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おんな城主直虎特集 井伊家 武田・上杉家

『武田信玄の遠江侵攻と死』 おんな城主直虎・ゆかりの地を歩く~直虎紀行 玖の巻

更新日:

 

元亀3年(1572)10月、武田信玄は、朝倉義景や本願寺らに織田信長を包囲させると、自ら指揮をとっての「西上作戦」を決行した。

秋山隊は美濃国へ、山県隊は三河国へ、信玄本隊は遠江国へ。

武田の破竹の勢いを聞いた織田信長は、家康に、
───浜松城を捨て、岡崎城に退くように。
と指示したが、徳川家康は、使者に「頃合いをみて従う」と言って帰した後、家臣に向い、
───この浜松から撤退するくらいなら、弓を踏み折って武士を辞める。
と言い切った。

家康にとって遠州という土地・人は大事な存在であり、何が何でも守りたいという意志を明確に表示したのであった。

「同年夏秋の頃、武田の大兵、三遠の辺境を侵掠するにより、信長、使を浜松に進らせ、『早く浜松を去て、岡崎へ退かせたまへ』といふ。君、『時宜にしたがはん』と御答有て、後に侍臣に仰られしは、『此浜松を引ほどならば、我、弓矢を踏折て、武夫の道をやめんものを』とて笑はせられしとぞ。 其後、老臣等、『こたびは大事の戦なれば、尾張へ御加勢を乞れん』といふ。君、『我、いかに微運に成たりとも、人の力をかりて軍せんは本意にあらず』とて聞せ給はず。老 臣かさねて、『信長よりは度々援助をこはるゝに、こなたよりは是まで一度もこはせられず。隣国相助べきはもとよりの事なれば、こたび仰遣はされしとて、わが国の恥辱といふにもあらず』と強ちに勤め奉り。味方が原の役に至り、やうやく尾張より援兵を進らせしなり。」

(『東照宮御実紀』(附録巻二)に引用された『柏崎物語』)

 

武田信玄西上作戦

武田軍が遠江国豊田郡(現在の静岡県浜松市)の二俣城を包囲したのはその月(10月)の半ば。後詰に向かった家康は、しかし武田の大軍を見て引き返すことになる。

しかもこの時、天竜川を渡るための浅瀬を武田軍に教えてしまうほどの慌てようだったという。

織田信長からの援軍3000が到着したのは、二俣城が開城した後のことであった。

清滝寺

清瀧寺の境内に復元された二俣城の井戸櫓

二俣城は堅固な防御を誇り、さしもの武田軍でも陥落までに2ヶ月かかっている。
武田勝頼と山県昌景は、二俣城が井戸櫓を築いて、天竜川から水(飲料水、生活用水)を汲んでいることに気づき、大量のいかだを流して井戸櫓にぶつけて破壊した。
水の手を切られた城兵は戦意を失って開城したという。

武田信玄三方原の戦い

三方原古戦場址の案内板の地図

武田信玄三方ヶ原の戦い3

「伝堀川城跡」案内板の地図

以前の研究によると、武田信玄の本隊は「青崩峠から南下した」と考えられていた。
現在は、徳川家康の研究で有名な本多隆成先生(静岡大学)の「甲府から南下して駿河国に入り、西へ進んで遠江国に侵攻した」という考え方が通説となり、従来の説は「別説」となっている。

武田信玄は、見付から磐田原を北上して匂坂を通り、合代島に陣を敷いた。そして三輪元致に二俣城を攻めさせるが、予想に反して攻略が長引いたので、攻城の将を武田勝頼に変え、さらに山県隊を呼び寄せたという。
山県隊は山吉田(柿本)→伊平→井伊谷→都田→宮口と軍を進め、二俣城で合流した。

 

さて今回は、その山県隊の進軍ルート上にある柿本城(愛知県新城市下吉田柿本)と仏坂古戦場(静岡県浜松市北区引佐町伊平)へ足を運んでみよう。

満光寺

「下吉田」は「山(の)吉田」ともいい、「柿本」は地名(字)で、柿本城は、満光寺の裏山の「子路山(しろさん)」(「城山」の意)にある。
子路山北麓の地名(字)は「紺屋平」。「根小屋がある平地」の意であろう。

 

満光寺2

満光寺は、柿本城下の寺である。
道の駅「鳳来三河三石」の裏にあるが、この「三石」の名の由来が、現地案内板に「家康公の危機を救った満光寺とニワトリ」として書かれているが、大変奇妙な話である。
以下、引用させていただこう。

「元亀年間家康が若い頃、甲斐の武田信玄に敗れ、山の吉田まで落ち延びて来た。夕方のことで疲れも激しく途方に暮れていたところちょうど満光寺という寺が目に止まった。そこで住職に一夜の宿を頼んだ。住職は家康たちを一目見て戦乱の常とはいいながら大変気の毒に思い、快よく泊めることにした。家康は大変喜んで住職にお礼を述べ更に「ご住職誠に相済まぬが、私どもに故あって明朝早立したいと思う。よって一番鶏が鳴いたら必ず起こして戴きたい。」と頼んで寝についた。そして真夜中になった頃であった。不思議なことにその夜に限って、寺の鶏が真夜中に刻を告げた。住職は随分早く鳴いたものだ、と思いながらも約束のことを思い、早速家康たちを起した。家康たちは厚く住職にお礼を言って大急ぎで闇の中を出発して行った。ところが家康たちが去って間もなく、武田の一隊が家康討伐のために寺を包囲したが、家康一行は一瞬の差で危機を脱することができたと伝えられている。後天下を統一した家康は、満光寺の鶏によって危うく命を救われたことを思い寺領三石を与えて恩に報いたという。その後、慶安二年(一六四九)三代将軍家光から寺領二十石が与えられた。「山の吉田の満光寺さまの、とりになりたや にはとりに」と今でも民謡として唄いつがれている。」

家康を助けたのは「小国(しょうこく)」という品種のニワトリだという。
中国の昌国(しょうこく)から日本に連れて来たことから「しょうこく」という名になったが、時を正しく知らせたことから「正告」、あるいは、「正刻」とも表記されたという。

三方ヶ原で負けた後、家康はここまで逃げてきたの?
野田城の救援に行った時に、信玄に見つかって追われたの?
残念ながら、元亀年間とあるので、どの戦いの話かまでは断定できない。

 

小国

 

話を戻そう。
元亀3年(1572)10月22日、山県昌景が5000人の兵を率いて柿本城へ押し寄せてきた。
城主は、若干15歳の鈴木重好。重好の父である鈴木重時は井伊谷三人衆の1人でもあり、永禄12(1569)年2月5日の「堀江城の戦い」で、同城の城門に攻めかかった時、城の櫓から鉄砲で狙撃されて絶命している。重好が若年で家督を継いだのはそういった理由からだ。

城兵はわずか500人で、その10倍の山県隊と戦っても万に一つの勝ち目もない。しかも、柿本城はまだ築城中で、本丸の周囲の塀は完成していたが、二之丸は周囲に柵があるだけであったという。
山県昌景も、兵力温存のため無血開城を望んでいたので、満光寺の玄賀和尚が山県隊の陣と城を9往復してようやく和議が成立、無血開城となったという。

この時、井伊谷の龍潭寺の祐圓尼(井伊直虎)は、
───このまま、山県隊は、井平、井伊谷と進むであろう。
と考え、龍潭寺の寺宝を運びだしたり、井伊谷の住民に「貴重品を土中に埋める」よう指示した上で、山県昌景に直に会いに行った。

そして、かように直談判したという。
───伊平の仏坂十一面観音像は、行基作の貴重な仏像故、運び出す時間的猶予をお与え下さい。

 

仏坂十一面観音

仏坂十一面観音

仏坂十一面観音は、無事、修験者たちの手で気賀「上村」の観行院に運ばれ、事なきを得た。
現在は、元の場所(伊平の集落から仏坂を登ったところにある竹馬寺)に戻されていて、33年に1度、御開帳される秘仏となっている。

特別な理由がある場合に限り、11年目と22年目に中開帳が可能だといい、上記の写真は2016年2月14日の中開帳の時に撮影したものだ。この日の御開帳は一日。様々なイベントがあって、30分という短い時間ではあったが地元の古老の「伊平と井伊直虎伝承」の講演があり、大変参考になった。

 

行基産湯の池(四方浄)

行基産湯の池(四方浄)

 

直虎ゆかりの龍潭寺は、元は地蔵寺といい、天平5年(733)に行基が開山した寺である。
この地方に行基ゆかりの寺が多いのは、驚くことに、行基の生まれ故郷だからという。行基は、泣き声が尋常でないので、母親が気味悪がって、産湯の池の中央の岩の上に捨てられた。

そこを偶然通りかかった僧が、
───この赤子はお経を唱えている。生まれながらの菩薩だ。
として、拾って育てたという。泣いていたのではなく、読経していたのだ。

成長した行基は帰郷し、生まれ故郷の四方に仏像を備え、生まれ故郷を「四方浄」と名付けた。

その四方の仏像とは、
・東(川名)の薬師如来
・西(的場)の阿弥陀如来
・南(伊平)の十一面観音
・北(別所)の釈迦如来
である。

 

あらためて話を戻そう。
山県隊に攻めこまれた柿本城の城兵たちは井平城への逃亡を図った。
しかし、これを密かに追っていた山県隊たちに仏坂で追いつかれてしまい、戦いとなった。

仏坂古戦場

仏坂古戦場

この戦いでは、両軍合わせて88名の武将が戦死したという。

ふろんぼ様

ふろんぼ様

この戦いでの死者88名を、敵味方の区別なく埋めたのが「ふろんぼ様」と呼ばれる墓地である。
通説では「古い墓」の意とされるが、「風呂(地名)の墓」であろう。実際の数は88基も無いが、平成17年(2005)に行われた旧鳳来寺街道の調査で、新たに4ヶ所の墳墓群が見つかり、それらは「新ふろんぼ様」と総称されている。
山中にはまだ他にも墓がある。その中に当時のものがあるかもしれず、今後の調査に期待したい。

この戦いでは井平氏は全滅したが、鈴木重好は生き延び、徳川四天王の井伊直政に仕えて数々の戦功をあげた。彼を祖とする鈴木石見守家は、後に水戸藩の家老や城代を代々務めることとなる。幕末に水戸藩の尊皇攘夷派である天狗党の乱の鎮圧にあたったが、明治維新により立場が逆転し、親子共々処刑されて断家となった。

 

そして1573年12月22日、武田軍と徳川軍が真正面からぶつかり合った。
世に言う「三方ヶ原の戦い」である。
戦いまでの流れは諸説ありここでは省略させていただくが、信玄に誘き出された家康が完膚なきまで叩きのめされ、死の淵まで追い込まれたのはあまりにも有名な話であろう。

詳細は他の書籍等に譲るとして、本稿では、その先あまり知られていない信玄や山県隊の行軍に触れてみたい。

武田信玄年表

「三方ヶ原の戦い」の後、武田信玄は、すぐに西に進み、峠を超えて三河国に入ったわけではない。
旧井伊領刑部(史料によっては「油田」)に陣を敷いて年を越し、翌年1月7日(異説あり)、野田城に向けて出陣している。
その前に「露払い」とでも言おうか、山県隊が井伊谷を蹂躙している。
この時、山県隊は井平城に宿陣していたというし、柿本城から二俣城に向かう時、井伊谷を通っているのに何もなかったとは考えにくいので、井伊谷を蹂躙したのは、1月3日ではなく、前年の12月と考えるのが自然である。

いずれにせよ、龍潭寺や二宮神社などは、山県隊によって火をつけられて全焼している。
武田軍は、寺社を燃やしながら進軍している。それで、川名の福満寺にも、
───山県隊がやって来て全焼した。
という伝承が残っているのであろうが、そこは進軍ルートからは外れている。山県隊の寄り道は考えられず、遠江守護職を巡る今川軍と斯波軍(斯波氏・大河内氏・井伊氏の連合軍)との戦いの時、今川氏軍よって焼かれたのであろう。

前山

姫街道沿いに建つ「史蹟」碑

姫街道(本坂峠を越える三河国と遠江国を結ぶ道・「本坂越」「本坂道」とも)を遠江国から三河国へ向かうと、三方ヶ原(台地)の北端、旧姫街道の長坂との分岐点付近に上の写真の「史蹟」碑がある。
「前を通るたびに気にはしているが、何の史跡なのか知らない」
そんな浜松市民が多い。

裏の碑文を読めば分かるのだが、「刑部砦」(三方ヶ原の戦い後の武田信玄の陣)跡碑である。実際は、ここから北に入った「前山」に本陣があったという。
もちろん、刑部だけでは25,000人規模とも言われた大軍を収容できないので、山県隊は井平城、武田勝頼は三岳城に入ったとのことだ。

「三方ヶ原御合戦、武田信玄、遠江國刑部村ニ越年之節、山縣三郎兵衛、同伊平村ニ宿陣」(『気賀近藤家家譜』「秀用」の項)

「武田勝頼公、三獄山峠に陣取給ふ。天正四年丙年、此節、井伊谷の住人、諸国へにげ、立帰り候者も有、不帰者も有之。」(『大谷姓由緒』)

※天正3年(1575)に長篠の戦いで敗れた勝頼が、翌年に三岳山城にいるわけがなく、元亀4年(1573)の誤記と思われる。

信玄砲1

武田信玄が撃たれたとされる場所

それは野田城攻め最中のことだった。2月9日の夜、 伊勢山田の笛の名手・松村芳休が笛を奏でると、その音に誘われて陣を出た信玄が狙撃されたという話がある。撃ったのは鉄砲の名手と伝わる鳥井半四郎。
実際に弾は当たったのか?
そして、それは死因となったのか?
今となっては分からないが、ともかくこの野田城攻めが信玄最後の城攻めになった。

信玄砲2

大槻盤渓「野田戦回顧」漢詩碑

 

驚倒暗中跳銃丸
野田城上笛聲寒
誰知七十二疑塚
不似一棺湖底安

驚倒(きょうとう)す 暗中(あんちゅう)銃丸(じゅうがん)を跳(おど)らするを
野田城上(のだじょうじょう)笛声(てきせい)寒(さむ)し
誰(た)れか知(し)らん 七十二(しちじゅうに)の疑塚(ぎちょう)
似(に)ず 一棺(いっかん)湖底(こてい)の安(やす)きに

【大意】 魏の曹操は偽の墓を72基作って墓を荒らされないようにしたというが、夜に野田城から流れてきた笛の音に誘われ出て銃弾に倒れた武田信玄の石棺は諏訪湖の湖底に沈められたので、あばかれる憂いはない。

鳳来寺1

鳳来寺

 

武田信玄は、野田城攻めの後、長篠城で休息すると、「峯之薬師」として親しまれている鳳来寺に向かった。開山は、役行者とも、その弟とも言われる利修仙人で、ご本尊は彼が彫った薬師如来である。
松平広忠夫妻もここに参籠し、竹千代(後の徳川家康)を授けられたことで有名な寺であるが、本来は病気治癒祈願の寺である。
武田信玄は、秘仏とされる薬師如来像を無理やり出させ、手で触ったという。

その姿を見ていた僧たちは、口々に言い合った
───何と恐れ多いことを。すぐに仏罰を受けるであろう。
そして、その様子を眺めていた一人の少年がいた。

───虎松
後の井伊直政である。

日輪院

日輪院跡(鳳来寺)

 

この時、虎松は、頭陀寺の松下氏の親戚筋の鳳来寺松下氏に保護されて、鳳来寺の日輪院で過ごしていたと伝わっているのだ。

医王院

医王院(鳳来寺)

 

当時の鳳来寺は、反今川の山家三方衆(田峯菅沼氏、長篠菅沼氏、作手奥平氏)が庇護していた寺であり、虎松は、この奥平氏の家老の黒屋氏に保護され、医王院に匿われていたともされる。
医王院といえば、「平治の乱」で落ち延びてきた源頼朝が3年間匿われた僧坊で、頼朝はその報恩に伽藍諸堂宇を新築したとされる。表参道の1425段ある石段の下半分も頼朝の寄進だという。
※平治の乱:平治元年(1159)12月、京を落ちた源義朝・頼朝親子らは東国を目指すが、頼朝は途中で一行とはぐれた。義朝は、平治2年(1160)1月3日、尾張国野間にて長田忠致に入浴中に襲われ「我れに木太刀の一本なりともあれば」と言い残して謀殺された。

頼朝は、平宗清に捕らえられて2月9日に六波羅へ送られ、池禅尼の嘆願などにより死一等を減ぜられて3月11日に伊豆国の蛭ヶ小島へと流された。したがって、鳳来寺に「3日間隠れていた」「3週間隠れていた」なら分かるが、「3年間隠れていた」というのはありえない。

 

「直虎紀行」(番外編) ~武田信玄のお墓巡り~

信玄塚1

福田寺の信玄塚

 

信玄塚

津具の信玄塚

さて、鳳来寺を出た武田信玄は、田口の福田寺で亡くなり、遺髪を埋めた墓(信玄塚)が建てられた。
遺体は棺桶に入れて運ばれ、津具の信玄塚に埋められたという。また、福田寺以降の武田信玄は、影武者の武田逍遥軒信廉が務めたともいう。

 「保養之ため長篠に逗留也。鳳来寺へ御仏詣有て、主従本堂に列座致しけるが、いかにも苦しげなる躰なり。歩行ハ一向不叶、跡部美作が肩にすがり、よろめきよろめき漸く本堂へ上り給ひて、内陣へ入、薬師之法を一座執行し給ひて、夫ゟ瀧本坊へ御入なり。僧中へ一礼ありて、鳳来寺ゟ同国田口村福田寺に本陣を居へたり。此所にて小せり合有。然る処、信玄、病気、甚重り、疵所痛強く、苦悩甚敷、夜半過、寝所にて近習之者共一同にわつとなく声聞こへけるが、此時、信玄、臨終之由なり。翌朝、常に無之、新敷櫃一ツ、行列之跡に持せ、甲府へ帰る。是、則、信玄之死骸成る由なり。」(『野田実録』)

信玄の死を看取ったのは、最後の側室・禰津の方(長野県小県郡禰津村の豪族の禰津元直の娘)であった。
信玄の死後、遺髪、突眼の霊薬6個を持って、2人の遺子(信貞・信清)と共に落人となって各地を転々とし、堀越(静岡県袋井市堀越)に着くと、農民となり、祠を建てて遺髪を埋葬したという。
その祠は、信玄が亡くなった寺の名に因んで「福田寺」と称した。

しかし、明治24年(1891)、海蔵寺(応永10年(1403)に今川仲秋が建立し、父・貞世を開基とした中遠の大寺・袋井市堀越)に統合され、村松家には今なお信玄公が愛用した突眼の霊薬と、禰津の方の守り刀が現存するという。

根羽

根羽の供養塔(長岳寺の供養塔のレプリカ)

信玄終焉の地・墓所には、根羽(信玄塚)説、駒場(長岳寺)説、石棺に入れて諏訪湖に沈めた説がある。

(次回、最終・拾の巻へ)

 

おんな城主直虎 登場人物の史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

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著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

 





1位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


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