幕末・維新

幕末の皇室を救った田中河内介~明治天皇の出生費用を請負い、薩摩に殺される

彼の兄で、田中と親しかった橋口壮介は、寺田屋で死亡。
弟からすれば、
「おはんが兄を誘ったから、死んでしもた!」
ということなのでしょう……。

瑳磨介の享年は17でした。

我が子が惨殺される様子を見て、田中は己の死を悟りました。
「さあ、早く殺せ」
そう言うと、胸をはだけました。

そして、辞世を詠みます。

ながらへて かわらぬ月を 見るよりも 死してはらわん 世々のうき雲

このとき、久光の密命により殺害を命じられていたのは、柴山龍五郎景綱です。
柴山は田中と親しくしており、寺田屋騒動にも居合わせていました。

くじ引きで、この苦渋の役目を引き受けてしまったのです。

「おいには斬れんごっ!」
さしもの薩摩隼人、主君の命令であっても、柴山は苦悩して刀を抜けませんでした。

やむなく、柴山の弟である是枝万助が手を下し、田中は斬殺されました。
享年48。

青木も同じ船内で殺害。3人の遺体は、船から海に投げ捨てられます。

田中父子の死体は服をはぎとられ、腕を縛り上げられた状態で発見されます。
父は覚悟しきった表情、子は無念のあまり歯を食いしばった形相で、小豆島に流れ着きました。
青木の死体は、ついに発見されませんでした。

残り3名は、細島港郊外の古島という場所で、大木に縛り付けたうえで斬殺されました。

 

その最期を語ってはならない

田中の名は闇に葬られたかのように思われました。
しかし、それは違ったのです。

明治天皇は、4才まで大事に育ててくれた田中を慕っていました。
母の慶子も、我が子に田中の思い出を語り聞かせていたのでしょう。

天皇の思い出語りは、世間の人々に田中河内介という人物のことを思い出させました。

「それほど陛下に慕われたのだから、きっと立派な人なのだろう」
人々はそう推察しましたが、田中河内介のことは不思議なほど、噂にはなりませんでした。

天皇だけではありません。
田中と親しかった小河弥右衛門、のちの小河一敏も彼のことを覚えていました。
のみならず、田中を殺した島津久光の密命に、大久保利通も一枚噛んでいたはずだと喝破していたのです。

そして、田中父子の亡骸を拾い供養した人々も、忘れようには忘れられません。
亡骸が発見された付近の海で船が沈むと、人々は恐怖をもってこう語り合いました。

「こや祟いにちがおらん……」
小豆島の人々は、田中父子の供養を行いました。

田中父子を斬った刺客も、忘れようにも忘れられないはずですが、どうなったのでしょうか。

明治元年(1868年)。
瑳磨介を刺殺した橋口吉之丞は、「故あって」切腹させられました。享年25。

田中を斬った是枝万助は、精神に異常を来しました。
慶長4年(1868年)には、自ら目をえぐり、股を切り裂こうとするようなありさまで、晩年は「廃人」になってしまいました。
兄の柴山景綱が、弟の面倒を見続けたと伝わります。

そして田中の名は、意外なところでまた出てきます。

田中を慕った明治天皇の治世も終わり、大正となったころ。
東京のとある店の3階に、仲間同士で集まって怪談を話し合うということがありました。

あるとき、そこに見知らぬ男がやって来てこう言うのです。
「田中河内介の最期をご存じですか。今から語って聞かせましょう」

彼が言うには――
「田中が寺田屋事件のあと、どうなってしまったのか。話せばよくないことが、その者にふりかかると言われております。そのため、誰も語ろうとしない……本当のことを知る者は、今ではこの私一人になってしまったのです」

それから彼は続けます。
「ですから、今ここで皆さんに、その真相を語りたいと思います」

そりゃ面白そうですねえ、と皆興味津々で男の話に聞き入ります。
しかし、彼はなかなか本題に入ろうとしないどころか、要領を得ない話を繰り返すばかり。
聞いている側もうんざりして、皆部屋を出てしまい、煙草を吸ったりし始めました。

「あいつ、ちょっとおかしいんじゃないかな」
部屋から出てそう語り合っていると、血相を変えて一人が階段を降りてきたのです。

「大変だ、あの男、死んでいる!」
部屋に駆けつけると、その男は机につっぷし、既に事切れておりました……。
聞く者がいなくなった部屋で何事かが起こり、語り手は死んでいたのです。

こう書いてくると「本当に恐ろしい、祟りか……」とふるえが来る方もいるとは思います。
ブラウザを閉じたくなりますよね。

ただ、刺客が精神の異常をきたした件は祟りというより、強度のストレス由来と考えたほうが納得できます。

この件に関与したとされる三島通庸(2019大河『いだてん』三島弥彦の父)は、明治維新以降も活躍しています。
何より、最大の責任者といえる島津久光も、そこそこ穏やかな晩年を送っています。

この二人は、精神が強靱であったため、ダメージを受けなかったのでしょう。

 

薩摩藩最大のタブー

明治天皇の養育係とその子を惨殺し、死体遺棄――それは、薩摩藩にとって触れられたくないタブーでした。

ちなみに、明治天皇の叔父にあたる(慶子の弟)中山忠光は、長州藩の支藩である長府藩の刺客によって、暗殺されています。
勤王の旗を掲げ、明治維新の原動力となった薩長には、このような後ろ暗い面もあるのです。

【朝敵逆賊】認定された会津藩あたりからすれば、
「薩長には朝敵扱いされたくない」
と、嫌味のひとつやふたつも言いたくなるでしょう。

朝廷を支持したといっても、倒幕派のスタンスも常に一定ではなく、ましてや彼らがいつも一枚岩だったわけではないため、こういうことも起こりえたわけです。

田中殺害最大の責任者とも言える久光にせよ、
「寺田屋事件を起こした背景には朝廷の意向もあった」
と言えるわけです。

先ほど怪談も、薩摩藩にとって最大のタブーだからこそ、こうした話が流布したと考えることもできます。

おそらくこの先も、田中父子は映像化もされなければ、あまり語られることもないでしょう。
小豆島では田中父子の供養が行われ、顕彰会もあります。

ご興味をお持ちの方は以下のリンク先をご覧ください。
田中河内介顕彰会

文:小檜山青

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大山格之助(大山綱良)

【参考文献】
国史大辞典
『幕末維新人物事典』泉秀樹(→amazon link
『さつま人国誌 幕末・明治編』桐野作人(→amazon link

 



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