志士時代の伊藤博文/wikipediaより引用

幕末・維新

伊藤博文69年の生涯をスッキリ解説!足軽の子が日本初の総理大臣になるまで

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長州藩の危難

帰国した元治元年(1864年)当時、長州藩ではさらなる大激動に見舞われておりました。

池田屋事件の一ヶ月後であり、【禁門の変】が起こる直前のことです。
伊藤と親しくしていた吉田稔麿も、同事件で斬殺されておりました。

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こうした一連の事件で、松下村塾の俊英たちは、久坂玄瑞、入江九一と、次から次へと散ってゆきます。

しかも長州藩は孝明天皇から激しい憎しみを買っていたばかりか、今度は下関から攘夷を繰り返して連合艦隊に反撃され、いよいよ窮地に陥るのです(下関戦争)。

このとき伊藤は通訳として奔走。
長州藩とイギリスは接近するようになります。
ライバルのフランスが幕府を支持していることから、イギリスは倒幕勢力に着目していたのです。

更には、この和平交渉において、伊藤は将軍と天皇の攘夷命令を相手に渡し、これを機に、各国は幕府に賠償金支払いを迫るようになります。
「賠償金に圧迫された幕府さえ倒れれば?」
という待望論が広がるキッカケにもなりました。

そして度重なる困難の中、長州藩では幕府への恭順も辞さない「俗論派」が台頭。
強硬に反幕府と攘夷を唱える「正義派」と対立します。

正義派vs俗論派

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結果は「正義派」が勝利します。
高杉晋作の決起に駆けつけたことを、伊藤は生涯の誇りとしました。

が、英国帰りで開国に傾いていた彼にとって、強硬な攘夷が優勢になることは頭の痛いことでもありました。
さぞかし複雑な胸中であったでしょう。

慶応3年(1867年)、伊藤は準士雇から士雇に出世。
幾度かの危機を乗り越える中、倒幕への思いが強まっておりました。
前年、薩長同盟を結んだ薩摩藩、坂本龍馬の属する土佐藩ともども、倒幕への志を練っていたのです。

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とはいえ、第二次長州征伐戊辰戦争においてはさして活躍することもありませんでした。

武器調達といった裏方に携わるだけで、むしろ暇をもてあましていたほどだったのです。
伊藤の出番があったのは、神戸事件や堺事件の解決の場でした。

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新政府、始動

明治維新は、なんとも不思議なものです。
幕末に志士として名を成すには攘夷が必要だったのに、新政府となってからは国際社会と交渉する力が問われるわけですから。

その点、イギリス留学の経験がある伊藤が、どれほど新政府から求められたでしょう。

明治元年(1868年)。
伊藤博文と改名した彼は、外国事務掛、兵庫県知事と大抜擢を受けます。

さらに翌明治2年(1869年)には大蔵少輔兼民部少輔となり、同四年は租税頭、工部大輔に累進。
この年の10月、岩倉使節団にも参加しました。

木戸孝允や大久保利道と並ぶ特命全権副使であり、今度は2年に及ぶ長期間で欧米視察を遂げるのです。

左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通/wikipediaより引用

伊藤の真価は、博文と改名してから発揮されました。

詳細は後述しますが、初代内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法成立、日清戦争日露戦争と二度の苦難を乗り切ります。
足軽の子から一国のトップにまで成り上がった――とは、まるで豊臣秀吉ばりの出世ストーリーでしょう。

ただし、この使節団、問題がなかったとも言い切れない部分がありまして。

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明治6年(1873年)に使節団が戻ると、早速、征韓論争が勃発します。

伊藤はこれに対して、岩倉具視・木戸・大久保らとともに、「内治優先」を掲げ、否定の立場を貫きました。
まだまだ国内統治の整備および近代化が優先されるという考え方です(「明治六年政変」)。

伊藤とともに近代化に貢献したのは、大隈重信でした。

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ただし大隈は、実力抜群ながら伊藤とはたびたび意見の相違もあり、政府への出入りを繰り返すような状況です。

薩長土肥の藩閥政治の中、トップクラスの大隈がこのような状態は、惜しまれることではありました。

 

もう維新の立役者たちはいない

征韓論がおさまると、ひとつの時代が終わりを告げました。

維新三傑である木戸孝允は病死。
西郷隆盛西南戦争で敗死。
大久保利通は暗殺。

維新三傑が立て続けにいなくなり、参議兼内務卿となった伊藤らの前には、問題だらけの新政府が残されたのでした。

藩閥政治への不満は大きく、士族の反乱ばかりでなく自由民権運動も盛んになり、明治政府の統治に不満を持つ庶民が、盛んに声援を送るような事態となっていきます。

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そんな最中、明治12年(1879年)、伊藤は「教育議」を上奏、教育令を発布します。

伊藤博文/wikipediaより引用

明治14年(1881年)には、盟友である大隈重信と袂を分かちました。
日本の立憲体制をどう作るかにおいて、意見が対立したのです。大隈の急進性に警戒を抱いた伊藤は、彼を政界から追放するのです(「明治十四年の政変」)。

大隈を立ち去らせたあと、伊藤は明治15年(1882年)から明治16年(1883年)にかけて、憲法制度調査の任を帯び、再び渡欧。
プロイセンで憲法や内閣制度を学んで、帰国後は内閣制度や憲法制定に見聞を活かしました。

さらに明治17年(1884年)には、華族令も制定されます。

伊藤は伯爵となり、他の下層武士出身である政府官僚らも華族に列しました。

新たな身分秩序はこうして誕生したのです。
幕末期の活躍だけはなく、こうした制度が政府の格付けにおいて役割を果たしました。

 

初代内閣総理大臣、憲法への情熱

明治18年(1885年)、形骸化しつつあった太政官制に代わり、内閣制度を導入。
名門公卿だった公爵・三条実美との争いに勝った伊藤は、初代総理大臣として第一次伊藤内閣を組織します。

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激務に拍車がかかりました。

明治19年(1886年)、井上毅らと共に憲法草案に着手。
明治21年(1888年)、プロイセンの影響が濃い大日本憲法草稿ができあがりました。

そして同年、枢密院を開設すると、初代枢密院議長に就任するため首相を辞任しました。

背景には、外相・井上馨によって推進されていた条約改正交渉が、政府案漏洩事件をきっかけに、激しい攻撃にさらされたことがあります。
この事態を収拾するため、薩摩閥の黒田清隆に首相を譲ることにしたのです。

伊藤は、枢密院議長として憲法草案の最終審議に尽力しました。この憲法制定における努力が認められ、伊藤は明治天皇の深い信任を獲得、「元老」として政府首脳の中でも一段高い位置に上り詰めました。

かくして大日本帝国憲法は、黒田清隆内閣のもとで発布されます。明治22年(1889年)のことでした。

大日本帝国憲法発布の様子を描いた『新皇居於テ正殿憲法発布式之図』/wikipediaより引用

明治23年(1890年)11月、帝国議会が開設されました。

伊藤は閣外におりましたが、それでも立憲制運用への情熱は絶えません。
第一次山県有朋内閣・第一次松方正義内閣においては、貴族院議長または枢密院議長として、摩擦を起こしかねないほど強硬な助言や指導を行いました。

『憲法義解』も刊行し、並々ならぬ情熱を発揮したのです。

 

二度の戦争

明治25年(1892年)。
政党結成は断念しつつも、第二次伊藤内閣が結成。
日清戦争と条約改正という困難を乗り越えてゆきます。

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彼は挙国一致内閣を目指しました。

自由党の板垣退助と改進党・大隈重信を加えた内閣を目論んだのですが、板垣のみにとどまり、大隈は拒否。
明治31年(1898年)での第三次伊藤内閣では、挙国一致内閣の目標をさらに追いかけます。
新党結成に意欲を燃やし、結局は、山県有朋の反対で挫折します。

明治34年(1900年)9月。
立憲政友会が結成されると、伊藤が総裁に就任し、同会を率いた伊藤は、実に四度目の四次伊藤内閣を組織します。

が、山縣有朋とその派閥により苦境にたたされ、わずか7ヶ月の短命内閣。伊藤は党の組織化に苦しみ、彼の手から離れていきますが、大正デモクラシーではその存在感を発揮しています。

日本政府は、外交面で難しい立場に立たされておりました。

日英同盟推進か日露協商打診か?

意見が対立し、伊藤はアメリカとヨーロッパに渡って、ロシアに日露協商を打診したのです。
が、政府は日英同盟交渉を進行しており、伊藤の目論見は失敗に終わります。

明治36年(1902年)7月、伊藤は枢密院議長となり、政友会総裁辞任を余儀なくされます。

が、このころから、伊藤は慎重にロシアとの交渉、そして開戦にあたる決定を、他の政府首脳とともに行いました。

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暗殺

明治38年(1904年)から明治42年(1906年)にかけての三年半、伊藤は初代韓国統監として韓国の併合に立ち会います。

伊藤は当初、必ずしも併合に賛同していたわけではありませんでしたが、独立を目指す義兵運動が高まる中で、それもやむなしと考え方を変えてゆきました。
韓国併合はその地に住む人にとっては、痛みを伴うものでもあったのです。

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統監を辞した後、極東問題についてロシアと協議するため、伊藤は満州に赴きます。

そして明治42年(1908年)10月26日。
ハルピン駅において、韓国人の安重根が伊藤を狙撃。凶弾に倒れ、伊藤は世を去りました。享年69。

死去に際しては従一位に叙せられ、国葬をもって見送られています。

大韓帝国皇太子李垠と伊藤/wikipediaより引用

維新志士から初代内閣総理大臣となった伊藤博文。その国際性は、吉田松陰のみならず来原良蔵という師匠がいたことも大きかったといえましょう。明治日本を導いた人物でした。

文:小檜山青

【参考文献】
伊藤博文 近代日本を創った男 (講談社学術文庫)』伊藤之雄
国史大辞典

 



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