀川城の戦い」は、南渓過去帳等により、永禄12年3月27日であることが確かで、『濱松御在城記』では「永禄十二巳三月廿七日ト云ハ誤ノ説ナリ」として、 家康の遠江侵攻前の永禄11年3月7日の出来事としているので、この件に関する記述については信用出来ない。

 

徳川家康ゆかりの岡崎市・浜松市・静岡市の中で、浜松市だけ違う点がある。

岡崎市や静岡市では「家康公」と呼ぶのに、浜松市では、「家康」と呼び捨てるのである。しかも、浜松に残る家康伝承は「逃げて竃に隠れて煤で真っ黒になった」などとカッコ悪い話ばかり。

その理由は「遠江国侵攻で、まず最初に気賀で大虐殺をしたので、浜松市民は、家康を『三河国から来た残忍な侵略者』として捉え、尊敬して『公』を付ける気分にはなれず、見下す話だけが残されたから」だとされている。

逆に「呼び捨てや、ユーモラスな失敗談を話せるのは、親しみを感じているからであり、友達感覚なのである」とする説もある。

浜松市のゆるキャラは、元々「ウナギイヌ」であったが、市制100周年記念として「出世大名家康くん」に代わり、平成24年度からは「はままつ福市長」のポストにも就いている。

「出世大名家康くん」に関する都市伝説に「ちょんまげに触ると出世する」がある。

大相撲ではちょんまげを掴むと反則負けになるように、武士もちょんまげを触られることは不名誉なことである。それなのに「わしのちょんまげを触って出世するのじゃ~」と浜松市民に呼びかけている「出世大名家康くん」と、何の遠慮も無く近づいてちょんまげに触っている浜松市民を見ると、友達感覚説の方が正しいのではないかと思えてくる。

名前を「家康くん」としたのも、単にゆるキャラというだけでなく、その背景に友達感覚を抱いているからではなかろうか。

おんな城主直虎 登場人物の史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

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著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

 





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