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月性像

幕末・維新

月性はなぜ海防僧と呼ばれた? 吉田松陰とも親交あった武闘派僧侶42年の生涯

更新日:

幕末に活躍した勤王僧・月性(げっしょう)

あれ、漢字が間違ってない?
西郷隆盛と親交があった清水寺の住職は「月照」ですよね?

月照/wikipediaより引用

そう思われた方も多いかもしれませんが誤字ではございません。
吉田松陰と親交があり、「西の松下村塾」に対し、「東の清狂草堂(せいきょうそうどう)」と称される私塾を開いた月性。

しかし、どうにも印象が薄い。

では、以下の慣用句だったらいかがでしょうか?

人間至る処青山有り──。

辞書には
「人はどこで死んでも青山(=墳墓の地)とする所はある。故郷を出て大いに活躍すべきである、との意」
とあり、この一節を含む詩を読んだのが月性。

いち早く海防の重要性に気付きそれを説いて回った「海防僧」としても知られます。

果たして月性とは、いかなる人生を送ったのか?

 

僧侶だらけの仏教一家 しかし幼き頃は悪ガキで

月性は文化14年(1817年)の9月27日、周防国大島郡遠崎村(現・山口県柳井市)で生まれました。
昨年が生誕200年の節目だったこともあり、講演会などが行われています。

実家は西本願寺系の妙円寺、幼名は不明です。
月性は妙円寺の十世住職となりますので父は先代の住職……と言いたいところですが、実は父無し子でした。

母・尾の上は月性の祖父にあたる八世謙譲の長女として生まれ、岩国の寺に嫁ぎます。
が、月性を妊娠中に不縁となり実家に帰りました。

そのため妙円寺で生まれ父の顔を知らないままに育ちます。

母・尾の上には、亡くなった兄を除く弟が4人、妹が1人いました。
後に末弟の周邦が第九世となり、他の兄弟はみな他寺へ養子入りして住職となっておりますので、まさに仏教一家です。

こんな家に生まれたと言うことは、月性も信心深く勉学に励む少年だったと思いますよね。

否、かなりの悪ガキだったようです。

寺の池に飛び込み鯉を片っ端から捕まえて陸にあげ飛び跳ねるのを見て喜んだり、どこからともなく持ってきた硝煙を爆発させたりと、かなりの暴れん坊。
合戦ごっこをしては相手をコブだらけにするものですから、門徒の親たちからは寺に苦情が耐えなかったようです。

母・尾の上は、そんな月性を甘やかすこと無く厳しく躾ました。
その甲斐あって月性は学問に熱を入れるようになります。

 

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「学をなすことが出来なければ、再び故郷には帰らない」

13歳で得度を受けた月性は、15歳になると恒遠醒窓(つねとお せいそう)の私塾・蔵春園(恒遠塾)に入門します。

場所は豊前国上毛郡(現在の福岡県)。
ここで5年を過ごし、しばらく広島にも滞在した後に2年間半、佐賀の精居寮で学びました。

この時、彼は佐賀城下だけではなく長崎や平戸へ何度も足を運んでいます。

長崎で眼にしたものはすべてが珍しく、驚きの連続であったようで、その思いをたくさんの詩に詠んでいますが、月性を最も驚かせたのは舶来の文物ではなく、何千キロの航海にも耐え、要塞の如く大砲を備えたオランダ船そのものでした。

後に海防の重要性を説いて回った背景には、このとき感じた欧米列強への脅威があったのでしょう。

月性は23歳で帰郷しましたが、4年後の天保14年(1843年)に再び家を出て大阪に学びます。
この時に作ったのが「将東游題壁」、冒頭で一節を紹介した立志出関の詩です。

男児立志出郷関
学若無成死不還
埋骨豈惟墳墓地
人間到処有青山

男児志を立てて郷関を出づ。学若し(もし)成る無くんば復た還らず。骨を埋むる何ぞ期せんや墳墓の地、人間至る処青山あり。

「学をなすことが出来なければ、再び故郷には帰らない」という意志がみてとれる詩ですね。

 

妙円寺境内に私塾「清狂草堂」を開設

大阪に着いた月性は長光寺にいた叔父の龍護を訪ねました。

この叔父は学問だけでなく、詩文や絵画にも優れていたため、多くの文化人と交流していました。
その叔父の紹介で篠崎小竹の梅花社にて学ぶこととなります。

この時期に高名な僧や学者などと幅広い交友関係を築きました。

津藩の重役で、頼山陽と並ぶ詩の名手として知られた「斎藤拙堂」とも意気投合したようですが、はじめて拙堂の元を訪れた月性の姿はかなりとんでもないものでした。

拙堂の言葉を借りますと、
・衣は破れ放題
・頭はハリネズミさながら
・髪の毛は伸ばし放題でまるで越後の金掘り人足
とまぁ、ひどい有様だったようで。

旅の途中で宿を借りるにも一苦労だったそうですが、本人はめげていない様子だったようです。

32歳で大阪から故郷に帰った月性は嘉永元年(1848年)、妙円寺境内に私塾「清狂草堂」を開設。
現在、見学可能な塾舎(復元)は、四畳半と六畳の二間に濡れ縁のついた建物になっています。

清狂草堂

月性はこの私塾で尊皇攘夷として「海防」の必要性を説きました。

その学徳を慕って遠方からも入塾者がおり、学んだ塾生は約60名と言われ、中には奇兵隊の総監となった赤禰武人(あかねたけと)戊辰戦争で奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府参謀となった世良修蔵などがいます。

赤禰武人/wikipediaより引用

 

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当初は松陰が倒幕論を諌めていた!?

36歳になった月性は叔父の後を継いで十世の住職となり、叔父の娘・梅野、つまり自身の従姉妹と結婚しました。

新婚早々、妻の不倫騒動もありましたが結婚から5年後に女子が生まれております。

月性の叔父2人が萩で住職をしていた関係で、萩に友人が多くおり、吉田松陰の兄、杉梅太郎とも親しい関係にありました。
月性が萩城下に行く際、杉家に宿泊することもあったようです。

月性は松蔭よりも13歳年上にあたります。
当初、直接の面識は無かったものの、松蔭が兄を通じて月性のことをよく聞いていたようで。

松蔭が野山獄中から月性に宛てた手紙には、
『十年前からその名前は承知しているが会う機会が無かった』
と前置きして、月性の建白書草稿(封事草稿)に書かれた過激な倒幕論に対して公武合体論的立場から諫める内容が記されております。

吉田松陰/wikipediaより引用

その後、松蔭は、尊皇倒幕論者と転換しており、月性との親交もその一因と考えられます。
松蔭と月性の交流は生涯続き、松蔭は時折、月性を萩に招いて松下村塾で講演をさせ、月性もまた、松蔭の才能を認めて弟子を松下村塾で学ばせました。

久坂玄端の兄・玄機とも親交がありました。
玄機が亡くなった後、久坂玄端に松蔭の元で学ぶように勧めたのも月性なのです。

ということは、大河ドラマ『花燃ゆ』は月性の存在なくして成立しなかったかもしれません。
花燃ゆ9話には月性が松蔭に宛てた手紙がチラリ……。

ちなみに月性が松蔭の妹・文の結婚相手として推したのは玄端ではなく桂小五郎だったようですけどね。

 

身分を問わず志のある者で兵制を確立すべき

月性が行った活動としましては、嘉永6年(1853年)頃、最初の建白で海防論を述べた『内海杞憂』があります。

具体的な海防対策を諭したもので、外夷に対しての防衛策として
【士農工商身分を問わず志のあるものをもって新しい兵制を確立すべきだ】
と主張、高杉晋作にも影響を与えました。

高杉晋作/wikipediaより引用

翌年には、藩政に対する改革意見をのべた『封事草稿(藩政改革意見封事)』を起稿し、秋良淳之助の添削を経て提出しました。

このなかで月性は
「長州藩こそ倒幕の主唱者たれ」
と提言しております。

更には安政3年(1856年)に、西本願寺門主・広如上人への建白『護法意見封事(後に『護国論』、『仏法護国論』)』を執筆し、攘夷論が沸騰する時局下で本願寺が目指すものを門下の僧侶に説きました。

 

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飲んで議論して剣や槍を振り回す……

月性は文化人としても優れており「将東游題壁」の他にも多くの詩を残しております。

詩歌を愛する僧でありますから、性格も穏やかだったかと申しますと、一言でいうと「自由で激情」の人。
遊郭で遊ぶこともあり、大酒を飲みました。

人と議論するときは一歩も退かない月性でしたが、酒が入るとそれがエスカレート、剣や槍を振り回した話も多く残っております。

月性像

有名なものを1つ挙げますと、安政3年9月の一件がありまして。
三木本の酒楼で斎藤拙堂を囲む会の際、拙堂の「海防策」が条件付きで開国や通商条約を認める内容であったことに不満を抱き、酒の勢いもあって声を荒げながら喰ってかかりました。

そのため席は殺伐としてしまい……。
中村水竹という人物が、場を和ませるため当時流行していた大津絵節「あめりかが来て云々」を踊ります(いわゆるメリケン踊り)。

これを見た月性は「水竹は日本人なのに夷狄(いてき)のふるまいをするのか」と言うと、友人の剣を素早く抜いて釣り灯籠をばっさりと斬り落とし、宴席は
シーーーーーーーン…………

……えぇと、あまり一緒に飲みたくないタイプですね。

そんな月性ですが死は急に訪れます。
母・尾の上を亡くした翌年の安政5年(1585年)4月29日、萩に出かける途中の船中で急な腹痛をおぼえ、自寺へと引き返します。

病は軽快せず5月10日に帰らぬ人となりました。享年42。

死因は本当に病気であったとも、暗殺であったとも言われております。
それはちょうど安政の大獄がはじまる頃でした。

月性は「清狂」という号を用いております。

「狂せずして狂に似たるもの」

日本の未来を憂い、周りにどう思われようと我が道を貫いた月性は、松蔭と同じく明治維新を見届けることなくこの世を去ったのでした。




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文:馬渕まり

月性―人間到る処青山有り (ミネルヴァ日本評伝選)』海原 徹
篠崎小竹/wikipedia 赤禰武人/wikipedia
山口きらめーる(山口県)
海防僧『月性』

 




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