前列中央が永倉新八/wikipediaより引用

幕末・維新

永倉新八77年の生涯まとめ! 新選組の最強剣士は激動の幕末を駆ける

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永倉新八
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新選組崩壊

江戸っ子には歓待された新選組隊士でしたが、幕府は必ずしもそうではありませんでした。

軍艦で命からがら逃げ帰った徳川慶喜は、勝海舟に泣きつきます。なんとしても、命を救って欲しい、と。

武士が主君からこう泣きつかれては、勝もあらゆる手を使わざるを得ません。

抗戦か、恭順か――。
そう揉める幕臣を沈静させるため、手を打ちます。

後世に「一会桑政権」と呼ばれるほど徳川慶喜と蜜月関係であった、会津藩と桑名藩を江戸登城を禁止。同時に和宮にもすがりつき、皇族・公家に手を回しての助命嘆願に勤しむのです。

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幕府のために戦いたい――そんな者たちは、いとも容易くハシゴを外されました。

そんな状況では、抗戦派筆頭であり、西軍の憎しみを買っている新選組は邪魔者でしかありません。それ以前に勝は、荒々しい新選組が嫌いでした。

勝は、うまいこと近藤勇ら新選組幹部を言いくるめます。

「おめえさんたち、これからは【甲陽鎮撫隊】になってくれ。幕府直轄領である甲府を新政府軍に先んじて押さえてくれ」

近藤勇はこれで自分は幕臣・大名にも匹敵すると舞い上がり、土方も思う存分戦えると、腕を鳴らします。

甲州勝沼に向かう先々で、彼らは豪快に散財しました。待ち受ける悲劇の運命を知らず、舞い上がっていたのです。故郷にも立ち寄り、錦を飾りました。

しかし、甲州勝沼に向かった「甲陽鎮撫隊」は、信じがたいものを見ます。

甲州勝沼の戦い/wikipediaより引用

抑えるべき城は、既に敵で充満していたのです。

死線をくぐった隊士たちもこれには唖然。永倉と原田に訴えます。

「これでは戦えるはずもない……援軍なしで戦えだなんて、そんな無謀なことはできません!」

永倉と原田が訴えると、近藤は困り果てました。

「隊士を騙すというのは士道に背くことだが、緊急事態ならば仕方ない。会津の援軍300が明日朝には到着するはずだ」

そう返すと、土方は、旗本で編成された菜葉隊を援軍とすべく、交渉に向かっていました。永倉は隊士とかり集めた農兵で進軍しようとします。

が、農兵に裏切られてしまいます。

さしもの永倉新八も退却しようとしたところ、隊士たちは一斉に不満の声を上げ始めたのです。

「会津の援軍なんて、どうせ来ねえんでしょう」

「兵糧すらろくにありゃしねえ!」

永倉と原田が慌てて追いかけたものの、言うことを聞こうともしません。

すでに近藤の言葉すら通じないのです。

「俺たちゃあ会津に行って戦います」
彼らはそう言って、去ってゆきました。

近藤にこのことを伝えると、彼もため息をつきました。

「こうなったら、もはや会津の城を枕に討ち死にするほかないのか。あとは永倉と原田に任せる。江戸で会おう」

誠に染め抜いた旗を掲げ、京都を震撼させた新選組も、もはや止められない崩壊の中にあるのでした。

 

近藤との永訣

甲州勝沼の敗戦から5日後。
隊士たちがバラバラになる中、新選組は江戸で落ち合いしました。

しかし、近藤がいないと知るや離散する者も多く出てきます。

そうした一部が遊郭で遊んでいると知った永倉新八は、駆けつけてどうするつもりかと問い糾します。

「会津へ向かって討ち死にするつもりです。だから、こうして遊んでいるんです」

「そりゃ、俺も同じ気持ちだ。どうだ、力を合わせて新たな組織を結成して、会津へ向かおうじゃねえか」

こうしてまとまった話を近藤にすると、彼は首を横に振るのです。

「そのような決議に参加することはできん。ただ、我が家臣として働くのであれば、同意もいたそう」

カーッと永倉新八の頭に血が上ります。

「ああ、わかりましたよ。けどよ、二君に仕えずっていうのが武士の本懐じゃねえか。これまで同盟してきたが、あんたの家来になったつもりはねえからな、あばよ!」

池田屋のあの死闘で、最後の二人だけになっても戦い抜いた、あの永倉と近藤。ついに二人は、本気の喧嘩別れをしてしまいます。

4月3日、近藤勇は新政府軍に捕縛されました。

自ら出頭したという説もあります。気力が尽きてしまったのか、流山を戦場にしたくなかったのか。

新政府軍には、御陵衛士残党がいました。

大久保大和という変名を使っていたものの見破られ、近藤は切腹すら許されないまま、斬首刑。
享年33。

その首は、三条河原に晒されて行方がわからなくなってしまいました。

近藤勇、三条河原での晒し首の様子/wikipediaより引用

永倉は、原田とともに「靖兵隊」を結成。

旗本の養子となり、芳賀宜道と名乗っている市川宇八郎とも再会し、仲間に加えました。

 

靖兵隊、北へ

近藤だけでなく、他の戦友たちも世を去りつつありました。

肺結核の療養中であった沖田総司が、療養先で死去。享年24(諸説あり)。

妻子に別れを告げようと、靖兵隊を一時離脱して江戸に向かった原田左之助は、混乱の最中戻ることができなくなります。やむなく彰義隊に加わって戦死を遂げ、享年29。

袂を分かった新選組が、土方歳三に率いられて宇都宮へ向かう中、芳賀隊長と永倉副長率いる「靖兵隊」も、宇都宮へ到着しました。

永倉新八らは抜刀隊を率いて、奮戦するのです。

靖兵隊は、仙台藩白石城に入っていた輪王寺宮北白川宮能久親王からとある命令を受けました。

戊辰戦争は、東西両軍とも皇族、しかも兄弟である伏見宮邦家親王の子を名目上の総大将としていました。

「徳川家の象徴たる日光東照宮を新政府軍から奪還せよ」

それが靖兵隊のキーワード。

永倉新八たちが会津城下までたどりつき、明日には入城というその日、大変な騒ぎが起こりました。

殺到する西軍から逃れるため、老若男女がごった返していたのです。

「こいつぁいけねえ。もう城にはたどり着けねえ!」

会津から立ち去る永倉新八たちが見たのは、周囲を取り囲まれて砲撃にさらされる、会津若松城の無残な姿でした。

ボロボロになった会津若松城・戊辰戦争後に撮影/Wikipediaより引用

その途中、永倉らはとある人物と出会います。

米沢藩士の雲井龍雄です。

彼らの助力をもって会津救援に向かおう――そう決めた永倉新八たちは雲井に同行します。

が、米沢藩は佐幕か恭順かで意見が割れており、救援を取り付けるどころか、虚しい日々が過ぎていくばかり。

そうこうするうちに、結局、会津若松は落城の日を迎えてしまうのでした。

永倉らは、江戸へ戻ることに。

道中の困難を心配した雲井は、永倉と芳賀に米沢藩に仕えないかと持ちかけますが、両人は「二君に仕えず」と断ります。

町人に変装した二人は、道中あやしまれつつも、なんとか江戸へ。

しかし、芳賀の身に悲運が襲いかかります。

妻の兄である藤野亦八郎と口論になってしまいまして。藤野が西軍についたことを、芳賀が責めたのが原因。藤野に殺害されてしまうのです。

永倉新八は、芳賀の妻に頼まれて藤野を付け狙いますが、藤野が病死したため、この仇討ちもこれきりとなりました。

多くの同志を失い、永倉新八も意気消沈します。

 

世の転変

永倉新八は、かつて剣術修行のために飛び出した松前藩を頼ることにしました。

そうして江戸をブラブラしていたある日、偶然、伊東甲子太郎の実弟である頼三樹三郎(らい みきさぶろう)とすれ違います。

「あっ!」

互いにハッと身を固くしました。腕前ならば絶対に相手に負けないはずですが、相手は勝ち組、一方の永倉は負け組です。

世の転変が、永倉新八から闘志を奪いつつありました。

かつて餓狼のように敵を追っていた我が身が、今度は追われる側に回ったことを痛感した永倉。

頼三樹三郎らの刺客から隠れるために、息を潜めて生きる日々を送ることになってしまいます。

そんなある日、永倉は黒山の人だかりを目にします。

近づいてみると、梟首とされた雲井龍雄その人でした。彼は新政府に対して背いたとされ、処刑されたのです。

「ああ、これでもう、何もかも終わっちまった……」

すべての望みが打ち砕かれた気がして、永倉新八は愕然としてしまいます。

そんなある日、永倉は家老に呼ばれました。

福山に、杉村という藩医の家があり、きねという娘に婿を探しているとのこと。

「福山までは、頼三樹三郎とて追っては来ないだろう」

そう言われ、永倉新八は北海道を目指して出立。明治8年(1875年)、杉村家の家督を継ぎ、名を義衛と改めました。

きねとの間には一男一女が誕生しました。

 

慰霊と回顧の日々

明治という新たな世の中になっても、永倉新八は剣士であり続けました。

明治15年(1882年)から4年間は、樺戸集治監(刑務所)の剣術師範に就任。そのあとは東京牛込で道場を開いたこともあります。

日清戦争では抜刀隊に志願して断られたほど。

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ヤクザ者をひと睨みで追い払ったという伝説もよく知られておりますね。

「どうにも竹刀の音を聞かねえと、飯も喉を通らねえ」

そう言い、腰を抜かして竹刀が振れなくなった晩年まで、剣士として生きていたのです。

永倉の役目は、それだけではありませんでした。

新選組隊士として、修羅場を幾たびをくぐってきた永倉新八。傷だらけの肉体を諸肌脱いで、よくこう啖呵を切っていました。

「俺ァ、お国のために働いたんだ!」

彼も、彼の同志も、死して英霊と呼ばれることはありません。

それでも彼にはわかっていたのです。

自分も、仲間も、国のために戦ったのだと。

函館の「壁血碑」では土方歳三、伊庭八郎を弔いました。

米沢では、雲井龍雄の妻を来訪。そして近藤勇が処刑された場所の板橋滝野川には、幕府の医者・松本良順とともに新選組隊士供養塔を建立します。

晩年には新聞記者相手に、自らの体験を語って聞かせました。

話を盛った部分もあるようですが、彼の見聞録は、新選組の貴重な証言として残されました。

大正4年(1915年)、虫歯を原因とする骨膜炎、敗血症により死去。

当時としてはかなり長生きの享年77。

死線をかいくぐりながら、天寿を全うしました。

永倉新八の墓は、彼が建立した板橋の近藤勇と隊士ら供養塔と並んでいます。

前列中央が永倉新八/wikipediaより引用

明治政府は、新選組を極悪非道の集団とみなしました。

しかし現在、新選組はやんちゃで、我武者羅で、熱く生きて散った集団として、多くのファンが存在します。

板橋駅前の供養塔横には、ノートが置かれています。常に更新されるそのノートには、熱い思いが書き込まれているのです(板橋区HP)。

150年経てもなお、誰かの心を熱くする新選組の生き様散り様。

晩年は映画を好み、孫と共によく映画館へも行っていたと言います。

「近藤さんも、土方さんも、若くして亡くなっちまってこんな不思議なもんを見ることはできなかったが。俺ァ長生きして、これを見ているんだなあ……」

そんな文明の不思議である映画だけでならず、テレビドラマやゲームにアニメ……。

ありとあらゆるものに仲間たちが出演し、戦い恋をしていると知ったら、永倉新八や彼の仲間はどう思うでしょう。

今も誰かの本やスマートフォン、あるいは想像力の中で。

新選組は戦い続けています。

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文:小檜山青

【参考文献】
『新撰組顛末記 (新人物文庫 な 1-1)』(→amazon
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