山海の珍味をたらふく食べ、脇には綺麗どころを侍らせる――。
江戸時代の殿様といえば、いかにもノンキでお金持ちなイメージかもしれません。
しかし、こんな贅沢バカ殿はテレビだけの世界。
江戸時代の特に中期以降、全国で江戸300藩(実際には変動している)と言われてましたが、参勤交代でかさばる経費や、貨幣経済の浸透、飢饉による収入の減少などにより、どの藩でもお財布事情は厳しくなっておりました。
そんな中でも、特に東のキングボンビー代表が米沢藩です。
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米沢藩についてはご存知の方も多いでしょう。
関が原の戦いで敗れた上杉家が、かろうじて改易(取り潰し)を免れながら大減封に処され、苦しくなったというものです。
では西は?
と言うと、これが意外かもしれませんが、ドラマ『西郷どん』で注目された薩摩藩なのです。
「米沢藩はわかるけど、なぜ薩摩が? 全国二位の大大名でしょ!」
この疑問、ごもっともでありましょう。
なぜ薩摩が貧乏だったのか? 振り返ってみたいと思います。
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薩摩藩と米沢藩の共通点「武士が多すぎ」
まず米沢藩の困窮について振り返ってみますと、構造的な問題に突き当たります。
関ヶ原の敗北により大減封されたのに、藩士の数を据え置きにした。
つまり武士の数が多すぎたました。
実はこれ、薩摩藩にもあてはまるのです。
薩摩藩領内の人口のうち、25パーセント、つまり4人に1人が武士(琉球国はのぞく)であり、それだけ農業生産性が低かった。
全国平均で見ますと、各藩の武士比率は5~6%ですから、薩摩が飛び抜けて高いことがわかりましょう。
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藩士の禄を確保するだけで、財政が圧迫される状態なのです。
ゆえに下級武士も畑を耕したり、農民のような生活をしたりしなければ、生きていけないワケで。
ドラマ『西郷どん』では、農民や下級武士が苦しいのは
と、西郷隆盛が訴えておりましたが、そもそも最初から厳しい話なのです。
こんなこと、史実の西郷隆盛がわからないハズもなく、少々ミスリードな場面だったかなぁと思います。
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72万石の大大名実質は36万石だと!?
薩摩藩の石高は「72万石」とも「77万石」ともいわれておりました。
加賀百万石の金沢藩102万石に次ぐ大藩です。
しかし、これにはトリックがあります。
他藩が米高(玄米にした状態)で計算しているのに対して、薩摩藩は籾高(籾のついた状態)で算出しているのです。
他藩と同じ米高で計算すると、実質は36万石程度に激減。長州藩、佐賀藩と同程度になります。
しかも、薩摩の領内は、火山灰土壌で稲作に適していません。
火山噴火、台風、土砂崩れといった災害も発生しやすく、農業生産性はかなり貧弱なのです。
にもかかわらず、前述の通り、武士が多く、石高の大半が藩士の禄として消えてしまうんですね。
これはかなりキツい。
藩の実質的な収入となる蔵入高は13万石程度。もはや運営するだけで赤字が嵩むという破綻企業と同じ状態でした。
それでも格式は全国第二位の大大名なわけで
現代人ならば、身の丈に合った生活レベルに落とすという倹約方法があります。
しかし、大名がそうするわけにはいきません。
「金がかかるので、大名行列を質素にします」というようなことは言えないわけです。
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そればかりか太平の世が続くと、だんだんと生活も華美なものへと変貌を遂げます。時代がくだるほどに、大大名にふさわしい装い、贈答品といった生活費用もかかるようになり……ますます財政は逼迫。
享保14年(1729年)には、徳川吉宗の養女・竹姫(浄岸院)と、第22代島津家当主・継豊の縁談が持ち上がりました。
島津家としては莫大な輿入れ費用のこともあり、尻込みするのですが、相手は大奥をも味方に付けていまして、断りきれません。
これ以来、島津家と将軍家には婚姻関係が生まれました。
非常に名誉なことではありますが、相手が将軍家ともなれば毎回莫大な費用が嵩むわけです。
名誉や格式とは、金銭面からするとありがたくない一面もあるのでした。
度重なる大火も追い打ちをかけた
さらに火災も赤字を悪化させます。
度重なる江戸の火災で、藩邸が焼け落ち復興費用がかかります。鹿児島城下でも、大火が発生しました。
江戸の大火
・明暦の大火(1657年)
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鹿児島の大火
・延宝8年(1680年)
・元禄9年(1696年)鹿児島城本丸焼失
・元禄10年(1697年)
・元禄12年(1699年)
・元禄16年(1703年)
ほぼ毎年大火災が発生しているのではないか――という状況に加えて、薩摩では台風およびその影響による水害、土砂災害も発生するわけです。
明暦の大火では、他藩が藩邸を再建していく中、薩摩藩は着工すらできなかったそうです。辛い、辛すぎる……そして……。
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