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「雲行丸」の略図/wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

ジョン万次郎は西郷どんに再び登場する?蒸気船を造り、開成所で教鞭を取った薩摩での功績に再注目

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大河ドラマ『西郷どん』の6話に登場したジョン万次郎
劇団ひとりさん演じる特徴的なキャラクターはドラマに重要な役割を果たしました。

「好きな人に愛を伝えること、それがラブ」
そう大久保正助に伝えます。

ドラマではそんな展開ですが、実際には何をしたのか?

と、それを考えると、もう一度、出演しても全然おかしくないほど薩摩には貢献しているのです。
振り返ってみましょう。

 

薩摩藩にとってはまさにラッキー

嘉永4年(1851年)1月。
黒船来航の2年前にホエールボートに乗ったジョン万次郎が【琉球】に漂着しました。

もともとは漂流していたところをアメリカの捕鯨船に救われた万次郎。
それから10年間、アメリカで学び、捕鯨船の航海士として求められる自然科学系の知識を吸収しておりました。

一方、当時の日本は鎖国の真っ最中。
帰国すれば死刑もありえる中、望郷の念を募らせて、彼は戻ってきます。

そこまでの経緯は、ジョン万次郎の生涯を描いた以下の記事に詳細がございますので、よろしければ合わせてご参照ください。

ジョン万次郎/wikipediaより引用

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帰国を果たした万次郎は琉球の薩摩役人に捕らえられます。
その番所で、様々な訊問を受けました。

なぜ遭難したのか?
アメリカとはどんな国か?
社会、軍事、科学技術、地理、風俗、暮らし、生活習慣等をすべて――

ドラマでは西郷と大久保が四苦八苦して、母親のことまで聞き出して、やっと口を割らせていましたが、史実では、薩摩に来る前にすべて把握していたのですね。

その後、7月29日。
万次郎は、土佐の漂流民の伝蔵・五右衛門兄弟とともに、鹿児島にまで連れて行かれました。

 

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牢獄どころか超VIP待遇

ジョン万次郎は、鹿児島に送り届けられてからは超VIP待遇でした

場所は西田町下会所に滞在。
悪質な犯罪者ではなく、琉球上陸から既に結構な日数が経過していましたから、和服に着替えていたことでしょう。

「じゃあ、牢獄で洋服を着ていたのは何なの?」
となりますが……まぁ、そこはドラマということで呑み込んでおきましょう。

そもそもドラマでは「謎の囚人」とされていますしね。
史実では、薩摩藩もその正体を把握したうえで、厚遇しています。

ドラマでは西郷家で素朴な御飯を美味しそうに食べていましたが、史実では酒も食べ物も綺麗な衣服も、なんでもありました。
いわば最高級のスイートルームで、おもてなし三昧をされたようなものです。

ポイントは、
・牢獄どころか超VIP待遇
・殺す意味はそもそもない
この2点ですね。

「万次郎が素性を隠そうとし、藩による毒殺を畏れている」というドラマの描写も不自然ですね。
万次郎を殺すメリットは、薩摩側にはありません。

 

幕府の要請を引き伸ばす

とはいえ、幕府の目から万次郎を隠し通せるわけもありません。

幕府は、
「国禁をやぶった者は最寄りの遠国奉行に引き渡すべき。薩摩の場合は長崎奉行です。さっさと引き渡すように」
と命じてきました。

しかし、薩摩藩としてもアッサリ引き渡すワケにはいきません。
アメリカの最新情報や貴重な技術を抱えている万次郎を、なんやかんやと理由をつけて滞在させました。

その期間は、7月29日から9月18日まで。
実に48日間におよびます。

ドラマで描かれたように、

西郷や大久保と知り合う

母親を気にしているらしい

土佐藩に連絡して、母親の安否を確認する

万次郎にそれを伝えて喜ばれる

という展開があったとしたら、かなり大急ぎで探ったのかなぁ、という気がしますね。
薩摩に時間的余裕は一切ありませんでした。

 

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斉彬が知りたかったことは

斉彬は、万次郎の滞在場所に藩士の田原直助船大工3~4名を毎日派遣しました。
そして、こんなことを聞いたのです。

・造船術
・捕鯨術
・航海術

万次郎はこの依頼に応じました。
スクーナー型帆船(2本以上のマストに張られた縦帆帆装を特徴とする帆船の一種。19世紀に全盛期を迎えました)や捕鯨船の図面を描き、模型を作ります。

1840年頃のスクーナー/wikipediaより引用

このとき、島津斉彬自ら接見したかどうかは不明です。
西郷や大久保が出会ったとしたら、何らかの記録がありそうですが、これもありません。

万次郎と彼らが会話するくらいならば、ドラマの創作範囲内としてはありかな、という気もしますが、流石に西郷家に滞在するのはやりすぎな気がします。

ちなみに大久保家には和英辞典らしきものがありました。
が、当時の日本人が唯一習得できた西洋系言語はオランダ語のみです。

大久保家に和英辞典があるというのは、かなり不自然な設定でした。

 

そして国産蒸気船「雲行丸」誕生

安政2年(1855年)。
万次郎から聞いた技術を元に、薩摩藩は日本初となる蒸気船「雲行丸」を完成させました。

「雲行丸」の略図

完成度が高かったとは言いかねる雲行丸。
とはいえ、万次郎から聞いた情報だけを頼りに作ったわけですから、たいしたものです。
流石は斉彬、流石は薩摩藩でしょう。

「こんな原始的な図面から蒸気機関を作るなんて、凄い」
オランダ人の海軍人であるカッテンディーケも驚きました。

その後、雲行丸は軍事用ではなく、輸送船や連絡船としてしばらく運用されました。

薩摩藩の造船事業は赤字であり、結果的に輸入するほうが安上がりだと判明したため、取り止めとなってしまうのです。

その後、藩は蒸気船を輸入する方針に切り替えました。
とはいえ、まったくの無意味であったとは言えないわけでして。

性能があまり高くなかった雲行丸は、維新後に時代遅れとなり、廃船となりました。
明治20年代にはスクラップとなり、絵図面も写真も残っていません。

それでも日本の歴史に残る記念すべき事業であったといえるでしょう。

本来はラブではなくて、こちらを力を入れてやるべきだったのでは?

 

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万次郎、ふたたび薩摩へ

滞在のあと、万次郎は長崎奉行に引き渡されます。
そこで拘束された後、故郷の土佐藩へ。その後は幕臣として活躍します。

では薩摩藩とは、もう縁が切れたのか?
と申しますと、そうではありません。

元治元年(1864年)、薩摩藩は幕府に対して、3年間の期限付きで万次郎を貸して欲しいと頼み込んでいます。

この前年、薩摩藩では「長崎丸」を長州藩による砲撃で失っていました。
損害は長崎丸だけにととまらず、乗船していた貴重な航海仕たちをも失ってしまったのです。

薩摩藩にとって、航海術に長けた者を養成することは急務でした。

薩摩藩は同年、洋学校「開成所」を設立。
そこは、英語、オランダ語といった語学だけではなく、海陸軍砲術、兵法、数学、物理、医学、地理、天文学、測量術、航海術……様々な学問を学ぶことができる、実践的な場所でした。

万次郎はここで教鞭を執ったのです。

多くの薩摩藩士がここで学び、海外に留学した者もいました。
ゆえに、ドラマでも、再登場するかもしれませんね。

万次郎は、幕臣でありながら薩摩藩躍進の貢献者ともいえるのです。

文:小檜山青




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【参考文献】
『さつま人国誌 幕末・明治編3』桐野作人
『幕末維新人物事典』泉秀樹
国史大辞典

 



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