西郷どん特集 幕末・維新

幕末の皇室を救った田中河内介~明治天皇の出生費用を請負い、薩摩に殺される

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京都を火の海にして混乱させ、倒幕の挙兵をあげよう――と伏見の寺田屋に籠もった薩摩の過激藩士たち。

事前の説得むなしく、ついに凄惨な殺し合いとなった寺田屋事件(騒動)は、幕末薩摩藩における屈指の暗黒史と言えましょう。

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このとき西郷隆盛(西郷吉之助)は、田中河内介(かわちのすけ・本稿はこの名で統一)という人物の最期を聞き、こう嘆いたと伝わります。

「もう“勤王”の二文字を唱ゆっこたあでけん……」

なぜ、西郷はそんな風に嘆いたのか?
田中河内介とは何者なのか?

その人生と最期を知れば、西郷が嘆いた意味が理解できます。

 

天皇の問いかけに皆が凍り付く

明治時代初期、とある宴の席でのこと。明治天皇は、ふと昔を思い出して言いました。

「田中河内介のことがしのばれる。あれがこの場にいたらよかったものを。殺されたと聞きおよんでいるが、一体誰がそのようなことをしたのであろうか」
その場の空気が、一瞬にして凍り付きました。

同席していた小河一敏が、ある者を指して言います。

「田中河内介を殺したのは、この者でございます」
小河が指した先にいたのは、顔面蒼白となった大久保利通でした。

「……」
小河の言葉に皆は黙り込み、大久保も何も言わず、場の空気は重たくどんよりするばかり。

明治天皇も、どうやら田中のことは持ち出さないほうがよいと悟ったのでしょう。
それからは、人前で田中の名を持ち出すことはありませんでした。

小河一敏は明治14年(1881年)、宮内省御用掛に任ぜられます/wikipediaより引用

 

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中山家に仕えた秀才

文化12年(1815年)、田中は但馬国出石郡神美村香住(現兵庫県豊岡市)の医者・小森信古と、母・三谷氏の間に、二男・賢次郎として誕生しました。
名は綏猷(やすみち)、字は士徳といいます。

幼いころから神童として名高く、出石藩侍講の儒学者・山本亡羊(ぼうよう)に師事。
武道もたしなみ、弓術が得意でした。

そんな田中に転機が訪れたのは、天保14年(1843年)のこと。
師である亡羊の推挙で、中山忠能に召し出されたのです。
中山家は、藤原北家系統の公家でした。

中山忠能/wikipediaより引用

上洛し、中山家に仕えることとなった田中。
はじめは、公家侍として庶務を担当しました。

文武両道で人格も優れていた田中は、教育者としても見いだされました。
中山家の子女にあたる、忠愛・忠光・慶子らの侍講(家庭教師)も任されたのです。

田中は中山家の「侍(諸太夫=家老に次ぐ重臣)」にあたる田中綏長の女婿となり、田中家を継ぎます(それまでは小森です)。

そして従六位河内介に叙され、「田中河内介」となるのでした。

 

明治天皇の養育係

田中が教育を担当した中山慶子は、聡明な女性に成長しました。

彼女は17歳で典侍御雇となって宮中に出仕。
孝明天皇の寵愛を得て、懐妊します。

中山慶子/wikipediaより引用

嘉永5年9月22日(1852年11月3日)。
慶子は中山邸において、皇子・祐宮(さちのみや)を出産しました。

後の明治天皇です。

これは大変なことでした。
家禄僅か200石に過ぎない中山家は困窮しており、物売りが家の前を通る時は声をひそめていたほど。
湯や茶すらろくに飲めないほどの状況の中、田中は出産のため、金策に奔走していたのです。

いくら貧しくとも、将来の儲君(ちょくん・皇太子)の誕生です。

・御産殿の土地を借りる
・御産殿を建てる
・安産祈願

こうしたことには、当然、相当な金もかかります。
朝廷から出せばいい、と思いますよね?
その通りです。

確かにある意味では、朝廷は金を出しました。
10年年賦で、100両というかたちで……そう、借金なのです。

これも仕方ないのです。当時の朝廷は窮乏しており、潤沢な財産はなかったのです。

田中は但馬の実家から金を借りてまで、費用を捻出します。
給料をもらえるどころか、自分の金を出してまでナントカしたのですから、これは大変なことでした。

こうして苦労の末に誕生した祐宮を、田中は熱心に教育しました。
時に背負い『孝経』をくちずさみながら、その成長を見守ったのです。

田中は祐宮御用掛として『類聚国史』の校訂にも携わっています。

そして安政3年(1856年)に宮中に移されるまで、田中は祐宮を大切に育てました。
祐宮は即位して明治天皇となったのちにも、この優しく世話をしてくれた田中のことを、生涯忘れませんでした。

 

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勤王家として活躍

嘉永6年(1852年)の黒船来航以降、時代は大きく動いておりました。

京都では、尊皇攘夷活動家が多数活動。
そんな中、田中は旧主にあたる中山忠能に様々な献策を行います。

しかし、田中と主君の中山忠能は、次第に意見が対立し始めます。
忠能は、和宮の将軍家降嫁による公武合体策を支持しておりましたが、田中はそのことを容認できなかったのです。

文久元年(1861年)、田中は西遊し、久坂玄瑞、轟武兵衛、真木和泉(保臣)らと親交を深めます。

そして京都に戻ると『安国論』を執筆しました。
幕府はこの著作を危険視し、田中は監視を受けるようになりました。

田中はついに中山家を致仕。
彼は自宅を「臥竜窟」と名付け、自ら「臥竜」と号しました。

と、同時に、このころから交際範囲も広がります。
国学者の矢野玄道、副島種臣と交流し、西郷隆盛、平野国臣、清河八郎、宮部鼎蔵らと親交を深めたのです。

幕府の監視が強まり、京都が騒然とする中、田中は長子・瑳磨介とともに薩摩藩邸に身を寄せるようになりました。
薩摩藩士の柴山愛次郎、橋口壮介らとも、田中父子は親しくなりました。
中山忠能とは仲違いしてしまった田中ですが、基本的には人の言葉をよく聞き、背かない、誠実な性格だったのです。

こうした同志と語り合う中、京都の薩摩藩士周辺は、過激な思想に走りつつありました。
田中父子も、その中にいました。

そして文久2年(1862年)。
薩摩の「国父」島津久光がついに動きました。
兵を率いて上洛したのです。

時は今、倒幕すべきだ――。

尊皇攘夷派の志士たちはにわかに色めき立ちましたが、肝心の久光と朝廷にそんな気はありません。

有馬新七ら、薩摩の若手を中心とした過激派たち。
過激な計画を立てている連中を、断固として止める。
それが彼らの出した答えでした。

 

寺田屋での事件に巻き込まれ……

文久2年(1862年)4月23日、夜。
久光の命を受けた手練れの鎮撫使8名は寺田屋に踏み込みました。

そして、田中父子も捕縛します。
捕縛された薩摩藩士は処分を受け、他藩の者はそれぞれの藩に引き渡されました。

問題は、田中一派と、帰国を拒んだ者です。

・田中河内介
・田中瑳磨介
・青木頼母(浪人)
・海賀宮門(秋月藩士)
・田中河内介の甥・千葉郁太郎
・千葉郁太郎の義弟・中村主計

この6名は“保護”という名の「処刑」処分に決まってしまいます。

二艘の船に分乗した6名は、大阪から出港しました。

「兄の仇!」




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船上で、橋口吉之丞がそう叫ぶと、瑳磨介の腹を深く刺しました。
呆然とした瑳磨介の腹から、臓がこぼれおちます。
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