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三条実美/wikipediaより引用

西郷どん特集 幕末・維新

三条実美55年の生涯と七卿落ちをスッキリ解説!岩倉具視と並ぶ幕末維新の公家代表はどんな人?

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貴族にとって「都落ち」というのは、これ以上無い悲壮感が付き纏います。
源氏は須磨で己の境遇を嘆き、菅原道真は死して祟りを招いたとされ、藤原純友は……ちょっと違いますね。

時が流れて幕末維新――。

明治政府でもかなり重要なポジションについた公家の一人が三条実美(さねとみ)です。

後に500円札にもなった幕末貴族の出世頭・岩倉具視よりも家格はずっと上で、公家の中でもエリートだった実美。
彼は幕末~明治維新の激しいうねりの中で「七卿落ち」という憂き目にも遭っています。

文久3年(1863年)、雨の中、都から追い出されたのです。
幕末といえば志士たちの激動の時代ですが、いったい貴族の間で何が起きていたのか?

公家ながら激しき生涯を見てみましょう。

 

元服前に当主となりエリート貴族の道を行く

実美は天保8年(1837年)、三条実万の三男として生まれました。
母は9代土佐藩主・山内豊策の娘・紀子。

兄・公睦の死により、安政元年(1854年)に若くして三条家を継ぎました。
まだ元服前でありながら、名門の当主となったのです。

三条家の当主となってからの生活はまずまず順調です。
安政2年(1855年)に18才で元服を果たすと、位階は従五位上に叙されて侍従。
加茂社臨時祭では、舞人の役を止めました。

さらには翌安政3年(1856年)に、19才で右近衛権少将となり、貴族としては王道のエリート街道を歩みます。

しかし、そんな順風満帆な貴族生活も長くは続きませんでした。
嘉永6年(1853年)の黒船来航から始まる動乱の波は、京都まで及んできたのです。

 

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若き尊攘のプリンス

安政5年(1858年)、日米修好通商条約の勅許を得るため、老中・堀田正睦らが京都へやって来ました。

徳川斉昭ら一橋派と通じる公卿たちは、堀田の工作に対して立ち塞がります。

堀田正睦/wikipediaより引用

【参照記事】堀田正睦

失意(というより呆れ果てた)堀田が、何の成果を得られないまま江戸に戻ると、今度は井伊直弼が勅許を得ずに条約を締結。
返す刀で「安政の大獄」を敢行し、一橋派に厳しい弾圧を加えます。

その煽りを受けて、実美の父・実万も、辞官落飾処分を受けました。
官職を奪われた上、出家させられたのですね。

このころから、実美も、政争の渦中へ巻き込まれてゆきます。

そもそも実美には、政治へ深く関わっていく素養や環境が整っておりました。
若かりし頃から彼の周囲には、著名な思想家がおりまして。

・家臣で尊皇攘夷志士の富田織部
・国学者の谷森種松(谷森善臣)
・漢学者で尊皇攘夷志士の池内大学(陶所)

彼らからの教育と父の無念さを踏まえ、実美は筋金入りの尊王攘夷派公家へと成長していったのです。

 

長州藩と行動をともにし、七卿落ち

文久2年(1862年)、実美は左近衛権中将、従三位、議奏加勢、ついで権中納言、議奏に出世。
トップエリートとなりました。

このころ京都は、混迷の極みにありました。

公武合体政策が実りつつあり、孝明天皇自身までもがその方向へと傾いていったのです。
この流れを、薩摩藩や会津藩も後押しします。

困ったのが、反幕尊攘の姿勢を取る長州藩です。
長州藩はますます先鋭化して、三条実美も長州藩に近い公家グループのリーダーとなりました。

主導権を握った長州藩と実美らは、積極的に動き始めます。

まずは公武合体派公家のリーダー・岩倉具視らを弾劾しようともくろみ、その意見書を関白・近衛忠煕に提出。
さらに幕府に対して、攘夷督促の勅使派遣の建言を行うことにしました。

勅使となった実美は、副使の姉小路公知と共に江戸へ。
警護は、実美とは姻戚にあたる土佐藩主・山内容堂(豊信)があたります

11月、実美らは江戸城にて勅書を交付すると、江戸城大広間の上段にあがりました。
勅使の姿は、幕府にとっては驚くべき異例のものでした。

 

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八月十八日の政変で「七卿落ち」

この翌月、実美は新たに設置された「国事御用掛」の一員となります。

翌文久3年(1863年)には、将軍・徳川家茂が上洛。
孝明天皇とともに賀茂神社・石清水八幡宮で攘夷祈願を行いました。

実美は、ここで御用掛を勤めています。

一方、家茂は、朝廷の勢いに押されて5月には攘夷を行うと約束、江戸に戻ることとなりました。

孝明天皇は、妹・和宮の夫であり、誠実な家茂の人柄が気に入ったのでしょう。
長州藩や実美ら尊王攘夷派が「いよいよ攘夷だ!」と盛り上がる中、肝心の孝明天皇は彼らに嫌悪感すら覚えていました。

やたらとヒートアップする長州藩を何とかして欲しいと考えていたのです。

その意を受け、天皇の側近・久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう)、薩摩藩、会津藩らは「八月十八日の政変」を起こします。
京都から長州藩が追い出されることになったのです。

それに伴い尊王攘夷派の公家七名に対し、追放処分が下されます。
一般的に「七卿落ち」とも呼ばれておりまして、実美はじめ、以下がそのメンバーとなります。

・三条実美
・三条西季知(さんじょうにし すえとも)
・東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)
・壬生基修(みぶ もとおさ)
・四条隆謌(しじょう たかうた)
・錦小路頼徳(にしきこうじ よりのり)
・沢宣嘉(さわ のぶよし)

さすが貴族だけあって、現代の我々には難解な漢字の名前ですね。
ほとんど日本史受験の問題には挙がらないので、受験生の方は助かったのでしょう。

特に、三条西季知あたりがややこしいかもしれません。
「さんじょうにし」と読みまして、元々は藤原北家の名門貴族であり、鎌倉時代から続く家でした。

三条西季知/wikipediaより引用

 

捲土重来を目指す

実美らは、暴風雨の中、長州藩を目指しました。

七卿は官位を褫奪されてしまったため、例えば実美は実(まこと)、または梨木誠斎(ナシキ セイサイ) の変名を用いることとなります。
変名まで難解な読み方ですね。

そして彼らは
「君側の奸(くんそくのかん、主君をたぶらかす奸臣の意味)」らを一掃し、政務へ復帰してやる!
とばかりに虎視眈々と再上洛のチャンスを狙います。

平野国臣が但馬・生野で挙兵することが伝わると、沢宣嘉が脱走して単身挙兵に参加しました。
が、この挙兵は失敗、沢宣嘉は逃亡します。

平野国臣/wikipediaより引用

【参考記事】平野国臣

さらには錦小路頼徳が潜伏中に病死し、七卿は五卿に。
こののち、第一次長州征討では五卿の引き渡しが問題となります。

彼らを擁立されると困ると考えた長州藩は、筑前藩へ送り、後に太宰府に移されます。
そして五年にわたる苦難を乗り越え、慶応3年(1867年)、実美らは京都政界に議定として復帰を果たしたのでした。

議定とは、明治政府に設置された官職の一つ(1869年太政官制の導入によって廃止)で、「法律の制定」や「条約の締結」、「三等官以上の人事」などを司ります。
「総裁・議定・参与」からなる「三職」の一つで、かなり重要なポジションでした。

 

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華麗なる明治以降の経歴

翌明治元年(1868年)は、実美にとって輝かしい年の始まりでした。
正月9日、岩倉具視と並んで、新政府副総裁に任じられたのです。

幕末の動乱最初期から、尊王攘夷派公家として活動していた「お疲れ様でした」という人事ですね。
この功績により、5千石も得ています。

実美の出世ルートは華やかです。

明治2年(1869年)には右大臣、明治4年(1871年)には太政大臣となります。

ただし、実美は岩倉具視と比較すると、政治力が不足していた感は否めません。
高い地位に就いていたものの、あまり活躍したようには思えないのです。

岩倉具視/wikipediaより引用

【参照記事】岩倉具視

 

征韓論で錯乱してしまい……

そんな実美は、意外な形で政局に影響を与えます。

明治6年(1873年)、征韓論の政治闘争において、実美は両派に挟まれ、極度のストレスのためか倒れてしまいます。
アルコール中毒であったという話まであります。

ただ、普通に倒れたというよりも……。
大久保利通によれば「精神が錯乱した」とまで述べておりまして。

政務も行うことができず、実美は辞表を提出。
岩倉具視が後任となりました。

この岩倉が、西郷隆盛の朝鮮派遣案を一掃するのです。
結果、西郷一派は下野し、後の西南戦争へと繋がるのですから、歴史的意義は大きいものでした。

しかし実美はその後も明治政府におりまして。
明治18年(1885年)の太政官制廃止まで、政府最高の地位におりました。
のみならず、太政官廃止で内大臣となり、明治22年(1889年)、黒田内閣のあとに2ヶ月間だけ首相、つまり総理大臣まで兼任しています。

ただし、このときの内閣は、あくまで黒田内閣の延長であり、歴代の総理大臣には含められておりません。
暫定扱いなのです。

明治24年(1891年)に病死。
享年55。

公家出身者の大半が名誉職に就きましたが、彼と岩倉具視は高い地位を保ちました。
ただし、温和な性格であるためかストレスが溜まりやすく、それが征韓論の際にも出てしまったようです。

岩倉と比較するとちょっと目立たないのですが、それでも公家出身者の政治家としては屈指の人物と言えましょう。

文:小檜山青




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【参考文献】
国史大辞典
幕末維新人物事典』泉秀樹
別冊歴史読本天璋院篤姫の生涯

 




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