上野 彦馬/wikipediaより引用

幕末・維新

あの有名な龍馬の写真にも関わった!? 上野彦馬は日本人初のプロカメラマン

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長崎に伝わったダゲレオタイプ

カメラの技術そのものは、写真よりもずっと前にありました。

平賀源内も、箱とレンズを組み合わせた「写真鏡」を作っています。

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この技術と化学薬品を組み合わせ、画像を写す技術が写真であり、硝酸銀を使った試みは18世紀から行われて来ました。

1839年、その技術がついに実用化。

フランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールによって「ダゲレオタイプ(銀板写真)」と呼ばれる技術が世に送り出されます。

ダゲールによる写真『Boulevard du Temple』。1838年から1839年の間に撮影/wikipediaより引用

それから僅かわずか4年後。
1843年(天保14年)の長崎に、オランダ船が写真機を持ち運んできました。

強い興味関心を抱いたのが、蘭学者である上野俊之丞です。

好奇心旺盛で、蘭学の習得に熱意のあった俊之丞ですが、機材をじっくりと観察するわけにはいきません。

当時、幕府は蘭学への取り締まりを強化していました。

渡辺崋山や高野長英が災禍に見舞われたのも、その弾圧のせいです。

オランダ語の翻訳に許可が必要となり、幕府の目をかいくぐらなければならない、暗黒時代でした。

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それから10年もたたない1851年(嘉永4年)、俊之丞は享年62で亡くなっています。

時はペリー来航の前年、まさに幕末前夜。

しかし俊之丞には、彦馬という子がいました。

上野 彦馬/wikipediaより引用

彼こそが、幕末においてプロカメラマンとなるのです。

 

プロカメラマン上野彦馬

彦馬はダゲレオタイプ写真と同じころ、1838年(天保9年)に生まれました。

そんな彼の一生をたどることは、幕末から明治にかけての写真受容をたどることでもあります。

ざっと振り返ってみましょう。

蘭学者の父と、教養溢れる母のもとで生まれた彦馬は、幼い頃から秀才でした。

上野家では、日常会話でもオランダ語が飛び交うほど。10代で広瀬淡窓の咸宜園に学んだあと、激動の1858年(安政5年)、医学伝習所に入学します。

ここでオランダ軍医ポンペから、学んだのが湿板写真の技術でした。

1878年当時のカメラ/wikipediaより引用

これだ!

彦馬はそう大興奮し、医学を並ぶことはやめて、舎密試験所で舎密学(化学)を学ぶこととなったのです。

蘭書を読み漁り、同僚の堀江鍬次郎ら写真に取り組むわけですが、そもそも撮影に必要な薬品があります。

そこで自作した……と、簡単にまとめられないほどの苦労をしております。

【上野手作りの薬品】

・アルコール
→焼酎やポンペからもらったジンを煮詰める

・アンモニア
→牛骨を埋めて、腐らせて掘り出し、煮詰める

青酸カリ
→牛の血を日光で乾燥させ、分析して精製する

肉食すら珍しい幕末に、こんなことをしたら、周囲からすればマッドサイエンティストにしか思えません。

実際「キリシタンの妖術でもやっているのか?」と噂されただけでなく、彦馬の姉が「弟の気持ち悪い実験で自分の婚期が遅れる」と嘆くほどです。まぁ、これは責任転嫁の部分もありましたが。

彦馬は江戸に遊学し、来日していたフランス人写真家ロシエに師事。

写真のための化学を学ぶ日々を送ります。

ロシエが撮影した横浜(1859年)/wikipediaより引用

長崎に戻ってからは、カメラを持って撮影に励む毎日です。

そして1862年(文久元年)、故郷長崎で「上野撮影局」を開きました。

 

写真館は赤字必至

江戸から戻った彦馬を迎え、長崎の人々はこう噂しました。

「ホトガラ狂いが戻ってきたと!」

歓迎ムードどころか、正気を失っているとすらみなされていたのです。

写真は、どのような扱いをされていたのか?

というと、これより前の1860年(万延元年)の万延元年遣米使節は、現地で幕府の使節たちが硬い顔で写真におさまっております。

万延元年遣米使節/wikipediaより引用

同年の遣欧使節団では、福沢諭吉はじめ、リラックスした笑顔で写真におさまる人もいたものです。

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それも彼らが、最先端の学問を学んでいたからこそ。

当時は、カメラ好きの島津斉彬に、写真モデルを頼まれた薩摩藩士2名が、「魂を吸われたくない」と切腹したこともあったほどでした。

そんな時代です。
当然、長崎の人々も事情は大して変わりません。

鶏卵紙を使った写真をするようになってからは、上野家には卵の殻がどっさりと置かれていたため、「カステラを作ったらよか!」と助言してくる者もいたとか。

彦馬の写真に、周囲の理解はなかなか追いつかなかったのです。

そんな中で写真館を経営することが、どれほど大変であったことか。

儲かるどころか、大赤字でした。

・モデルに多額を払わねばならないのに、撮影料ゼロ
→撮影というよりも、実験に付き合わされる感覚でした。定着するとお礼を持ってくる者もいたものの、野菜や酒等、現物です。

・「上野撮影局前の溝には、血が流れとるたい」「キリシタンの魔術と!」
→化学薬品実験のせいもあって、黒魔術をしていると信じられたとか。

・化学薬品はともかく高い!
→材料確保も、実験も、大変です。一から作るものですから、並大抵の苦労ではなかったのです。

黒字になるどころか、破産すると家のものが口をこぼすほどでした。
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