松浦武四郎/wikipediaより引用

幕末・維新

「北海道」の名付け親・松浦武四郎~アイヌ差別の撤廃を訴えた男の生涯とは

北海道が成立してから、150年という歳月が流れました。

それを記念にして2019年7月15日(北海道では6月7日)に放映されたのが、NHKドラマ『永遠のニシパ』。

この年に放映されたのは偶然ではない気がします。

というのも2019年は、アイヌ新法案が提出された年だからです。

アイヌは先住民族である――。

歴史的経緯を見てごく当たり前のこの真実、この年まで法で定められてはおりませんでした。

それどころか同法案を【日本人の対立を招く】として、差別的にバッシングする動きもあるほど。

もしも彼が生きていれば、こんな現代を見てどう思うか。

『まったく変わっていないではないか!』

松浦武四郎――。

まだ「蝦夷地」と呼ばれた土地を探検し、「北海道」の命名者となった江戸期の人物でした。

 

文化年間に生まれた松浦武四郎

江戸時代というと、こんなイメージがあるかもしれません。

幕末だ、何だとドタバタし始めたのはペリーの来航以降のことで、それまでの日本人は太平に慣れきっていた。

と、これが実はそうでもありません。

19世紀はじめ、ヨーロッパはナポレオン戦争で荒れ果て、その余波は、地球を回って日本にも到達。知識人はナポレオンの伝記を読み漁る等して、動乱を感じておりました。

こうした話は、武士階級だけではありません。

豪農でも、国際情勢や愛国心に目覚める人物がおりました。

後に西郷隆盛の命令で江戸でテロ活動をした相楽総三もその一人でしょう。

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あるいは、それまで平穏に生きていたにも関わらず、情熱をたぎらせ上洛した松尾多勢子のような女性もいたほどでした。

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文化15年(1818年)――。
伊勢国の徳川家領地士・松浦桂介時春の三男として生まれたその赤ん坊・武四郎も、こうした時代の申し子でした。

地士とは、苗字帯刀を許された庄屋(村の長)のことです。

彼が生まれた時代は、ナポレオン戦争終結の3年後。歴史的に見ても、ターニングポイントの時期です。

ロシアと国境を接していた蝦夷地の松前藩は、不凍港を目指すロシア南下の脅威にさらされつつありました。

松前藩が所領を幕府に召し上げられ、海防のため奥羽諸藩が蝦夷地を支配した時期もあったのです。

それが一時停止したのは、ロシアがナポレオン戦争に巻き込まれたから。

松前藩にとって一息つけた時期が終わり始めた頃に、彼は生まれたのでした。

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夢は諸国放浪! 海を越えたい!

父の松浦桂介は、秀才でした。

本居宣長のもとで国学を学び、茶道を嗜む風流な人でもあったのです。

その末っ子である松浦武四郎は、父の愛を受けたやんちゃな子として育ちます。

彼は幼時に剃髪し、寺で学問を学んだこともありました。

学問のみならず、慈愛の心を学んだことが、その性格に影響を与えたことでしょう。

津藩の儒学者・平松楽斎の塾で、13歳から三年間学んだことも。

しかし、この師匠からは破門されています。理由は不明。どうにも我慢がならないと耐えきれない性格のようです。

とても塾でジンワリと学んでいられるようなタイプではない。

13歳の彼にこんな話があります。

そのとき武四郎は「文政のお蔭参り」をジッと見つめていました。いわゆる【伊勢参り】をする旅人の姿に、強い憧れを抱いていたのです。

夢は、諸国放浪だ――。

として天保4年(1833年)に家出し、一ヶ月ほどで連れ戻されています。こんな性格では、師匠も怒ったことでしょう。

松浦の夢は大きいものでした。

江戸、京都、大阪、長崎……それどころか、唐や天竺まで行きたいと手紙に書いていたほど。

外国――日本の外まで見たい!

まだ鎖国の時代に、そう夢見る少年だったのです。

そんな我が子の夢を、親も受け入れざるを得ません。

嫡男ならばまだしも、兄がいる末っ子です。そういう気楽さも、彼には幸いしたのでしょう。

17歳から21歳にかけては、仙台から鹿児島まで。旅の費用は、篆刻や四書五経、漢詩の講義で稼いでおりました。

知的かつ器用で、かつ親の仕送りをあてにしていなかったわけですね。

18歳の時は、あの天保の改革でお馴染みの水野忠邦の奥向で半年ほど奉公したことも。

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21歳になると、長崎で大病に罹ってしまいます。回復後、しばらく仏僧として、看病をしてくれた周囲にお礼として仕えていたこともあります。

とはいえ、目的はそれだけとも思えません。

大塩平八郎の乱」の影響もあり、幕府の目が厳しい中、淡々と海を越えられないかと期待し、3年間待っていたとも考えられます。

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勉強をしたい。
できれば出世もしたい。
それでも、やっぱり旅をしたい!

そんな好奇心旺盛な青年であったのです。

 

蝦夷地への旅

そんな彼に転機が訪れたのが、天保14年(1843年)のことでした。

この3年前にはアヘン戦争が勃発。捕鯨船の出没も増え、「外国船打払令」では対応できなくなりつつあった頃です。

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そしてここが重要な点です。

アメリカやイギリスよりもっと前に、日本に迫っていた外国の脅威――。

それがロシアでした。

ペリーの黒船に注目が集まるためあまり知られておりませんが、文化年間(1804-1818年)辺りから、樺太や択捉にロシア戦艦が出没する事件が相次いでいます(「文化露寇」)。

漂流民も増えています。

蝦夷地にロシアが迫っているらしい――よし、これより蝦夷地を回ってみよう。

そして、そのことをいつかこの国のために役立てようではないか。

松浦はそう考えると実家に戻って、現地への上陸を決意。弘化2年(1845年)に津軽から、松前藩領・江差に渡ったのでした。

ここで、考えておきたいことがあります。

ゴローニンらが漂着し、幕府もロシアに対する危険を察知している。

それなのに、奥歯に物が挟まったような感覚がある。

それが幕末の北方事情です。

松浦武四郎が、その目と足、そして筆で暴くのです。

 

そこはアイヌモシリだった

蝦夷地で出会った人々。
それはアイヌでした。

彼の渡航歴は以下のように3度あります。

1回目:1845年6月〜10月
2回目:1846年4月〜9月
3回目:1849年閏4月〜6月

松浦は蝦夷地を隅々まで歩き回り、アイヌの知恵、勇気、優しさ、助け合いの精神に感銘を受けました。

蝦夷地とは、まさしくアイヌモシリ(人間の静かなる大地)だったのです。

アイヌも、松浦を歓迎しました。

「酷いシャモ(和人のこと、地方によって呼び方は異なる)も多いもの。でも、そんなニシパ(旦那)の中で、あなたはよい人だ」

アイヌは親切にもてなし、料理をふるまい、興味深い話を聞かせてくれるのです。彼らの言葉を学びながら、松浦は『蝦夷日誌』はじめとする多くの著作に残しました。

生き生きとした筆致でアイヌの姿が記録されています。
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