幕末の外国奉行・岩瀬忠震(いわせ ただなり)。
岩瀬が交渉に臨んだのは歴史の授業でもお馴染みの「日米修好通商条約」です。
この条約は【アメリカの要求を一方的に受け入れた、屈辱的な不平等条約】として語られますが、これがどうして冷静に見てみれば、十分理に適った、日本にとっては当時最高の取り組みだったことがわかります。
本稿では、岩瀬の生涯と日米修好通商条約、特にタウンゼント・ハリスとの交渉を中心に見て参りたいと思います。
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左内も認めた教養人・岩瀬忠震
まず岩瀬本人の軌跡の前に……。
2018年大河ドラマ『西郷どん』で、橋本左内はこう断言しておりました。
「幕府は無能」
確かに、幕末ドラマ等では、度々こんな風に描かれますよね。
江戸末期の幕府が無能だったからこそ、不平等条約に調印してしまい、明治以降も何十年も苦しむことになった。
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多かれ少なかれ、歴史の授業ではそう習うハズです。
が、果たしてそう言い切れるでしょうか?
ここで見てみたいのが、“史実”の橋本左内が構想していた一橋派のメンバーです。
有力大名(幕末の四賢侯)を中心に、デキる人物を登用したもので、
・川路聖謨(かわじとしあきら)
・永井尚志(ながいなおゆき)
・岩瀬忠震←本日の主役
の三人は全員が幕臣(幕府の家臣・旗本と御家人)です。
しかも、ドラマではなく、史実の西郷隆盛が、その見識の深さに心酔したという橋本左内のアイデアです。
明治維新のメンバーから見ても、彼らが十分に有能な人物たちであったことは間違いないでしょう。
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外国人も「愛想がよく教養に溢れた」と評す
日米修好通商条約の締結については、以下のことを考慮する必要があるのではないでしょうか?
1.そもそも幕臣以外に交渉可能な人物がいたか?
2.領事裁判権(外国人犯罪者を日本で裁く権利)を得たとしても、当時、諸外国の法律や慣例を知らない日本人が、適切に裁くことができたのか?
3.外国との貿易を始めるにあたり、適切な関税自主権を日本で判断できるのか?
明治政府の元勲となる人物たちも、嘉永6年(1853年)の黒船来航当時は「穢らわしい異人どもに、この国を好きにさせてよいものか!」とイキリ立っていたに過ぎません。
自分たちが本気で条約交渉に臨む責務もないので、ある意味、無責任に攘夷などを掲げられた一面もあったでしょう。
他の大半の大名たちも「なんとか先延ばしにできませんかね~」と現実逃避したり、朝廷の人々は、そもそも開国の意味すらわかっていない。
要するに、幕府官僚しかマトモに外交を担えなかった状況です。
そして、そんな中で彼らはベストを尽くしました。
明治維新が成し遂げられなかったら、日本も植民地にされていたかもしれない――ではなく、もしも幕府官僚が本当に無能だったら、植民地にされていた可能性がある――とも考えられるハズです。
岩瀬は、そんな幕臣の中でもトップクラスの交渉センスを持ち、相手の外国人からは、「彼こそが日本で出会った中でも最も愛想の良い、教養にあふれた人物」と言われたのでした。
前置きが長くなり申し訳ありません。岩瀬本人の軌跡を見て参りましょう。
旗本、部屋住みの身だった
岩瀬は文政元年(1818年)、江戸で生まれました。
父は旗本の設楽貞丈。
母は林述斎の娘。
岩瀬はその三男でした。
「設楽」という姓にピンと来た方もおられるでしょうか。
彼の先祖は「長篠の戦い」が行われた「設楽原」に居住しており、この戦いにも参加していました。
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岩瀬は天保5年(1834年)、旗本・岩瀬忠正の養子となり、終生部屋住の身分となります。
当時の旗本というのは、実際、あまりやることがありません。
「無為の日々」といってもよいような、ノンビリとした青年時代。
しかし学業には秀でており、当時トップクラスの教育機関「昌平黌(しょうへいこう/別名・昌平坂学問所)」で学問を続けていました。
昌平黌は、外国奉行と関係の深そうな蘭学のカリキュラムとは無縁です。
岩瀬も伝統的な儒学を学んでおり、勝海舟や福沢諭吉のように西洋の学問に通じていたワケではありません。
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確かに、学業は優秀で、ユーモアに富み、頭の回転は抜群。
ただ、それでも当時の日本人としては、ちょっとデキる程度であり、勝海舟のように早くから注目されてもいない。
そんな彼も、黒船来航で運命が激変するのでした。
老中・阿部に抜擢される
嘉永6年(1853年)、ついに黒船が来航します。
そこで老中首座・阿部正弘が行ったのは、適材適所の人材登用。
そのお眼鏡にかない「海防掛目付」に抜擢されたのが、岩瀬でした。
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無為の日々から抜け出した岩瀬は、阿部の期待に応えるべく張り切ります。
外国奉行、つまり外交官としてデビューを飾った岩瀬の胸には、使命感だけではなく、ドキドキワクワクした好奇心が湧いてきました。
元々柔軟性が高く、知識の吸収に貪欲な人物です。
日本の多くの人がイライラとした思いを攘夷にぶつけようとする中、岩瀬の心は弾んでいたのです。
外交官デビューはプチャーチンとの交渉
アメリカのペリー艦隊が日本に訪れると、他の諸国も沸き立ちました。
ロシアはじめ、多くの国が日本の開国を待っており、このチャンスを逃したらいかんと派遣してきたわけです。
ここで誤解されがちなのが、『欧米列強は、日本を植民地にしたかったのでしょう?』という勘違いです。
そうではありません。
彼らの目的は、あくまで交渉や貿易です。
当時のヨーロッパも、植民地経営の【メリット】【デメリット】を事前によく検討しておりまして。
『ともかく何がなんでも欲しい――』と暴れていたのは、出遅れたベルギーのレオポルド2世ぐらいです。
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そしてロシアから日本にやって来たのがプチャーチンでした。
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彼には過去、長崎を訪れ、通商交渉の末に退去を命じられた苦い体験があります。
にもかかわらずアメリカが日米和親条約を結んだのですから、黙って見過ごすわけにはいきません。
再び来日したプチャーチンは、幕府に頼み込みました。
「下田で船を作りたいのだが、どうにかならないだろうか?」
船が故障してしまい、乗組員を含めて妻子を滞在させねばならない――という見過ごせない状況ではあるのですが、幕府としてもロシアの敵国を刺激したらまずいとグズグズ。
そこで岩瀬は、進言します。
「軍艦じゃなくて、民間船なら大丈夫じゃないすかね。だいたい、日本から出て行け、けど船を修繕しちゃいけないって、無茶じゃないですか。幕府はそこまで冷たくないでしょう」
幕府も、確かに有能な者ばかりではありません。
硬直しがちな幕閣の中で、岩瀬の英断は光るものがありました。
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