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イラスト・霜月けい

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おんな城主直虎特集

政次ロスの皆様へ送る……高橋一生さん演じる小野政次の最期を史実で確認&哀悼の意を……

更新日:

おんな城主・井伊直虎の敵にして実は盟友。
そして幼き頃から彼女に対して淡き恋心を抱いてきた小野政次が、いよいよ退場となります。

世間では、かなり早い段階から「政次ロス」という言葉が飛び交っておりました。
ネタバレになりますので当サイトでは敢えて触れてきませんでしたが、8/13放送後の予告編でバリバリ匂わされていたので、もはや解禁でよいでしょう。

ということで本稿では、あらためて小野政次の史実における「死」について考察してみたいと思います。

著者は、井伊家の地元・浜松にて常にトップスピードで調査・取材を続けている戦国未来氏。
当サイトで井伊直虎特集を担当している気鋭の書き手です。
(以下、本文へ)

小野政次と2人の息子の墓と供養塔・石仏

 

虎の目一族の目を持つ(?)高橋一生さん

「君の笑顔が見たいから、僕は悪を演じきる」
大河ドラマ「おんな城主直虎」で高橋一生さんが演じるのは、井伊家の家老・小野道好(「小野家系図」では小野政次)です。

高橋さんの何がいいかって、茶色の目です。

昼は瞳孔が閉まって相手の警戒心を削ぎ、夜は開いた瞳孔が黒く闇に光る虎の目。
あの目を見ていると「小野家が井伊家の庶子家(分家)だという説」、ひいては「井伊家が虎の目を持つ一族」だという説――も信じたくなってきます。

政次の生涯については、既に以下の記事にまとめておりますので、今回は、「処刑された」と伝わる哀しき彼の死について掘り下げてみましょう。

小野政次(鶴丸)とは? 権力争いの末に勝ち取った34日間の天下【おんな城主 直虎人物事典⑦】

 

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井伊家の分家説もある小野一族

まずはおさらいとして、ざっと小野家の出自を見てみます。

ドラマでは、「流れ者だった小野政次の祖父・小野兵庫助を、井伊直平が拾ったのが小野家の始まり」という設定になっておりました。
井伊直平は、前田吟さんが演じていた直虎の曾祖父ですね。

詳細は後述しますが、小野家は“小野篁”の子孫ではなく、井伊家の庶子家だとする説もあります。
まずは下の地図をご確認ください。

井伊氏の本拠地にして本貫地(=苗字の地)である井伊谷。
その南西スグそばに「小野」という地があるのが見えますか? 浜名湖から見て北東の位置、井伊谷は静岡県浜松市北区引佐町にあります。

その南西にある「小野」という土地を与えられた井伊家庶子家(分家)が「小野姓」を名乗ったという説があるのです。
『相国寺供養記』に登場する「英比信濃守小野氏信」の「英比」が「いひ」であり、「いい(井伊)」であることが、この説の1つの根拠となっています。

これまでの通説では、「小野家系図」にあるように小野家は、平安時代の天才貴族・小野篁の後裔とされているんですけどね。

その通説によりますと、小野氏の本貫地は、井伊領南東端の「小野」(静岡県浜松市浜北区尾野)で「小野篁の長男・小野俊生が開拓した土地」と伝わっており、後に、小野兵庫助が井伊谷南西の小野に移り住んだとしています。
小野篁から数えて兵庫助は25代にあたり、その孫の政次は27代目になりますね。
※蛇足ですが、吹越満さんが演じていた父の小野政直が26代目です。

話が少しそれますが、尾野にある高根神社の名は、小野篁に由来します。地名や家名、それに神社や寺の名は、諸事情が複雑に絡み合って変わっていくことが多々あります。
高根神社の場合は、始まりが「たかむら(篁)神社」で、それが「たがむら(多賀村)神社」→「多賀神社」→「たかね(高根)神社」と変わったとされます。

高根神社(浜北区尾野。ドラマでは龍宮小僧を探して幼い三人組が洞窟に入って死体を見つけるシーンがありますが、その洞窟の入口は、高根神社裏の古墳がロケ地です。)

なお、江戸時代になると「小野が2ヶ所あるのは混乱を招く」として、近藤氏が、井伊谷の南西にある「小野」を「井小野」、井伊谷領の南東端にある浜北区の「小野」を「尾野」としました。
このとき尾野の小野氏は「領主(近藤氏)よりも名家であるから」という理由で、姓を強制的に「鈴木」と変えさせられ、先祖伝来の宝物も近藤氏に取り上げられます。

では、出自はこの辺にしておき、本題へ入りたいと思います。
史実の小野政次は如何なる最期を迎えたのか?

 

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井伊家伝記と地元の伝承で異なる処刑までの経緯

『井伊家伝記』によると、虎松(後の井伊直政)の父・井伊直親は、「鹿狩に行く」と称して徳川家康と連絡をとっていたことを、目付家老の小野政次が今川氏真に報告し、間もなく誅殺されたとなっています。

そして後日、徳川家康が井伊谷を占領すると、
「よくも告げ口したな」
と小野政次を処刑し、遺子・虎松を「そなたの父は、儂に味方しようとして殺されたのだ」として召し抱えます。実にスムーズな流れですね。

しかし、地元・井伊谷の伝承では、少々異なります。
徳川家康が小野政次を処刑する時に、
「井伊直親は儂に内通していなかったが、内通していたと今川氏真に讒言した(嘘の情報を教えた)不忠の家臣であるから、小野を処刑する」
と言ったというのです。

処刑の理由はズバリ「下克上」ですね。
家臣が主君を倒して領主になったことが家康の怒りを買ったとされています。

小野政次は、家康の手から逃れるため、城を後にします。
この辺は、ドラマでも同じような展開になっておりますね。

 

「竜ヶ岩洞」という洞窟に隠れていた!?

では政次は、ドコへ逃げたのか?
通説では「堀川城」ですが、伝承では「洞窟」です。

竜の爪痕が残る――。
そんな伝承のある「竜の爪岩」が「竜ヶ岩山」(旧・龍ヶ石山)にあり、その山頂は井伊家の隠し砦となっておりました。
山麓には「竜ヶ岩洞」と呼ばれる洞窟があり、現在は立って歩けるように整備され、大人気の観光スポットとなっています。

竜ヶ岩山(静岡県浜松市北区引佐町田畑)

山頂の隠し砦は徳川軍の捜査対象でしょうから、小野政次は、山麓の「竜ヶ岩洞」に隠れていたようです。
これを見つけ出したのが「井伊谷三人衆」の近藤氏とも、中井氏とも言われています。
※ちなみに山頂の隠し砦は、後に、武田軍が井伊谷を占領した時に改修されて狼煙台になりました。

では、捕まえられた政次はどうなったのか?

「小野政次の処刑」について検索すると、ネット上では主に「磔にされた」とヒットします。
しかし実際は、「蟹淵(がにぶち)」の河原にあった平らな巨石の上に座らされて首を刎ねられたようで、辞世は残っていません。

「蟹淵」(ちなみに井伊谷川にはモズクガニがいる)は、後世の河川工事により消失しました。

小野政次が座った岩は撤去され、行方不明とのこと。
実際の処刑場は、当然、淵ではなく、淵の横の河原であり「大堰河原」と言います。
いずれにせよ、北岡橋付近で処刑されたのは間違いないでしょう。

※大堰(おおせぎ):川を堰き止めるダムを「堰(せき)」というが、この地方(遠州弁)では「せぎ」と言う。

蟹淵跡

処刑されたのは永禄12年4月7日で、法名は「南江玄策沙弥」となりました。

政次が処刑されると、(史実では存在した)2人の息子も1ヶ月後に殺され、小野政次の家は断家となります。※現在の小野家は尾野の本家と、小野政次の弟たちの家です

永禄12年5月7日、処刑。
法名は幼泡童子と幼手童子です。

小野政次と2人の息子の墓と供養塔群(城山山麓)

 

小野政次親子の墓と供養塔

いざ斬首されてしまった小野政次は罪人ですから、寺に墓をたてられません。
おそらくや処刑地の河原には、自然石や石仏などが目印として置かれたことでしょう。

しかし、ひょんな事から後世になって小野政次の墓が整備されます。

「中井氏が小野政次の怨霊に祟られた」のがキッカケだったというのです。

中井氏がなぜ小野政次に祟られたのかは不明。
しかし同氏がわざわざ整備した説としては、二つあります。

説①:説①:中井氏が小野政次を見つけて徳川家康に差し出した。
説②:中井家は小野政次の妻の実家であり、なんとかして小野政次の墓をたてようとして、考えついた嘘。

元和4年(1618)3月16日、中井浄林は、蟹淵の西岸に小野親子供養の「経塚」を築きました。
咲いた椿の花の色が真紅であったので「椿叟(ちんそう)塚」と呼ばれたそうです。

小野但馬守政次 終焉の地とあるが、「終焉の地」はここではなく蟹淵処刑場で、ここはあくまで「墓所」である

その後、中井氏は、代替わりの度に供養塔を建てたそうです。
この小野政次と2人の息子の墓と供養塔群は、河川工事により、現在は、信州街道を挟んで井伊谷川とは反対側の路傍にまとめられています。

※向かって左端の3基の立石と3個の岩がお墓で、他は歴代中井氏がたてた供養塔や石仏になります。

小野政次と2人の息子の墓と供養塔・石仏 ※なぜ墓が2セット(立石と岩)あるのかは不明だそうです

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小野政次親子の怨霊と但馬社

ここからは少し蛇足になりますが……。

中井直頼『中井家日記 ~諸色覚書~』(1615~1684年の日記)という本があります。
こちら、門外不出、他言無用の秘伝書でして。
基本的には日記ですが、所々に覚書がある暴露本でもあります。

中井家当主しか読めない本なので、真相が書かれているとされています。
それが『引佐町史』編纂にあたり公開され、とんでもないことが明らかにされました。

たとえば、井伊家については、
「(前略)井伊殿元祖此井中より被湧出と云々。其後代々井伊谷を知行被成来り候。然処に、中頃、井伊殿の御子孫断絶に及候に付て、九条の家より井殿を続申候と申伝候事。」
と書かれています。

簡単に要約しますと、
「井伊家が断絶したので、九条家(藤原家)の人間を井伊谷に呼び、「井伊介」と名乗らせて、井伊家を継がせた」
というのです。

気になるのは小野但馬守政次が幽霊となったという記述。
同書には、「但馬明神のいわれ」として、次のような覚書があるのです。

「一、但馬明神のイハレ いにしへ井殿御代に小野但馬守と申候て井伊殿家老人と云々。井殿打死被成御跡犯略の砌、あやまりの子細有之候付て、井殿一紋衆より但馬守に切腹被仰付候由に候。其後、悪りようと成、与惣左衛門子孫にタゝリをなされ候に付て、則、若宮と説社を立、先年の但馬屋敷に祭申候処に、彼地、近藤石見殿御知行に成、内屋敷に成申候に付て、但馬殿右社をば二ノ宮の敷地へ引申つる。然処に、二ノ宮御建立の次でを以て、但馬殿社をも弥五右衛門建立申候。正保四年丁亥三月五日に二ノ宮御遷宮の上にて御タクを上げ申候へば、此次でに但馬殿タタセンに、向後、我をぱ但馬明神と説候へ由、望に存候。其上、二ノ宮の末社と号、鳥居より内に社立候へ由、タクセンにて候。則、二ノ宮の御タタをうかがいへば、右但馬殿タクセンに少しも替事無之候付て、同三月七日につちのへ申曰、鳥居より内に社を立、但馬明神と説申侯。但馬明神領・下畑弐畝歩、以前より与惣左衛門申請置候キ。正保弐年酉年彦九郎殿自分の御検地の時も先例の断申、右通、本田の内にて、下畑弐畝歩御供領に附申侯事。」

【大意】 井伊直盛が桶狭間で殉死すると、家老の小野政次は井伊領を奪い取ろうと思って、今川氏に讒言したので、井伊一門により切腹を申し付けられた。すると小野政次は、悪霊となり、代々中井氏に祟った。そこで、小野屋敷に塚を築き、その上に但馬殿社を建てたのであるが、江戸時代になって、井伊氏が彦根に移り、近藤氏が井伊谷の領主となると、小野屋敷を屋敷(井伊谷近藤氏陣屋)とした。その時、屋敷内にあった但馬殿社を二宮神社(宮司は中井氏)の敷地に移し、屋敷内の塚も均した。正保4年(1647)の二宮神社の遷宮の際、小野政次の神霊が、託宣(神が人に憑依したり、夢に現れたりして意思を告げること。お告げ。ご神託)で、「二宮神社の鳥居付近に社殿(末社)を建て、今後は但馬明神と呼ぶように」指示したので、その通りにした。

──なんとなんと、小野政次は徳川家康に処刑されたのではなく、井伊氏に切腹させられた!というのです。

果たして真実なのか。今後の研究によるところが大きいかとは思いますが、一応頭の片隅に……。

天王社(二宮神社)にある立て看板を読んでみましょう。

拝殿横の天王社(二宮神社)

文字が小さすぎてわかりづらいので、以下に表記させていただきました。ご覧ください。

「天王社(須佐能男神社) 二宮神社境内
来社五社 但馬神社 伊雑皇神社 神明神社 鎌足神社 鹿島神社

小野政次(小野但馬守 井伊家の筆頭家老)幼小時鶴丸
一時井伊谷城主(NHK大河ドラマにて高橋一生好演中)
井伊直虎を追いたてて井伊谷城を専横した小野政次の天下は、わずか34日間のことでした。
遠江侵攻を開始した徳川家康によって井伊谷城は攻めこまれると、山中に逃亡し捕らえられ小野政次とその幼い子息2人は刑場・蟹淵(井伊谷川)において処刑された。
人々はこれを哀れみ、その霊を鎮めんと経塚に続いて二宮神社の境内に小野政次を祭神とした但馬社が建てられた。(現在は天王社に合祀されている)
永禄11年 1568年の事 逆臣なれど祟りを恐れる
二宮神社物語より」(現地案内板)

「小野政次34日間の天下」というのは、「最長で」という但し書きが付きます。
具体的には、井伊直虎が徳政令に調印した11月9日から、井伊谷城が徳川家康に奪われた12月15日の早朝まで。

実際は、井伊直虎が徳政令を施行したことを政次自身が駿府へ報告に行き、井伊谷城主と認められ、代わりに出陣の準備やら虎松の殺害を命じられたのでしょうから、城主であった期間はもっと短いと思われます。

※通説では、駿府へ行ったのは、11月9日ではなく、12月6日以降(12月6日の武田信玄の出陣(駿河侵攻)を聞いて、今川氏真の指示を仰ぐために駿府へ行った)とされていますので、その時に城主として承認されたとすると、城主であった期間は数日となります。

 

政次死後の小野家はどうなった?

小野政次の家は、父子共に処刑されて絶家しました。
が、小野政直には6人の息子がおり、その行く末は以下の通りです。

・長男:但馬守政次→絶家
・次男:玄蕃朝直→与板小野家(与板藩家老家)
・三男:太兵衛
・四男:正賢→備中小野家
・五男:正親→高畑小野家
・六男:利左衛門兵蔵→井伊谷小野家(金指近藤家家臣)

次男・小野玄蕃朝直は、「桶狭間の戦い」で討死しておりました。
その子・小野亥之助(後の朝之)は虎松と共に徳川家康に出仕し、子孫は与板井伊家の家老を務めます。

井伊谷小野家墓所(宝林寺)

それにしても、政次パパの小野政直は精力絶倫です。
五男・正親と六男・兵蔵の母親は側室で、政次パパが病死した時に妊娠中。正親と兵蔵は、2人共、政次パパが亡くなってから生まれています。つまり、死亡時(ドラマでは白髪頭でしたが)、側室は、少なくとも2人いたと考えられています。
病気になって死を予感し、「死ぬ前に1人でも多くの子孫を残そう」という執念が凄まじい。

しかし、その肉食系DNAを受け継いだはずの小野政次は、ドラマでは草食系で淡白。
妻や2人の息子も登場しません。
兄弟が子孫を残せば自らは直虎と井伊家に命を捧げても悔いはない――。
ドラマ的には、そんな思いだったのでしょうか。
あらためて哀悼の意を表します。合掌。

槍で胸を突かれた小野政次が最期の会話をできた理由! 直虎が刺したのは心臓ではなく肺だった!?

 

おんな城主直虎 登場人物の史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

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著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

 





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