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「おはんは白旗を掲げて降伏するとよか」
菊次郎は、右脚の膝から下を切断することになります。
まだ20才にも満たない青年にとって、その辛さたるや、想像に難くないでしょう。
右脚を失って移動もままならなくなり、西郷家の使用人・熊吉につきそわれて、なんとか俵野にまで移動できるという有様。
結局、地元住民の家で療養することになります。
そんな彼のもとに、父の西郷が訪ねて来ました。
既にこのとき、西郷は軍服を燃やし、愛犬を解き放っていました。
最期の時を覚悟していたのです。
「菊次郎、おはんは白旗を掲げて降伏するとよか。殺されることはなか」
「おいは、這いつくばってでも、父上についていきもす!」
菊次郎は父を追いかけようとしますが、右脚が切断された状態では、思う様に動けません。
這いずり回り、身動きできなくなったところを、熊吉に助けられました。
そして菊次郎は、叔父である西郷従道に降伏することになったのです。
従通は兄の忘れ形見である甥の菊次郎を見ると、大いに喜びました。
「菊、菊! おはんだけでん、生きていてよかった! 熊吉、礼を言うでな」
そして明治10年(1877年)9月24日、西郷隆盛は自刃します。
享年49。
永遠に別れることとなりました。
台湾に今も残る「西郷堤防」
菊次郎は、叔父・従通のはからいにより、アメリカ留学の経験を生かせる外務省に入りました。
入省後は、アメリカ公使館や本省でキャリアを重ねる日々。
日清戦争の結果を受け、台湾が日本領となった明治28年(1895年)、35才の菊次郎は台湾総督府へ赴任します。
そして、台北県支庁長や初代宜蘭(ぎらん)庁長を歴任しながら、4年半におよんだ宜蘭時代、菊次郎は統治に力を入れました。
農業や産業の奨励、土木工事等……様々な功績を残すのです。
菊次郎は、特に河川工事に力を入れました。
宜蘭市を流れる宜蘭川は、人々の生活を潤す水源ではあるのですが、毎年のように氾濫、市民生活をおびやかしていました。
そこで菊次郎は、巨費を投じて17ヶ月もかけ、宜蘭川に堤防を作ったのです。
お陰で宜蘭の市民は水害から守られるようになりました。
1.7キロにおよぶ宜蘭川堤防は、現在も「西郷堤防」と呼ばれ、傍らにはその業績を称える石碑も残されています。
さらに宜蘭市にある「宜蘭設治紀念館」には、菊次郎の写真はじめ、ゆかりの品が展示されています。
建物も、菊次郎の時代のものがそのまま残されているのだとか。
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帰国後、菊次郎は明治37年(1904年)から明治44年(1911年)まで、京都市長をつとめました。
前述の通り、小説版『西郷どん』は、菊次郎が京都市長として就任する場面から始まっています。
父の死から30年以上の月日が経過。
その記憶はなお鮮烈なものであったことが予想されます。
そして昭和3年(1928年)に死去。
享年68。
西郷の子の中では、二番目の長寿でした。
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文:小檜山青
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【参考文献】
『国史大辞典』
『教科書に載せたい偉人の息子』