井伊家

意外と武闘派・昊天宗建!井伊の赤鬼を支えた長刀の名人は僧侶としても大成す

大河ドラマ『おんな城主直虎』で、独特の存在感を放っていた僧・昊天宗建こうてんそうけん

お茶の間の話題になっていたのはもう一人の僧・傑山宗俊(市原隼人さん)だったが、昊天を侮ってはいけない。

史実では南渓和尚に【長刀なぎなたの昊天・弓の傑山】と呼ばれる武闘派の一面も持っていたのである。

いかにも温厚そうな小松和重さん(画像検索はコチラ)からは想像しにくいながら、ドラマでは要所要所で井伊直虎に適切な助言も行っていた。

いったい昊天とはいかなる人物であろうか?

 


龍潭寺では仁王様のように双璧をなす武術の達人?

昊天と傑山が共に武名を知られる契機となったのは1584年小牧・長久手の戦いである。

豊臣秀吉と徳川家康という二大勢力が真正面からぶつかった一戦。
この戦いで井伊直政が武田遺臣を含めた赤備えを率いて派手な戦功を飾り、後に「井伊の赤鬼」としてったことでも知られているが、その際、南渓和尚が直政のそばに仕えさせたのが、この2人だったのである。

ゆえに一部の戦国ファンからは
──2人共若く、龍潭寺では仁王様のように双璧をなす武術の達人
と思われている方が多い。

一方のドラマでは、必ずしもそのような配役ではないことがご理解いただけるだろう。
昊天を演じる小松和重さんは1968年2月生まれの48歳で、傑山の市原隼人さんは1987年2月生まれの29歳。約20歳ほど昊天の方が年上であるからして、
──昊天が直虎に学問を教え、若い傑山が武術を教える
という設定なのであろう。

しかし、である。
ドラマにケチを付けたいのではないが、正直この年齢設定にはかなりの無理があるように感じてならない。

彦根の龍潭寺

 


傑山よりも50年も後に遷化している

昊天と傑山の史実における年齢相関はいかなるものだったのか。
以下に主要な人物の生没年を示してみたので、全体を通して把握してみたい。

井伊直虎(不詳-1582)
井伊直親(1535-1563)
小野政次(不詳-1569)
井伊直政(1561-1602)
龍潭寺一世 黙宗瑞淵(1463-1554)
龍潭寺二世 南渓瑞聞(不詳-1589)
◆龍潭寺三世 傑山宗俊(不詳-1592)
龍潭寺四世 悦岫永怡(不詳-1622)
◆龍潭寺五世 昊天宗建(不詳-1644)

昊天も傑山も生年は不明なれど遷化(せんげ・僧侶が亡くなること 示寂とも)した年は判明しており、上記を参照すれば、昊天(小松さん)が傑山(市原さん)よりも歳上というのはさすがにあり得ないのではなかろうか。
なんせ昊天は50年以上も後に亡くなっているのである。

私個人としては
──傑山は南渓と同世代で、昊天は直虎より年下
と考えている。
仮に、井伊直虎と井伊直親、小野政次のメイン3人が1535年生まれだとして、昊天も同年生まれならば、昊天遷化時の年齢は1644-1535=109歳になってしまう。
更には、3人よりも20歳も上だとすると129歳。さすがに戦国時代ではあり得ない。
では、例えば80歳が没年だとすれば1564年生まれとなり、井伊直政と同世代になる。ゆえに私は井伊直親や小野政次が死んだ頃に昊天は生まれたと考えている。

昊天和尚坐像(彦根の龍潭寺)

 


鬼武蔵・森長可や池田恒興の討ち取りに貢献!?

では実際に昊天が史料にどのように記載されているか。『井伊家伝記』(龍潭寺九世・祖山法忍)を見てみよう。
先に原文を記すが、読みづらい方は、その先の意訳文へお進みあれ。

「其節ハ、祐椿、次郎法師ハ御遠行、實母斗御在命故、俄ニ大名大将之御威勢御満足に被思召候得共、大軍之先手殊之外、氣遣ニ思召、松下源太郎を以種々御立願有之候。右御立願之訳にて天照大神ゟ黙宗和尚江御授被為遊候、「日月松有之金銀の扇子」を直政公先手大将之陣扇に被遣候。右之扇子ハ宝物故、龍潭寺に相傳、則、扇子に記録有之、於井伊谷南渓和尚弟子衆両人被遣候。出家といへとも武藝達者に御座候。壱人ハ傑山と申候亭、強弓なり。壱人者彦根龍潭寺開山昊天なり。長刀上手にて今以一宗にて長刀昊天と申候。於長久手、池田勝入、森武蔵守、両備を追崩、敵数多討取、直政公御自身高名勝利を得也。」(龍潭寺九世・祖山法忍『井伊家伝記』)

【大意】 「小牧・長久手の戦い」の時は、祐椿尼(井伊直虎の実母)、次郎法師(井伊直虎)は他界していて、ひよ(井伊直政の実母)だけが生きていた(実際は、南渓和尚も生きていて、直政に「旗は井の字の紋、吹き流しは正八幡大菩薩」と教えている)。
井伊直政は(「井伊の赤備え」のデビュー戦の)大将として参加することになったので、やる気満々ではあったが、大軍の先鋒となると心配もあり、ひよの再婚相手・松下源太郎清景が、社寺を回って戦勝祈願をした。
その時、龍潭寺においては、天照大神から龍潭寺開山・黙宗和尚へ授与された「日・月・松(にち・げつ・しょう)の絵柄の金銀の扇子」を、「先鋒の大将に任命された井伊直政の陣扇に」と授けられた。この扇子は、寺宝で、現在も井伊谷の龍潭寺に保管されている。
また、井伊谷では、南渓和尚が2人の弟子を遣わした。
この2人は、僧侶ではあるが、武芸にも通じていた。1人は「傑山宗俊」(のちの龍潭寺三世)といって、強弓(つよゆみ、ごうきゅう)の引き手である。もう1人は、「昊天宗建」(のちの龍潭寺五世にして彦根の龍潭寺開山)といって長刀(なぎなた)の達人で、「長刀昊天」と呼ばれていた。
この「小牧・長久手の戦い」では、「長久手の戦い」において、池田恒興(勝入)、「鬼武蔵」こと森武蔵守長可の両隊を追って討ち、井伊直政は名をあげ、「井伊の赤鬼」と恐れられた。

戦国ファンの心を震わせるのは、やはり池田恒興と「鬼武蔵」森長可を討ち取ったことであろう。

いずれも織田家→豊臣家で重用されていた重臣中の重臣で、特に森長可は父の可成と共にその名を轟かせていた。織田信長の小姓として知られ、本能寺の変で死した森蘭丸も、イメージはかなり異なるが可成の息子であり、長可の弟だった。

ちなみに直政はいかにして池田・森両軍を崩したのか?

赤備えの鉄砲隊で長可を倒した後に「突き掛かり戦法」(先鋒としてがむしゃらに突撃し、敵の陣形を崩すという過激な戦闘方法)を敢行したとされ、昊天もそばで付き添っていたと思われる。

その後、合戦に参加したという記録は現在のところ確認できないが、1602年の直政没後も各寺で活躍していることから井伊家にとって覚えのよい存在であったことは想像される。

井伊直政
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長刀の達人であり、弓の達人でもあり?

ここからは直政没後の昊天に関するエピソードを見ていこう。

先にも述べたとおり龍潭寺の僧侶は、学問にも武芸にも通じていた。

昊天に関しては、「長刀の達人」として彼の長刀が井伊谷の龍潭寺に保管されているが、彦根の龍潭寺では「弓の達人」として弓が保管されている。井伊家の当主として大坂の陣に参加する直孝(井伊直政の次男)の命令で烏を射た話は、「烏塚」と共に残っており、もしかしたら長刀にも弓にも通じていたのかもしれない。

もちろん僧侶としての本分も忘れることなく、慶長7年(1602年)、直政の遺命により佐和山に豪徳庵を創建すると、慶長15年(1610年)には萬松山龍潭寺の5世住職に就任。翌16年(1611年)には妙心寺97世住職となっている。

さらに活躍は続く。
元和3年(1617年)には 彦根に弘徳山龍潭寺を開山。さらにこの頃、安中には井徳山龍潭寺も創建(開山は昊天宗建の弟子・大龍和尚)している。

井徳山龍潭寺は、中野直由の妻が安中井伊氏の菩提寺とするため、子の松下一定(旧姓「中野」・松下氏の養子)に創建を願い出たのがキッカケである。

そして迎えた元和5年(1619年)、すでに大坂の陣も経て文治の世へと少しずつ進んでいく最中、昊天はとあるトラブルに関わる。井伊直政やましてや直虎とも関係のない話であるが、昊天の足跡として記しておこう。

遠江井伊家歴代の位牌(彦根の龍潭寺)

 


アジールとしての龍潭寺で6人の村人を匿う

井伊が彦根に本拠を移した後、元和5年(1619年)9月27日から井伊谷領主となっていたのは近藤氏であった。

ときの領主は近藤秀用。秀用は、近隣の三岳村と井伊谷村との「山論」にについて、三岳村の言い分のみを取り上げ、山境の証文を取り上げた。「山論」とは山の使用権のことであり、薪取り・柴刈り等が行われるため、生活にモロに直結。ドラマ真田丸の序盤(第3回)で真田の郷の者たちが隣村と利権を巡り争ったシーンがあったが、あれと同様で村人としては簡単に譲れない問題であった。

要は、近藤秀用は三岳村に肩入れしたのであり、それから約4年半が経過した寛永元年(1624)2月24日、井伊谷の与三左衛門ら6人を捕らえようとすると、彼らは龍潭寺へ駆け込んだ。

龍潭寺は「守護不入」(領主でもみだりに侵入することはできない)の寺。つまりアジール(聖域・避難所)であり、領主の近藤秀用とて簡単に手出しはできない。結果、同寺へ逃げ込んだ6名を捕らえることができず、引き換えに彼らの妻子を牢に入れることで、自らの腹の虫を抑えた。

昊天和尚は、6名を連れて近藤秀用に2度ほど詫びに行ったが、結局許されずじまい(妻子のみ許された)。
そして寛永8年(1631)2月6日、近藤秀用没(享年85)で亡くなると、当時方広寺院代だった昊天宗建はその葬儀を執り行う(秀用の墓は方広寺にある)。

当人はそれから約13年後、正保元年(1644)に遷化している。井伊の戦乱期と共に生きた人間としては、最も長生きした一人であろう。

《昊天宗建 略年表》
天正12年(1584)3月 南渓和尚の命で「小牧・長久手の戦い」に参戦
慶長7年(1602)2月1日 井伊直政没。遺命により佐和山に豪徳庵を創建
慶長15年(1610)2月16日 萬松山龍潭寺5世住職となる
慶長16年(1611)3月16日 妙心寺97世住職となる
元和3年(1617) 彦根に弘徳山龍潭寺を開山
寛永元年(1624)2月 井伊谷住人6人が萬松山龍潭寺に駆け込む
寛永8年(1631)2月6日 近藤秀用(享年85)没。方広寺院代・昊天宗建、葬儀を執行
正保元年(1644)12月10日 遷化
※参考ページ:戦国未来の戦国紀行

著者:戦国未来

戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。


自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

 



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