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和宮親子内親王/wikipediaより引用

西郷どん特集 幕末・維新

助けて和宮! 江戸城の無血開城に裏方で尽力した和宮と女官たち

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14代将軍・徳川家茂徳川慶福)のもとに、泣く泣く嫁いだ孝明天皇の異母妹・和宮
あれほど輿入れを嫌がったのにフタを開けて見れば夫は優しい人であり、二人は愛し合う仲になります。

が、激動の最中に、家茂は21才の若さで夭折。
彼女もまた、激動の時代の中で短い生涯を終えた……。

と、彼女の人生はそれだけではありませんでした。
幕末の動乱の中、公武合体のかすがいとなった和宮には、過酷な役目が課されていたのです。

 

夫が亡くなったのならば京都に戻れたのでは?

慶応2年(1866)。
将軍・家茂は21才(満20才)という若さで世を去りました。

徳川家茂(徳川慶福)/wikipediaより引用

若くして寡婦となった和宮は、その数ヶ月後に髪を切り、静寛院宮と名乗ります(本稿では和宮に統一)。

夫の死の翌年にあたる慶応3年(1867年)には、兄の孝明天皇も崩御。
二人に先立ち慶応元年(1865)に和宮は母も失っていました。

立て続けに起こる不幸に身も心も憔悴しきったことでしょう。

こうなると、彼女が江戸に留まる理由もありません。
和宮自身もそう考えていました。

皇女の身の振り方となれば中々の一大事ではあるのですが、なんせ激動の政局です。
和宮は、新将軍の慶喜に攘夷の徹底等を求めたものの、返事はない状況。京都へ戻る話も、いつの間にか宙に浮いてしまうのでした。

しかもタイミングが悪いことに、京都に戻る交渉を行っていた和宮付きの女官・庭田嗣子が急死してしまいます。
色々と模索しているうちに、なんと徳川慶喜が京都から江戸へ戻ってくるというではありませんか。

どうなってしまうのか。
和宮はさらなる混迷に落とされてしまうのでした。

 

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慶喜、和宮に謝罪を依頼する

慶応4年(1868年)、戊辰戦争の緒戦である【鳥羽伏見の戦い】に敗走した慶喜が江戸に戻ってきました。
このとき彼は、江戸から京都に和宮を戻さなかったことに安堵したに違いありません。

徳川慶喜/wikipediaより引用

恭順と決めたからには、皇女は使えるカードです。
彼女を盾に交渉すれば、相手も力づくではこられないでしょう。

しかし和宮は、慶喜が面会を求めても断りました。
そこへ篤姫が仲介に入ったことで、やっと慶喜の要求を聞き入れます。

慶喜は以下について、朝廷に伝えるよう頼みこんできました。

・退隠して政治の表舞台から去る
・後継者の選定について相談に乗って欲しい
・朝廷に謝罪したい

このうち、和宮は謝罪についてのみ聞き入れました。
慶喜が出してきた嘆願書を厳しくチェックし訂正を入れ、女官の土御門藤子を使者に立てることにします。
一般的に、柔弱なお姫様のような印象もある和宮ですが、意志強固で実務能力がしっかりとある女性でもありました。

藤子は和宮の直書と慶喜の謝罪嘆願を持って、京都へと旅立ちます。

 

困惑する朝廷、奔走する藤子

藤子は和宮の直書を携え京都に向かいます。
そして二月には到着。公家や朝廷はなかなか困惑してしまったようです。

和宮の直書をぞんざいに扱うことはできかねないけれど、かといって新政府の意向を無視して慶喜の謝罪を受けることもできません。

公卿に書を渡した藤子に対し、相手はなかなか返書をよこそうとはしません。
彼らは新政府の出方を見ていたのでしょう。

藤子はついにこうまで釘を刺されます。

「御所に宮の直書を出してはあきまへんで」

江戸からはるばる運んで来た直書をこう言われて、藤子は納得できなかったことでしょう。
ずるずると返事を引き伸ばされ、待ち続ける日が続きます。

待ち続けるだけではなく、藤子はありとあらゆるツテや人脈を頼りました。
そして待つこと12日間。
やっと「慶喜が誠実に謝罪をするのであれば、徳川家存続を一応は認める」という返書を受け取りました。

この返書を手にして、藤子は江戸へと戻ります。

 

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無血の降伏へ、動く和宮

江戸へ戻った藤子から、念願の返書を受け取った和宮。
その方針を幕臣たちに伝え、江戸の平和を祈願させます。和宮は江戸と徳川家に危害が及ぶことを避けようとしていました。

更には東に向けて進軍する新政府軍に藤子ら腹心の女官たちを派遣し、恭順の意を伝えます。
皇女の嘆願を無視するわけにもいかず、彼らは和平の道を模索し始めます。

歴史の表舞台では、勝海舟西郷隆盛が江戸城無血開城を決めた、ということになっています。
そこには和宮も、和宮の意を受けた藤子ら女官たちも、天璋院篤姫も登場しません。

しかし舞台裏では、女性たちも力を尽くし、最悪の事態を回避しようと動いていたのです。

和宮のこうした動きを見ていると、悲運のプリンセスだけではない人物像が見えて来ます。
危難に際してテキパキと行動し、腹心の部下を派遣。
彼女は自分の手札としての価値を活かして適切に行動できる、かなり切れ者な女性だったのです。

悲運のプリンセス和宮像も美しいものですが、それだけではない有能な一面があった――それがもっと世に知られてもいいような気がします。

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文:小檜山青

【参考文献】
女たちの幕末京都 (中公新書)』(中公新書)辻ミチ子

 




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