大河ドラマ『西郷どん』で「恋愛アリなのか?」と注目された篤姫と西郷隆盛の関係。
HAHAHAHAHA、そんなバカな、と笑われた幕末ファンの方もおられたでしょうか。
実際、それは斜め上を行くものでした。
安政の大地震が起き、身を挺して篤姫の命を救った西郷。
そんな西郷に向かって、篤姫が
「一緒に逃げよう」
という趣旨のセリフを発したのです。
結婚前に揺れ動く女性の心情を描きたいのはわかります。また、ドラマゆえに歴史を改変することも致し方ないものであります。
しかし、です。
それには限度がありましょう。
武田信玄と上杉謙信が、決して飲み仲間としては描かれないように、歴史作品には絶対的な前提条件があるはずです。
果たして、史実の篤姫が西郷に恋心を抱く要素は、あったのか?
ぶっちゃけ1ミリもないんでは?
本稿では篤姫と西郷隆盛の関係を史実から振り返ってみたいと思います。
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恭順する徳川慶喜に勝海舟らも続く
慶応4(1868年)年1月、幕府軍は鳥羽伏見の戦いで大敗。最後の将軍・徳川慶喜は江戸へ戻りました。
そこで慶喜は、和宮(孝明天皇の妹・徳川家茂室)に対し「もはや自分は戦う気はない。恭順する」と、キッパリ告げます。
慶喜の願いはただひとつ。
徳川の家名を残すこと。自らの命については助命嘆願をしておりませんでした。
こう書くとまるで慶喜が果断に恭順を決めたかのような印象かもしれませんが、周囲の重臣たちは納得しておりませんし、フランス公使のロッシュが助力を申し出る等あって、かなり迷いはあったようです。
※フランスは、ライバルのイギリスが薩摩をプッシュしていて、幕府側に立っていたという背景があります。
しかし同年2月、慶喜は松平容保らの主戦派を追い払い、自ら上野寛永寺に蟄居。あくまで朝廷に弓を引くことはできないと主張しました。
勝海舟ら幕臣たちも「この大変な時に内戦を起こしては国のためにはならない」と考え、同時に、何としても主君である慶喜の命を守りたいと決意を固めます。
そして3月14日、勝海舟は西郷隆盛と会談し、江戸城無血開城を決めるのです。
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この政争ド真ん中の展開に、篤姫の恋心をどう絡ませるのか。
しかも篤姫は、実家の薩摩から酷い仕打ちを受け、憎しみを抱いてもおかしくない立場へと追いやられております。
歴史の裏にあった生々しい部分。
少し見て参りましょう。
江戸の無血開城前に暗躍していた赤報隊
時計を少し巻き戻し、慶応3(1867年)年10月のこと。
西郷隆盛は、篤姫を護衛するための一団を江戸へ送ります。
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この部隊、名目上は彼女の護衛ですが、裏の顔がありました。
隆盛が彼らに下していた密命は、江戸での攪乱。文字通り、将軍様のお膝元で騒ぎを起こして治安を乱し、挑発することが目的だったのです。
彼らは実際に行動し、同年10月末から12月にかけて、江戸では脅迫、強盗、殺人、掠奪、暴行といった犯罪行為が多発します。
現代の言葉で言えば「テロ」というところでしょうか。
赤報隊もこの事件の担い手でした。
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12月23日には、ついに江戸城二の丸からも火の手があがります。二の丸は篤姫や和宮がいる場所です。
いくらなんでもこんなところから火災が発生するとは妙な話だ……。
ということで、江戸っ子たちは噂しました。
「天璋院様(篤姫)をかっさらうために、薩摩の連中がやったらしいぜ」
この噂はイギリス人外交官アーネスト・サトウも記録に残しているほどです。
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篤姫は江戸っ子にとって、得体のしれない薩摩から来た妖怪姫のように思われてしまったのでした。
鳥羽伏見の戦い前夜、江戸はこのようなカオスとした状態だったのです。
篤姫にしてみれば実家に攻められたようなもの
再び時計の針を戻しましょう。
江戸での戦争という最悪の結果を避け、無血開城に至ったことは篤姫にとって望ましいことでした。
彼女の関心は、江戸城を出て一橋の屋敷に移った後、婚家・徳川家への処分です。
どれだけ所領が残るのか。
どこで暮らすこととなるのか。
そもそも江戸城を出たといっても武装解除の恭順を示しただけであり、後で返してもらえるのではないか。
彼女はそう考えていました。
そうした見通しが甘かったこと、同時に新政府軍の厳しさを知ると、徳川家の安堵は怒りに変わります。あまりに酷い処置。それは……。
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