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琉米修好条約を要求したのもペリーだった! 知られざる琉球の開国事情

安政元年(1854年)6月17日は、ペリーが琉球王国(現在の沖縄)と琉米修好条約を締結した日です。

この時期、そしてペリーとくればやはり日米和親条約のイメージが強いですよね。

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実は、その合間に琉球王国とも接触していました。

今回はこの件を中心に、琉球王国の外交関係について少々みていきましょう。

 

武力行使ではなく穏便な対応で

もともと、ペリーは大西洋からアフリカ・シンガポール・中国を経由して日本に向かうルートを選んでいます。

となると、江戸よりは琉球のほうを先に通るわけです。

訪問順からして「どうせ江戸での交渉はすぐ終わらないから、こっちとも付き合いを始めておくか」といった雰囲気が漂いますね。

アメリカを出発したのが1852年11月で、初めて琉球を訪れたのが翌年5月。

半年となると、この時代にしては早い感じがします。現代でも、国際便の小包はそのくらいかかることがありますし。

琉球に対しては武力行使も許されていたようですが、ペリーは穏便なやり方で話を進めようと考えていたようです。

 

江戸で交渉した後、琉球にも開国を要求

首里城で琉球のお偉いさんと会見の後、贈り物をして一度小笠原諸島へ向かいました。

その後、小笠原諸島から那覇に戻り、補給をして本命の江戸へ行っています。おそらく、琉球への最初の訪問は顔合わせのつもりだったのでしょう。

そして江戸で交渉した後、再び琉球にやってきて以下の要求をしました。

・聖現寺を一年間賃貸することと、それに関する協定

・5~600トンの炭を貯蔵できる施設の建設、及びその施設の妥当な金額での貸与

・偵吏(公的な探偵)の追跡を禁止

・アメリカ人向けの自由市場を作ること

「聖現寺」は現在の天久聖現寺で、首里城から西に5kmほどのところにあります。

近隣にはペリー上陸記念碑も。

ここは元から港に近い場所にあるお寺ですので、ちょうどいいと思ったのでしょうね。

 

日米和親条約を結んで再び来航 回答期限はわずか3日

いきなりやってきて提示したペリーの要求は、江戸幕府に突きつけたのと同じくらい無礼なものでした。

この後、ペリー一行は香港へ向かい、その後アメリカへ一度帰国。これまた江戸幕府相手と同様に、琉球にも考える時間を与えたのです。

そして翌年、ペリーは再び来航します。

このときも琉球に顔を出した後、江戸に行って日米和親条約を結び、その帰りにまた琉球へ来ています。

琉球からすれば、外堀を埋められた感じがしたでしょうねぁ。

朝貢先だった清は、既にアヘン戦争で負けており、当然ながらその情報は知っていたでしょう。

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ペリーはほとんど時間的猶予を与えるつもりはなく、回答期限はたった3日という短期間にしています。

琉球政府としては不服だったでしょう。

しかし、日本が日米和親条約を締結したと知ると、琉球としては抗う力もなく、仕方なくこれを受け入れ、調印いたしました。

七か条で、条約は漢文と英語で二通ずつ作られ、後にもう一通追加しています。
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