若き日の福沢諭吉/wikipediaより引用

幕末・維新

福沢諭吉67年の生涯をスッキリ解説!強烈な武士の誇りを持ち続けた偉人の素顔

確かにそういう部分はありました。
「イキリ攘夷」と言いましょうか。ともかく仲間内では外国人や西洋に通じた者をやれば「スゲエ!」となるようなノリもあったのです。
思想も何もなく、ともかく嫌いな奴の言葉を封じるために、ぶった切るような連中もおりました。

愛国心は、ならず者の最後のより所――とは、イギリスの文学者サミュエル・ジョンソンの言葉です。

福沢に言わせればさしずめ、
「攘夷はならず者の最後のより所」
といったところでしょう。

ともかく福沢は、短絡的なテロが横行することに心底呆れ返っておりました。
なんせ彼自身も斬られかねない状況です。
常に警戒を強いられており、見識もない連中がろくでもないことやってんな、というのが実感でしょう。

欧州で万博を見学しているような頃、攘夷派は、
「異人どもをぶった斬る!」
とか言っていたわけですから、呆れても仕方ないところです。

1867年に開催されたパリ万国博覧会/wikipediaより引用

 

幕府への失望

慶応3年日(1867年)、福沢は使節として二度目の渡米を果たします。
このとき、使節主席・小野友五郎と揉めています。

福沢は原書の購入を命じられたのですが、そうして手に入れた原書を日本で売り払い、利益を得ようとしていることを察知したのです。
これをキッカケに、福沢は幕府に失望しました。

帰国後、福沢は謹慎処分にされ、そのころ情勢は大きく動きます。
西軍が江戸に迫り、勝海舟が奔走している頃のことです。

福沢は病気を理由に江戸登城を辞め、政局から身を退きました。
彰義隊が徳川家の意地を見せて戦っている最中(上野戦争)でも、福沢はここまでなら戦火が及ばないな――と判断して、英語や経済学の授業を続けていました。

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そして徳川家が江戸城を出て駿府に移ると、福沢は幕府直参としての縁を一切切り、あっさり平民となるのです。

 

明治以降の活躍

福沢は、徳川慶喜に付いていった勝海舟とはちがい、明治以降も華々しく教育者としてのキャリアを重ねます。
明治34年(1901年)、67才で世を去るまで、近代日本発展の基礎作りをしたのです。そこがお札に印刷されることになった所以でしょう。

彼は「政事の下戸」を自称しており、政府から距離を置いたのが後世に評価されたのかもしれません。
主な業績は、ざっとあげただけでも以下の通りです。

・慶應義塾の創設(慶應義塾大学の前身)
・国会開設運動に参加
・『学問のすゝめ』発刊
・『時事新報』発刊
・脱亜思想を唱える

明治20年頃の福沢/wikipediaより引用

 

「痩せ我慢の説」で徳富蘇峰と炎上騒動

福沢の経歴は、勝海舟と重なる部分があります。
しかし、咸臨丸での出会い以来、福沢はともかく勝が嫌いでした。

そんな福沢が全力で勝と榎本武揚を批判した著書が『痩せ我慢の説』です。

この痩せ我慢とは、逆境にも耐えず、頑張り抜くこと。
福沢は、徳川家康を支え続けた三河武士団を讃美しました。彼は西洋流の思想を身につけていましたが、その一方で武士としての生き方にも憧れがあるのです。

それをふまえて、福沢は勝に激怒しました。
以下に概要をマトメました。

・人命を守るためというけど、戦うこともなく江戸開城とは情けないことです
・人命が失われるのは一時的なものです。しかし、勝の腰抜け行為のせいで武士道が永遠に失われてしまった。この方が甚大な損害ではないですか?
・270年も続いた幕府が、たかだが2、3の藩に屈するとはつくづく情けない。外国からも笑われてしまうでしょうねえ
・勝氏が偉いのはわかりますよ。ただ、そんな情けないことをしたうえで、のうのうと明治政府に取り入るとか、恥ずかしくないんですか? 武士の風上のも置けないというのは、こういう人のことだと思います
・榎本武揚氏、あれも最悪。函館まで転戦しておきながら、明治政府にのうのうと仕えるなんて最低です
・勝さん、榎本さん、二君に仕えて自分たちはリッチな暮らしをして、恥ずかしくないの? 悪いことは言いません。とっとと隠棲しろ、この恥さらし

こんな調子で、勝海舟やら榎本武揚らをケチョンケチョンに貶しているわけです。
福沢さんだって、彰義隊が戦っている最中でも講義していたわけじゃないですか〜、とちょっとツッコミたくもなりますが。

福沢は「こういう説発表しますんで、よろしくお願いしますね」と勝と榎本に草稿を送り付けました。
勝も榎本も「意見合わないんだね、仕方ないね。こっちにも言いたいことあるけど、いいんじゃない。好きにしたら」とスルー。ちょっと肩すかしではありますね。

ところが、勝海舟を慕う徳富蘇峰が反論するのですから、今で言えば炎上の様相を呈します。

「戦を避けたのは、列強による諸外国への干渉を防ぐためだったんだよ!」
「ハァ? 外国が干渉する絶好のチャンスって、長州征討の時あたりにあったじゃん。幕府の権威無茶苦茶になっていたし。でも干渉してこなかったよね。そういう仮定持ち出されてもね。ま、それはさておき、勝は隠棲すべきです」

大人げないっちゅうか、むちゃくちゃ白熱してますのぅ!
とにかく勝のことが嫌い過ぎ!

実は福沢自身は、長州征討の際に外国から援助を得て介入を招きかねない状況になっても、長州を断固として叩き潰すべきだと考えていました。
幕府を潰さず、開化政策を取る。
そのためには、攘夷にこり固まった長州は叩き潰してよいと考えていたのです。

 

福沢は幕臣だった

明治以降の輝かしい経歴が注目されがちな福沢。
幕末よりも明治の人という印象が強くなります。

しかし、実際には坂本竜馬吉田松陰高杉晋作と同年代です。

彼は明治の教育者である前に徳川の幕臣でした。『福翁自伝』では早くから幕府を見限っていたと書いています。
が、この言葉をスンナリと信じるわけにはいきません。
幕臣時代の言動を見ると、彼は幕府を存続させた上で日本を変革する――そういう思想の持ち主だったのです。

確かに幕府には失望していました。
上野戦争は参加せず講義をしていた語るぐらい、しらけた目で幕府瓦解を見届けたのだと主張してもいます。
慶喜にくっついて駿府に行ったわけでもありません。

それでも、武士として彼は誇りがありました。
証拠に、明治政府の出仕依頼は、断っています。

福沢の明治維新に対する見方も複雑なのです。

鹿鳴館や日清戦争を批判した勝とは違い、彼は政府の基本的な方向には好意的ではあります。
ただし、明治維新のやり方には怒りを秘めておりました。

福沢諭吉/wikipediaより引用

幕臣として、黒船来航以来の幕府の方針を間近で見てきた福沢は、幕府の開明的な政策もよく知っていました。

福沢が西欧を視察して書物を翻訳していた頃、攘夷だなんだの暴れていた者たち。そんな連中が、自分たちが初めて思いついたかのように西欧化を進める姿を見て、どんな気持ちを抱いたか。

更には、本場でデモクラシーを見てきた福沢に、明治政府の藩閥政治はどう映ったか。
幕臣として自分が学び、歩んだ街を、西軍が蹂躙していった様子にいかなる苦渋の思いを抱いたか。
親しくつきあっていた幕臣たちが、困窮していった様子をどう嘆いたか。

福沢は、新政府に正義があり、開明的だったから勝利をおさめたとは考えていません。

ただ単に、政治闘争を制したに過ぎないのだと認識していたのです。

 

彼の肖像写真が和服ばかりの理由とは

彼の中には、明治の教育者としての福沢だけではなく、「幕臣としての福沢」もありました。

幕臣の福沢としては、手放しに明治政府を褒められるワケがない――。
幕臣の落魄をどう思うのか。
武士道の消滅をどう思うのか。
道を誤ったからといって、東北諸藩をああも痛めつけた行為は正しかったのか。

本来、新政府にぶつけるべきルサンチマンが、勝や榎本に向かったのかもしれません。
勝のせいで幕府は最低最悪の滅び方をし、この国から武士道を滅ぼした、と。

彼の肖像写真は、和服のものがほとんどでした。

鏡にうつった自分の姿を見てしみじみと、
「これで大小をさしていたらな」
と呟くこともあったと伝わります。

西洋的な考え方を尊びながら、彼の魂の底には、武士としての誇りがあったのです。

今日、一万円札を見ても福沢は和服を着ています。
その姿には、幕臣として、武士としての彼の誇りと魂があるのです。

1901年(明治34年)の諭吉/wikipediaより引用

文:小檜山青

【参考文献】
『幕末史 (新潮文庫)』(→amazon
『勝海舟と福沢諭吉―維新を生きた二人の幕臣』(→amazon
国史大辞典

 



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