天保二年(1831年)6月14日は、孝明天皇の誕生日です。
幕末の話題で見かけることが多く、歴代天皇の中では有名なほうですよね。
「孝明天皇は西洋嫌い」「孝明天皇が急死して云々」という話がよく知られておりますが、今回はそれ以外のことも見ていきましょう。
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条約勅許を得るため堀田がやってきた
孝明天皇は、父・仁孝天皇の第四皇子です。
上三人の兄宮が生まれてすぐに亡くなったため、政治的なアレコレはなく、正式な皇太子になりました。
12歳のときから隠岐出身の儒学者・中沼了三を師に迎えて学んでいます。そして15歳のとき、仁孝天皇の崩御により即位しました。
ときの江戸将軍は十二代・徳川家慶。
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つまり、既に異国船が日本近海にやってくるようになっていた時期です。
そのためか、即位の前からたびたび国内の平穏を祈る儀式を行っていました。
孝明天皇27歳のとき、安政五年(1858年)に日米修好通商条約を締結する勅許を受けるため、幕府から老中・堀田正睦がやってきました。
この頃から孝明天皇も政治に大きく関わることになります。
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孝明天皇は一定以上の官位を持つ公家に意見を求めたのですが、ハッキリした主張は出てこないため、ときの関白である九条尚忠への書簡にこのときの気持ちを記されています。
「私の代になって異国人に国を汚されるとは、ご先祖様に申し訳ない。末代までの恥にもなろう」
おそらく「西洋人は、はじめ通商を求めてきた後に軍事侵略する」ということを聞かされていたのでしょう。
通商だけなら長崎でオランダや中国相手にずっとしてきているわけですし、それ以前にも渤海国とのお付き合いをしていた時期もあります。
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その後の書簡では「誰が上京してこようと開港は認めないし、京の周辺についてはいうまでもない」と、よりハッキリと記しています。
孝明天皇の信頼が厚い、ときの太閤・鷹司政通は開国を主張し、受け入れられませんでした。
幕府は勝手に調印 孝明天皇は激怒し、譲位まで考える
こうして朝廷の中でも意見がまとまらない中、堀田正睦が上京。
朝廷からは、とりあえず「幕府の中で意見をまとめろ。話はそれからだ」(※イメージです)と言ったのですが、正睦は「幕府内部をまとめるために勅許が必要なのです」と食い下がります。
こうなると話は平行線にしかなりません。
朝廷の中も大混乱で、開国派だった人は反対派になり、その逆になる人もいました。
すると反対派の公卿88人が朝廷で座り込みを行う【廷臣八十八卿列参事件】という騒ぎが勃発。続いて97人の下級貴族たちによって条約撤回を求める書面が朝廷に提出されました。
安政五年(1858年)3月のことです。
しかし、幕府は勅許を得られないまま6月に日米修好通商条約に調印してしまいます。
これには当然、孝明天皇も朝廷も大激怒。
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譲位まで考えてたといい、公家たちは「御三家と大老(井伊直弼)を呼んで説明させますので、それまでお待ち下さい」(意訳)と引き止めました。
譲位してどうするつもりだったのか?
その辺は不明ですが……このとき明治天皇はまだ6歳ですし、
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後水尾天皇が紫衣事件などに不満を抱いて譲位した故事にならおうとしたのでしょうか。
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これに対し幕府は「大老は忙しいし、御三家は処罰中なんで代わりに老中首座と所司代に行かせます」(意訳)と返事。
その返事が京に届くまでの間に、幕府はロシアやイギリスとも通商条約を結んでしまいました。
これじゃ孝明天皇や朝廷がさらに怒るのも無理はないですよね。
孝明天皇は譲位を再び考えるようになり、いわゆる【戊午の密勅】を発しています。
「開国そのものが国の恥であり、認められない」
入れ替わりに老中首座・間部詮勝が上京して釈明をしました。
孝明天皇は会いませんでしたが、詮勝は
「勅許なしに調印したのは幕府としても本意ではなく、海防準備が整うまでの時間稼ぎである」
「準備ができたら、改めて和戦のどちらにするかを決める」
と伝えます。
どちらかというと、これ自体が朝廷への時間稼ぎな気が……。
これを伝え聞いた孝明天皇は「開国そのものが国の恥であり、認められない」と書面で伝えます。このため詮勝は「鎖国に戻す」と口約束をせざるを得ませんでした。
天皇はそれで安心したようですが、既にそれができないことを大半の人はわかっていたでしょうね。
幕府もそのつもりはなく、開国反対派の公卿を辞めさせたり、出家させたりしています。孝明天皇はこれにも異を唱えようとしたが、逆らいきれません。
幕府から和宮降嫁が奏請されたのは、この後のことです。
こんだけナメた言動された上、「おたくの妹さんください^^」と言われても、誰だって大反対しますよね。しかも本人が乗り気でなかったわけですし。
しかし最終的には和宮の母の実家である橋本家にまで根回しされ、孝明天皇も鎖国再開と譲位実行という条件付きで同意します。
なぜここまで外国との通商を嫌がったのか?
文久三年(1863年)、徳川家茂が上洛してきたときには、念押しに攘夷を命じました。
また、自身でも賀茂神社や石清水八幡宮で攘夷を祈願しています。
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もっとも以前から、公家の一部に無理やり孝明天皇を行幸させる者がいたため、これも孝明天皇の本意かどうかはわかりません……。
煮え切らない態度に業を煮やした諸外国は、慶応元年(1865年)、大坂湾へ船を乗り付け、条約の勅許を求めるようになります。
孝明天皇も情勢を悟って勅許を出すことにしましたが、宮中での西洋医学禁止を命じてもいました。
少し話が前後しますが、孝明天皇の遺品に西洋式の時計があります。つまり、西洋の文物全てが嫌だったわけではないのでしょう。
では、なぜここまで外国との通商を嫌がるのか?
おそらくそれは、皇室特有の価値観が影響していると思われます。
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