幕末・維新

薩長同盟にありがちな誤解! 薩摩と長州が手を組んだ目的は「倒幕」ではなく……

学校の授業で習う幕末史で、最も勘違いしがちなのが【薩長同盟】かもしれません。

慶応2年(1866年)1月、薩摩と長州が幕府に対抗するため手を組んだ――。

一行で言い切るなら、それで正解。

しかし、そこには「幕府を倒そうぜ!」という【倒幕】の意味は含まれていなかったのです。

にもかかわらず、多くの方が「倒幕のためだったんじゃないの?」と勘違いされがちなのは、おそらくや翌年の慶応3年(1867年)10月に【大政奉還】が実施され、さらに戊辰戦争が始まったためでしょう。

実際、薩長同盟が倒幕のためだったという記述をちょいちょい見かけますが、国史大辞典にはハッキリと

この段階では両藩とも武力討幕を具体的に考えてはいず、

と表記されております。

では、薩長同盟、真の目的とは何だったのか?

簡潔に申しますと、こうなります。

【幕府軍が長州を攻めようとしても、薩摩は幕府の味方には加わらない。長州に対する朝敵認定を取り消したり、そのほか色々と協力する】

なんだか曖昧な言い方ですよね。

薩摩にも長州にも色々と事情があって、両者は微妙に距離をとりながら、それでも助力は惜しまない、最初はそんな関係でした。

しかし、これだけじゃ少しわかりづらい。

・なぜ薩長同盟が必要だったのか?

・薩摩と長州は仲悪かったんじゃないの?

本稿ではそんな疑問に答えつつ、薩摩・長州・幕府それぞの事情を見ていきたいと思います。

 

薩長同盟の超基本情報

まず最初に。

薩長同盟とは、そもそも何なのか?

契約書でもあって、そこに何か書かれたりしているのか?

そんな疑問から押さえておきましょう。

薩長同盟とは
西郷隆盛木戸孝允
の口頭で交わされた約束です。

正式な書面はありません。

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それがなぜ後世にまで伝わっているのか?

と申しますと、木戸孝允(きどたかよし)が坂本龍馬に宛てた尺牘(せきとく・手紙のこと)が残っていたからですね。

中には六か条からなる約束事と【龍馬の朱文字(裏書き)】が記されておりました。

裏書きとは、龍馬が「この約束は間違いない。私が同席して見聞きした通り」という証明であり、宮内庁にその現物が残っております。よろしければHPでご確認を。

坂本龍馬が朱文字で裏書きした尺牘(手紙)/宮内庁HPより引用

手紙の中には、長州側から木戸孝允が出席し、薩摩側は西郷隆盛と小松帯刀(こまつたてわき)だった――ということも書かれております。

 

薩長同盟 六か条の内容とは

では、肝心の【薩長同盟の六か条】には何が書かれていたのか?

国史大辞典を参考にしてマトメます。

【第一条】幕府と長州藩が戦争になっても、薩摩藩は幕府側に味方せず、京都と大坂に兵を置いて幕府を牽制する

まずは「幕府への牽制」ってことが書かれてますね。

【第二~四条】もしも幕府と長州藩が戦争して、勝っても負けても(あるいは戦争がなくても)、薩摩藩はその後「長州藩が朝敵認定を取り消すよう」働きかける

「幕府と長州が戦争したら」という話になってます。

薩摩は関係ない。

しかも目的は「朝敵認定の取り消し」です。

【第五条】一橋慶喜(後の15代将軍)や松平容保(会津藩主)らが朝廷に働きかけ、天皇が長州藩を許さないようにする場合は、武力行為も辞さない

武力行使が意識されます。

が、倒幕しようという話ではなく、ここでも「朝敵認定の取り消し」を目指しているのがわかりますね。

【第六条】長州藩が朝廷に許されたら、その後は薩摩と協力して天皇を奉じる

「天皇を奉じる」と言っているだけで、やはり幕府を倒すとまでは言ってません。

国史大辞典によりますと、第五~六条のせいで「倒幕」のための同盟と勘違いされやすいようですが、普通、戦争の前には政治(話し合いや調略)による権力争いがあるもので、いきなり「戦争!」とはならない。

それは当時の薩摩や長州の事情を見てみれば、ご納得いただけると思います。

まずは時計の針を文久3年(1863年)頃に戻して、長州藩の事情から見て参りましょう。

 

長州藩の事情 その①

薩長同盟前の1860年代前半、長州藩は大ピンチでした。

・1863年 八月十八日の政変
・1864年 池田屋事件
・1864年 禁門の変

と立て続けに、京都でフルボッコにされるのです。

八月十八日の政変においては、薩摩と会津によって京都から追い出され。

池田屋事件では武器を隠し持っていた長州藩士らが新選組(≒会津)に襲われる。

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さらに禁門の変では、京都で蜂起した長州軍が、再び薩摩と会津にこっぴどくやられ、しかも朝敵認定されてしまいます。

早い話、長州は天皇の敵!とされてしまったのです。

長州とすれば、自分たちが先頭に立って尊皇攘夷(天皇を奉って外国を追い払う)を掲げていたのに、当の孝明天皇から嫌われる――というどうにもならない状況。

もはや会津と薩摩を激しく憎むしかなく、履物に「薩賊会(さつぞくかいかん)」という言葉を書いて踏み潰したほどです。

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しかも長州にとっての危機的状況はそれだけじゃありません。

下関戦争(1863年と1864年)によって今度は外国からフルボッコにされ、おまけに第一次長州征伐(1864年)では幕府軍に降参し、家老の切腹等でどうにか話をつけたばかり。

この切腹の流れは、西郷隆盛が単身で長州に乗り込み、交渉をまとめた様子がドラマ『西郷どん』でも描かれていました。

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問題は、ここからです。

幕府は、第一次長州征伐での「長州に対する処分が甘すぎ!」と考えておりました。「もっと寄越せ!」というワケです。

何を寄越せと言ったのか、具体的に申しますと、

・長州藩主父子
三条実美ら5名の公家

であり、彼らを江戸まで送るように命じました。

幕府としてみれば落とし前をつける格好であり、一方、長州藩としては受け入れ難い要求です。

例えば木戸孝允なんかは「家老3人の切腹でもう十分に償ったじゃねーか!」という意識だったと考えられています。

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もちろん幕府としてもアッサリ引くわけにもいきません。

そこで1864年の第一次長州征伐に続き、第二次長州征伐を表明、将軍・徳川家茂が江戸から出発しました。1865年5月のことです。
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