近藤勇/Wikipediaより引用

幕末・維新

近藤勇は新選組で何を成し遂げたかった?関羽に憧れ「誠」を掲げた苦闘35年

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近藤勇
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幕末は大志を抱くものの時代

千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず――。

才能がある人材はいつもいるけれども、それを見抜く人(伯楽)がいるとは限らない。そんな意味です。

前述の通り、智勇に自信をつけた青年たちは、どうすればこの才知を誰かに認められるのか?

当時まだ一青年であった近藤勇に、そんな嘆きを噛み締める出来事が起こります。

幕末という激動の時代の中、天然理心流は伸びゆく力でした。

所詮は「べえべえ」と訛る田舎者の剣法、“肥溜め道場”と陰口を叩かれながらも、江戸の牛込柳町に道場を開いたのです。

幕府も、激動の最中に無策だったわけではありません。

血統や伝統だけではない斬新な人材を登用し、幕政を刷新すべきであると考えていました。

幕末に抜擢された人材とは、慣例を打ち破る力を持っていました。

その代表例が、勝海舟です。

貧しい旗本の子に過ぎなかったものの、提案した政策が目に留まり、老中・阿部正弘が大抜擢をしたのです。

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年号が嘉永から安政に変わった1854年、「講武所」が開かれます。選ばれた武士を勝海舟らが鍛える、画期的な軍事教練機関でした。

自分もこの講武所に選ばれるのではないか? そう期待していた近藤でしたが、実際は不採用。いかに武勇に優れていようとも、身分の壁に当たったのか、それとも別の理由か。

世に出る機会に恵まれず、試衛館に集まる血気盛んな者たちと共に「異人を斬ろう!」と気炎を上げる近藤。されど現実にはそのチャンスは無し……。

幕末の「志士」と言いますと「維新」と紐づけられ、結果的に倒幕した側のみのように誤解されがちです。

しかし実際は多くの「志士」がいました。

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近藤勇と似た関東の豪農出身の青年だって熱く滾っておりました。

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なんだか暴発しそうで、危なっかしい。幕末から明治にかけては、こんな人物が時に危険な状況をも生み出したものです。

幕末を語る言葉として「尊王攘夷」があります。

倒幕した側が掲げたような誤解がありますが、それは正しくはありません。幕府を守る、将軍に忠誠を誓う立場の者でも掲げておりました。

攘夷の非を早くから悟っていた者は、極めて少数です。

近藤勇もそんな一人。彼の和歌を見てみましょう。

事あらばわれも都の村人と なりてやすめん皇御心

何かあれば上洛し、天皇のために尽くすという志がそこにはあります。

 

浪士組を京都に送りこめ

大志を抱く者をどうするか?

結局は使いようだろう。燃えたぎる連中に首輪をつけてうまいこと利用すれば、ものすごく大きなことができるのではないか――。

幕末においても、そう考える知恵者も出てきます。

安政3年(1856年)に講武所剣術世話係として採用されたのが山岡鉄舟です。

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鉄舟は翌安政4年(1857年)に、清河八郎と共に「虎尾の会」を結成。当時は大志を抱えたこの手のサークルが多数ありました。

清河という人物は、新選組ファンを中心に、口のうまい詐欺師のような扱いもされてしまいがちです。

が、そう単純な話でもありません。

庄内藩の郷士という、これまた経済力と教養はあっても、身分が伴わない階層の出身者でした。

彼はこう提案します。

浪士組を結成し、山岡を取締としてはどうか?

これが通りました。文久3年(1863年)、将軍・徳川家茂について上洛することとなるのです。

この浪士組に、どうやって試衛館の面々が参加したか?

実は不明点も大きく、例えば永倉新八は、自分が情報を持ち込んだと書き残しています。近藤勇が鈴ヶ森刑場で野犬を斬り払う様子を見て、清河がスカウトしたという説もあります。

動機も不明。将軍を警護したかったのか。あるいはもっと別の何かか? ハッキリとはしません。

当時の青年が世直しに燃え、募集をかければ応じたことこそが、問題の本質ではないでしょうか。

かくして、京都情勢が大きく動き出します。

将軍が上洛するから護衛をさせるというのは、あくまで理由の一側面。文久年間の京都は、三勢力が拮抗する状態でした。

薩摩藩
長州藩
土佐藩

難しい状況でした。

幕府が開国論議に天皇と朝廷を引き込んで以来、政治と権力争いの舞台が京都になりつつありました。将軍がわざわざ上洛するという時点で異常事態であり、幕府としては巻き返しをはかりたい。

ここが清河の策のうまいところです。

幕府の思惑を受けて浪士を集め、自分が目指す尊王攘夷の手駒とする。それに気づいた幕府が、浪士を江戸に呼び戻す。

しかし、近藤勇と芹沢鴨の一派が京都に残った。

こういう流れで説明され、それはそれで間違ってはいないのですが、実情はもっと複雑なものがあります。

浪士組は上洛したものの、江戸に帰ろうとする。なぜ、わざわざ上洛したのか?

文久2年(1862年)、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)にて【生麦事件】が発生していました。

薩摩藩士の犯行であり、イギリス側は同藩に対して犯人の引き渡しを要求。その際、いくつか誤解が生じました。

◆イギリス側が求めたのは実行犯

→しかし、薩摩側は国父(藩主の父)である島津久光、藩主・島津忠義の身に危険が及ぶため譲歩できないと考えた。

その結果が【薩英戦争】となる。

→関東諸州は、治安悪化を警戒する。

幕府は関八州の大名・旗本に対し、いつでも合戦に対応できるよう非常宣言を出した。

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将軍が京都にいては、関東がどうなることかわかりません。

くどいようですが、当時は智勇を身につけた者たちが全国規模であふれており、どのエリアも火薬庫状態なのです。

幕末とは、黒船来航による外圧によって危機感を募らせた時代であった――。

確かにそうかもしれませんが、それだけでもない。

フランス革命が起こった18世紀末期とは、世界史的にみて激動の時代でした。黒船来航は確かにその流れを加速させたとはいえ、世の中が変わりつつあったのです。

身分秩序の変動、経済体制の限界、不安定な治安……。

もはや幕府は抑えきれない状態なのに、朝廷を政治に引き込んだことにより、事態はさらに複雑化していました。

変革の時代の申し子たる近藤勇は、家茂が東帰となると、老中の板倉勝静の元にまで押しかけ、反対意見をきっぱりと述べます。

そして浪士組たちを、冷静な目でみつめていました。

「なんと軟弱な連中なのか。来たと思ったら、すぐに東帰を言い出すとは! 国家の大事もわからぬ、軟弱な者ばかりである。旗本八万旗というが、勇敢な者なぞ一人もおらぬではないか……」

こういう胸中を、きっちりと漢文で残しているのです。

豪農の三男坊が、これほどの自信、教養、勇気、そして国家への幻滅と世直し願望をたぎらせている。

まさしく幕末の象徴でしょう。

新選組は幕府を守るために戦ったため、保守的で頭が固いと思われがちです。

義にあつく、誠を掲げ、思想はなく、ただただ素朴に生きていたようにも誤解されやすい。

そうではなく極めて政治的で革命的、智勇と大志を抱いた集団であった――この点を意識せねばならないのではないでしょうか。

近藤勇の考えるビジョンは【公武合体】。

幕府と朝廷が一致して、国難に当たっていくことを考えていたのです。

こうして思想面に注目していくと、芹沢鴨一派の暗殺と放逐、長州藩士を粛清した理由も見えてきます。

 

浪士組から新選組へ

文久3年(1863年)が終わるまでに、近藤勇一派は浪士組を変えました。

その象徴が、芹沢鴨と一派の排除。

そして長州藩出身者の粛清です。

新選組の歴史を考えるうえで、厄介な状況があります。

新選組とは、明治維新を成し遂げた側にとっては野蛮で凶悪な宿敵であり、フィクションでその像が増幅され、実像が分かりにくいものがありました。

永倉新八らが新聞記者の取材に応じて記事になったこともあれば、彼自身が証言を残してはいるものの、断片的な像しかわからなかったのです。

新選組のことを知るには、生存者が絶える前にせねばならない――そんな思いがあったのか、新聞記者であり作家であった子母沢寛氏が聞き取り調査を行い、まとめあげました。

その著作は現在においても重要であり、一読の価値はあります。

ただ、問題点がないわけでもありません。

証言は生々しいものの、断片的な情報となってしまいます。

隊士のおもしろエピソードや性格は確認できますが、心の奥底に隠していた思想や策略まで表に出てくるわけではない。

こうした断片的な情報をもとにして、司馬遼太郎はじめ、多くの作家がフィクションを作り上げてゆき、それが読者にとっての史実として定着することとなるのです。

芹沢一派の暗殺や隊士の粛清は、血湧き肉躍り、かつサスペンス要素のあるエンタメとして消費されます。

他の隊士記事でも取り上げましたし、扱われることが多いので、ここは近藤勇の思想を考えてゆきたいと思います。

近藤一派は、思想をまとめあげねばなりません。

思想に着目すれば、芹沢鴨ら水戸藩が排除される理由はわかってきます。

水戸藩は、徳川家定の死後に生じた【将軍継嗣問題】において、一橋派として団結していました。

この結びつきが【桜田門外の変】の背景にあります。

水戸藩の尊王思想の強さは、徳川斉昭の子・慶喜が将軍になってからも、幕末の政局に影響を与えました。

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長州藩も尊王を掲げており、その特徴としては朝廷との結びつきの強さがあげられます。

公武合体を掲げている近藤からすれば、朝廷側だけにバランスが傾きすぎることは避けねばなりません。将軍と幕府の権威を守るためにも、将軍家茂の東帰に断固反対し、建白をしているのです。

近藤勇にとっては、清河八郎のみならず、他にも己の意に背く者たちがいました。

話し合いで解決できれば、それに越したことはありません。が、時代は急旋回している最中。近藤らが上洛する前から、攘夷の嵐が吹き荒れる京都は暴力が解決手段でした。

志のある浪士が集まる。

しかし、思想的に一致しない。

ゆえに、暴力で排除する――。

実はこの傾向は明治維新以降も長く引きずられ、【不平士族の反乱】というカタチでも噴出しています。

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廃刀令への反発や武士の誇りといったものではなく、当時の日本人は、暴力による解決という禁断の味を覚えてしまっていました。

政治家の暗殺もそうした手段の現れでしょう。

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比較的治安が安定していた頃の一揆を例示し、日本人はデモする時でも大人しいとする意見も見かけますが、そう話は単純でもありません。

江戸時代中期あたりまでがむしろ例外。

江戸時代後期から明治大正にかけては、暴力的な解決手段が荒れ狂った時代です。

新選組や近藤勇だけが特別だったわけではなく、一つの典型例でした。
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