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おんな城主直虎特集 今川家

今川氏真とは? 人質だった家康を頼り、親の仇・信長に蹴鞠を披露する不思議

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今川氏真(うじざね)に対して、どんな印象をお持ちか?

初めて聞いた方もいるかもしれないが、彼のことを戦国ファンに尋ねると、ほぼ100%の確率で「ダメな君主」と答える。

理由は単純。
父・義元の代には「海道一の弓取り(東海道で一番強い大名)」と称された同家をあっという間に潰してしまったからだ。そして、今では細川政元、大内義隆と共に「戦国三大愚人」と呼ばれている。

確かに今川義元も、桶狭間の戦い織田信長に首を取られている。
それゆえ親子セットで負のイメージがつきまとうこともあるが、そもそも義元は戦国時代を代表する武田信玄や北条氏康と五分に渡り合って同盟を結ぶに至ったからこそ西の尾張へ進出することができ、そこで運悪く信長に破れてしまっただけの話だ。
破れたことに間違いはない。されど、義元本人に能力が皆無だった――と考える戦国ファンも少ない。

一方で、氏真に対する評価は辛辣だ。

義元亡き後、信玄徳川家康に追い出されて妻の実家である北条家へ落ち延び、更にそこから流浪の民となって最終的には文化人として生きた。毅然で勇猛たる戦国武将のイメージからは程遠い。和歌や蹴鞠などと言った貴族趣味に興じた一面も、彼の印象を悪化させている一因であろう。

実際のところ、氏真は本当に無能だったのか。彼が情けない武将だったから今川は滅びたのか。2017年大河ドラマ『おんな城主 井伊直虎』人物事典の第17回は、今川氏真にスポットを当ててみたい。

 

父・義元と違って意外に長生き 享年77歳だった

今川氏真は、戦国大名・今川義元の嫡男として1538年、駿河国で生まれた。

母は武田信虎(信玄の実父)の娘という当時バリバリの戦国サラブレッド。実際、人生の前期は大名として過ごし、後期は文化人という数奇な運命を辿っている。

しかも享年は77歳(1615年)という、当時としては格別な長生きも果たしており、これには「意外だ」という印象をお持ちの方も少なくない。

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後に文化人として名を馳せたのには、それなりのバックボーンもある。

彼の出身地・駿河は京都から多くの公家や文化人が招かれる「東の京」であり、もとより今川家が、足利将軍家を継ぐ資格も有した家柄だった。

街は京都を模して作られ、その中には京都にある地名も用いられた。
この「小京都」づくりは、義元の母・寿桂尼が公家の出であることや、義元自身が若い頃に京都で過ごしたこと、さらには将軍家に準ずる家柄という自負も起因するのであろう。

『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)には以下のように記されている。※先に【意訳】から記しておきますので原文は興味をお持ちの方がお読みください

【意訳】「今川氏真は、母が信虎の娘で天文七年(1538年)に駿河で生まれた。永禄三年(1560年)に従四位下となり、義元が戦死した後は今川領を引き継ぐ。ところが永禄十一年(1568年)になって武田信玄に攻め入られ、これを必死に守ろうとして戦うも遠江の掛川城へ追いやられ、ついには北条氏康のもとへ逃げ去ることになった。しかし元亀元年(1570年)、浜松の徳川家康を訪れるとその流落を憐れまれて、近江国の野洲に500石の領地を貰い、慶長19年(1615年)に亡くなる。77歳。戒名は豊山栄公仙岩院であり、墓は萬昌院にある。妻は、北条氏康の娘(早川殿)だった」

【原文】「氏真 五郎、彦五郎、上総介、刑部大輔、従四位下、入道号宗誾。母は信虎が女。天文七年、駿河国に生る。永禄三年五月八日、従四位下に叙し、義元戦死の後、遺領を継。十一年十二月、武田信玄、駿府に出張し、急に居城を攻。氏真、防ぎ、戦ふといへども、勢い屈して、終に城をさけ、遠江国掛川にうつり、のち、北条氏康がもとにいたりて寓居す。元亀元年十二月、また浜松にのがれ来りて、東照宮を頼みたてまつりしかば、その流落を憐みたまひ、懇に御撫育あり。そのゝち近江国野洲郡のうちにして、旧地五百石をたまひ、慶長十九年十二月二十八日、卒す。年七十七。豊山栄公仙岩院と号す。市谷の万昌院に葬る。後、この寺を牛込にうつさる。室は北条左京大夫氏康が女。」(『寛政重修諸家譜』)

信玄に攻められるとあっという間に本領を逃げ、そして北条や徳川の慈悲でもって、逆に長生きをしてしまう――という冴えないストーリー。実際のところはどうなのだろう。仮に額面通りの暗愚だとすれば、なぜそう言われるようになったのか。

今川氏真/Wikipediaより引用

今川氏真/Wikipediaより引用

 

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生粋の無能ではない? 支配強化や経済政策に手腕を発揮?

今川氏真は、桶狭間の戦いで義元が討死したために家督を相続したと言われてきた。

しかし現在は、永禄元年頃(1558年頃・学者によって異なる)に義元の跡を継ぎ、駿河国の支配強化や経済政策に手腕を発揮したとされている。

生前相続は当時特別に珍しいことではなく、お隣の北条家でも1559年に氏康が氏政に家督を譲って隠居している。

隠居とは、必ずしも一線から身を引くという意味ではない。

たとえば氏康の場合はそのまま小田原城で「御本城様」として政治・軍事の実権を掌握し、息子の氏政を後見するという「ニ御屋形」「御両殿」と称される形態をとった。

今川氏の場合は、隠居した義元が軍事担当(将来の構想を練る役)、宗主の氏真が駿河国を中心とする政治担当(現在の領国を運営する役)であったのだ。

家督を譲られた氏真は、最近は、為政者としての評価が見直されつつある。

これまでは前述の通り政治や戦よりも文芸(和歌、連歌、蹴鞠など)に興味を持つ愚者だと評価されてきた。特に江戸時代中期以降に書かれた文献では、政治を寿桂尼や三浦右衛門佐に任せて遊興にふけっていた暗君として描かれていることが多い。

寛政の改革」を推進した老中・松平定信は、自著の随筆『閑なるあまり』の中で、「日本治りたりとても、油断するは東山義政の茶湯、大内義隆の学問、今川氏真の歌道ぞ」(意訳 日本を治める立場になったとしたら、足利義政がお茶にハマったように、大内義隆が学問に没頭したように、今川氏真が和歌を作り続けたようにしてはならない)と評している。

確かに今川氏真は約1700首※1の和歌を残した。

しかし、そういった「文化人」的性格は主に後期の話であり、前期では戦国大名であった(ただし、人生前期の駿府今川館には、京都から下向した優れた歌人や蹴鞠の名手がいて、直接指導を受けられる環境にはあった)。

実は「暗君」という評価は、氏真自身だけで片付けられるのではなく、側近にも問題があるのではなかろうか?
義元の側近は、黒衣の宰相・太原雪斎であった。氏真の側近とは前述の三浦右衛門佐である。

太原雪斎については軒並み高評価が与えられ、実績も十分に残しているが(参考:人物事典今川義元)、一方の三浦右衛門佐については、例えば武田四天王の一人として知られる高坂弾正忠信昌が『甲陽軍鑑』の中で以下のように取り上げている。
「今川氏滅亡の要因は、山本勘介という優れた人物が9年間も駿河国にいたのに、評判が悪かったので採用せず、三浦義鎮のような「愚者」「佞人」(ねいじん・表向きは従順にし、腹の中ではあくどいことを考えている人)を重用して政務を任せたことにある」

更には菊池寛も次のように酷評した。
「彼(三浦右衛門佐)は今川家のキャンサーだといわれている。氏真が豪奢遊蕩の中心は彼だといわれている。義元の時よりは二、三倍の誅求があるのも、皆彼のためだといわれている。義元恩顧の忠臣が続々と退転したのも彼のためだといわれている。今川家の心ある人々は彼の名を呪っている。彼の悪評は駿河一国の隅々にまで響いている」※菊池寛『三浦右衛門の最後』より(青空文庫

駿河で起きた政治的混乱の原因は、むろん氏真が暗君であったことは否めない。さりとて一人っきりで何もかも国をおかしくできるわけではなく、側に仕えた配下の者(三浦右衛門佐)も原因があったようだ。そしてこのとき、更に氏真に対して追い打ちをかけるようなことが起きた。

徳川家康の独立だ。

※注1 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館)に1658首掲載

 

信玄の駿河侵攻に対して大慌てで逃げ出し……

桶狭間の戦いで織田信長に敗れた後、徳川家康は駿府に戻らず、岡崎に留まった。
そして三河国を統一。
今川傘下の生活から解き放たれて、俄然、家康は勢いづく。三河国の東と接していた今川領の遠江国でも、井伊谷城主の井伊直親や引馬城主の飯尾連龍がなびき、また、北遠の天野氏が武田信玄に付き「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」状態となった。

そしてこの対処として、今川氏真はあろうことか直親や連龍を誅殺したのである。
父の敵である信長を討とうと兵を挙げるならまだしも、その最中に配下の者たちに手をかける所業は見せしめとしての効果を期待したものであったのかもしれないが、決して上策とはいえない。
そうこうするうちに家中を支えてきた祖母の寿桂尼(義元の母)が永禄11年(1568年)3月14日に死去。同年12月、満を持して武田信玄が駿河国へ、徳川家康が遠江国へ同時に侵攻した。

今川氏は、平時は今川館(現・駿府城公園)で政務を行い、緊急時には居城の「賤機山城(しずはたやまじょう)」に籠もる。
武田信玄の駿河国侵攻が伝えられれば、当然、賤機山城に移って戦う場面であるが、駿府の今川軍は2000~2500人しかおらず、単独で武田軍と戦うことができなかったため、氏真は妻の実父である北条氏康の援軍を待った。

しかし、武田軍の進軍速度は想像以上に速い。
援軍を待っている暇はなく、もはや逃げる他に道はナシ。本来であれば、北条家のある東の相模国小田原へ向かうのが得策であるが、肝心の武田軍が東から攻めてきており、東へは海路で逃げるか、陸路ならば西に進むしか無い。そして氏真は西を選択した。
12月13日、建穂寺に入ると、『武徳編年集成』に「氏真、安部川ヲ過ル迄、従者二千余。土岐ノ山家ニ至ル時ハ、纔百騎ニ足ラズ」とあるように100人程度の人数しかおらず、掛川城(城主・朝比奈泰朝)で落ち会う約束をして別れた。北条氏康の娘である妻の早川殿は乗り物を用意できず、さらに、代々の判形(はんぎょう)を葉梨郷大沢(現・藤枝市上大沢)で紛失するほど慌ただしい逃避行だったという。

武田信玄は苦もなく駿府に入ると、賤機山城(籠鼻砦)に陣取り、今川館も美しい町並みも焼き払った。

駿府城天守台の発掘現場

駿府城天守台の発掘現場

四脚町(現・中町)の駿府城の四脚御門跡

四脚町(現・中町)にある駿府城の四脚御門跡(四脚門は格式の高い門で、駿河国衙の正門説、駿河守護所の正門説に加え、駿府今川館の正門説がある。)

 

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朝比奈泰朝の忠義だけが唯一の救いだった

駿河を追われた今川氏真が向かった掛川城の城主・朝比奈泰朝は、今川きっての忠臣であった。
氏真が出した井伊直親殺害命令が、新野左馬助の必死の助命嘆願により取り消された時には、主君・氏真の真意を汲み、単独で直親を討ってしまうほど君主に心から仕えていた武将である。
重臣の大半は氏真を見限って武田氏や徳川氏に寝返ったが、泰朝は最後まで忠義を尽くした。

掛川城

掛川城

今川氏真が駿府から追い出され、掛川城に逃げ込んだことを最も驚いたのは徳川家康であろう。
家康は、氏真が駿河・遠江両国をあきらめて相模国に逃げるか、駿府で武田信玄に討たれると思っていたはずである。
その氏真が遠江国へ逃げ込み、自らが手をかけなければならない状況を喜びはしなかったハズだ。まだ竹千代と呼ばれていた幼き頃、人質として駿府の松平屋敷で暮らしており、氏真とは旧知の間柄だった。その氏真を討たなければならない。

しかし当初は「すぐに落ちる」と思われた掛川城は、氏真が選んだ城だけあって(朝比奈泰朝が守るだけあって)、なかなか陥落しなかった。

霧吹き井戸

霧吹き井戸

掛川城(天守丸)には「霧吹き井戸」と呼ばれる水源がある。
その深さ、なんと45m! 日本で3番目に深い城郭井戸である(最も深いのは丸亀城の二之丸井戸で65m・2番目は福知山城の本丸井戸で50m)。
「霧吹き井戸」とは、徳川家康が同城へ攻め込んだ時に突然霧が吹き出し、城を覆って隠して攻撃を阻んだという伝承による。実際、城がかなりの長さで持ち堪えられることを、朝比奈泰朝の書状から窺うことができる。
以下が原文と意訳だ。

【意訳】 今度、不慮の事態が起き、是非に及ばず(いいも悪いも無く)、(今川氏真は)当城(掛川城)にお移りになられた。お供衆も2000~2500人と多く、籠城している。食料、その他、鉄砲、弾薬、矢などは、三年~五年分はある。(中略)永禄11年12月21日(後略)
※朝比奈泰朝外2名から大沢基胤・中安種豊宛書状。
【原文】今度不慮之儀不及是非候。当城へ御移被成、御供衆勢多被推籠候。御兵糧其外てつ放、玉薬、御矢以下五、三年之間、不足有(間敷)。爲物主可打入之由候。(中略)恐々謹言。十二月廿一日 (後略)
「朝比奈泰朝外連署状(写)」

 

徳川家康に掛川城を攻められるとついに国を出て小田原へ

徳川家康の掛川城攻めは、12月22日から始まったという。
本当に3~5年は籠城できる食料と武器・弾薬があったかどうかは分からないが、いずれにせよ北条の援軍を見込めない戦いには限りがあった。
半年を待たずして、翌永禄12年(1569年)5月6日、氏真は家康の開城要求を受け入れ、相模国の小田原城ではなく、伊豆国の戸倉城に退去することとなった。講和条件は「徳川家康が武田信玄を駿河国から追い出して、駿河国を今川氏真に渡す」という驚くべき内容であったとされるが、定かではない。

「海の東海道」掛塚湊

「海の東海道」掛塚湊

5月15日、氏真は、天竜川河口の掛塚湊(掛川城の南西・磐田市掛塚)から大型船に乗り、5月17日、蒲原城(静岡市清水区蒲原)に到着したという。
掛川城から東の伊豆国へ行く場合、「塩の道」(後の「秋葉街道」)を通って相良湊(掛川城の南東・牧之原市相良)へ行き、そこから船で伊豆国へ行くのが一般的である。

永井随庵『浜松御在城記』(天和元年(1681))によると、「氏真ハ、五月六日、掛川浦ヨリ乗船(掛川ヨリ相良程近候得共、敵地ニ近故、被廻候哉)」とある。武田軍(山県隊)が金谷付近まで迫っていたので相良湊を避けたとするが、私は遠江侵攻を図って今川義忠が討たれた「塩の道・塩買坂」の通過を嫌ったのではないかと想像している。なお、このとき氏真の護衛として、徳川家康は松平定家に掛塚湊まで送らせ、礼を尽くしたという。

今川氏真は、蒲原城から先は陸路を進み、5月23日、伊豆国と駿河国の国境にある戸倉城(徳倉城・静岡県駿東郡清水町徳倉)に到着。翌・元亀元年(1570)9月3日、今川氏真は、小田原早川の屋敷へ移った。
正室「早川殿」の名はこの屋敷の地名によるという。




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