幕末・維新

坂本龍馬が暗殺されるまで駆け抜けた33年激動の生涯~暗殺犯は誰だ?

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しかも、切腹を命じられた平井収二郎は、龍馬の恋人であった加尾の兄。酷いことだ、と龍馬は手紙で嘆いています。

そして土佐勤皇党は、慶応元年(1864年)までに岡田以蔵、武市瑞山らが切腹に追い込まれ、壊滅しました。

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龍馬と中岡慎太郎はこうした壊滅には巻き込まれず、別途行動して名を残すことになります。

それどころか、吉田東洋にとって義理の甥であり、土佐勤王党処断に尽力した後藤象二郎と接近。後藤は、土佐藩内の公武合体派として活躍します。

このあたりが龍馬という人物の大きなところではないでしょうか。

彼は倒幕派とも、公武合体派とも接近できる、極めて広い人脈・思想の持ち主でした。

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薩長の同盟前夜

さて、坂本龍馬は幕末海軍の発展に寄与した、と記しました。

言うまでもないことですが、龍馬第一の功績はそのことではありません。

犬猿の仲だった薩長の手を膠(にかわ)のように結ばせた【薩長同盟】こそ、真っ先にあがる功績です。

西郷隆盛木戸孝允という険悪な薩長の人間すら取り持つ龍馬。そのことばかりに注目し過ぎると、龍馬の個人的な賞賛に行き過ぎることもあります。

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ここは改めて、薩長の盟約の意義、背景について考えてみたいと思います。

そもそも、なぜ、薩摩藩と長州藩は犬猿の仲であったのか?

正確にいうと、長州藩が敵を作りすぎていたという状況になります。

長州藩は「奉勅攘夷」を掲げていました。朝廷工作を行い自分たちに有利にある勅を出させ、外国船の砲撃や幕府を挑発するといった、過激な行動をとり続けました。

この行動に誰よりも激怒したのが、孝明天皇です。

孝明天皇は、自分があずかり知らぬところで、勝手に長州藩に有利な勅が出されることに不快感を出していました。自身が公武合体派であり、幕府と対立する気もなかったのです。

そして文久3年(1863年)。
孝明天皇の不信感は頂点に達し、長州藩は京都から追いやられます(八月十八日の政変)。

その翌年、巻き返しをはかった長州藩が京都へと進軍して、御所へ発砲。これでついに、長州藩は朝敵認定されてしまいました。

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この動きには、孝明天皇の意志を受けた勢力として、薩摩藩が会津藩と共に積極的に関わっていました。

このことを長州藩士は激しく恨み、「薩賊会奸」と履物に書いて踏みつけて歩いた、と伝わります。

さらに長州藩は、報復として薩摩藩の船を撃沈し、島津久光の殺害予告をバラ撒きました。

この船の撃沈には龍馬も関わりがあります。

船の撃沈とともに薩摩藩で航海術を知る者が減ったため、指導者として龍馬が招かれたことがあるのです。

薩摩藩側もやられっぱなしのはずはありません。
長州藩には憎悪を募らせています。

藩主の父である久光の殺害までほのめかされて、腹が立たないわけもないのです。

そんな両者を取り持ったのだから、龍馬はすごい――と言いたくなりますが、ここもそう単純な話でもありません。

同盟の背景として、幕末政治の混乱と、島津久光がそうした政治闘争に失望していたこと。

特に、徳川慶喜への失望は顕著でした。

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久光自身は一橋慶喜と面識はありませんでした。が、兄・島津斉彬がかつて将軍として擁立しようとしていた人物である。

そうした経緯もあり、文久2年(1862年)に上洛した際には、慶喜の謹慎解除を政治改革の一端として幕府に求めたのです。

 

同盟の前にソロバン勘定があった

慶喜は将軍の後見となり、家茂死後は将軍として君臨することになります。

しかし、慶喜と久光は合議制の政治において激しく対立するようになりました。

弁が立ち、策略に長けた慶喜は、そうした中で会津藩と桑名藩と手を組みます。会津藩は孝明天皇の信任があつく、天皇の歓心をかうためには彼らと手を組むことが重要であったのです。

会津藩と桑名藩は政治的な野心は薄く、御しやすい相手でもありました。

こうした慶喜を中心とした派閥は「一会桑」と呼ばれます。

しかしこの派閥は、孝明天皇の崩御もあり、程なくして翳りが見えてきます。

一会桑への巻き返しをはかるチャンス!

こうした状況の中、薩摩藩は長州藩に接近しました。

「長年の恩讐を越えて、倒幕という目的のために手と手を取り合った薩長!」

美しいイメージがあるかもしれませんが、そういう歴史ロマンの前に、ドライな政治判断もあるということですね。

龍馬の死ぬ気の働きによって心を動かされた――というのはいかにも面白いストーリーですが、両藩共に現実問題、多数の藩士を抱えているワケです。

互いのソロバンが弾かれないなどありえません。

また、同盟を結んだ時点では、一緒に倒幕まで考えていませんでした。

あくまで当初の目的は【長州藩の朝敵認定取り消しを目指す】ということです。

 

では、なぜ坂本龍馬が仲介だったのか?

2018年6月、アメリカと北朝鮮の会談が決まりました。

開催地はシンガポール。

なぜ、坂本龍馬の記事でそんなことに触れたのか?

薩長同盟の仲介にも通じるところがあるからです。

すなわち以下の二点。

・両者にとって中立性が高い

・過去に実績がある

土佐藩は、薩摩藩と長州藩から適度に距離があり、中立。その一方で、龍馬は尊皇攘夷活動を通して顔が広く、人脈や実績もある。

中立性と、親密さが、両方バランスよく備わっていたのが、龍馬というわけです。

龍馬が「薩長同盟」を成し遂げたのは、英雄的な何かがあるからだ――そう思いたくなる気持ちはわかりますが、英雄性という具体的に測定できない要素よりも、まずこうした背景があったのでしょう。

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むろん、それは龍馬の積極的な行動、親しみやすい性格といった、日頃の行動と人間的魅力があってこその話でしょう。

慶応2年(1866年)1月、龍馬の斡旋もあって、犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩では盟約が成立したのです。

 

寺田屋を脱出後にハネムーン

京都の動乱の最中、龍馬は彼好みの気の強いとある女性と深い仲になっておりました。

彼女の名は、楢崎龍

安政の大獄】で亡くなった活動家ともつきあいのある、いわば勤王の医師ともいえる人物の遺児でした。

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おりょうは、女郎に身を売られた妹を奪還するため、悪漢を殴り飛ばしたともいう、気の強い女性です。

龍馬は彼女のことを、乙女宛の手紙に「まことにおもしろく女」と書いています。

京都で活動する龍馬は彼女を気に入り、「寺田屋」に預けていました。

おりょうはここで「春」と名を変えて、働くこととなりました。

「薩長同盟」斡旋という、大役を果たした慶応2年1月23日(1866年3月9日)。

龍馬は、なじみの宿である「寺田屋」に宿泊していました。

長州藩の三吉慎蔵らとともに宿にいた龍馬。

三吉慎蔵/wikipediaより引用

その深夜、30人ほどの捕り方が宿を包囲。

異変を察知したおりょうは、風呂からあがると濡れた肌に袷一枚を素早く着て、二階にいた龍馬たちに危難を知らせました。

間一髪逃れた龍馬たちは、傷を負いながらも薩摩藩邸に匿われます。

この後、龍馬とおりょうは、二人で薩摩に滞在し、傷の療養にあたりました。

龍馬とおりょうの薩摩新婚旅行(ハネムーン)ってどんな感じだったん?

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これが日本初のハネムーン説もある旅行です(※龍馬が初のハネムーン説として有名ですが、実際は薩摩の小松帯刀が最初ではないか?という話です)。
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