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【孝明天皇】
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不都合な史実
孝明天皇というのは、幕末史を語る上において、重要であるにも関わらず、不都合な存在です。
長州藩はじめ、尊王攘夷派は、自分たちは天皇のために働いていると掲げていました。
しかし、事実は逆です。
彼らの過激な行動は孝明天皇の意志からはほど遠いもので、かえって天皇の不興を買っておりました。
徳川慶喜の行動は徹頭徹尾自己利益への誘導であり、孝明天皇への忠義は感じられません。
松平容保は、胸をはって自分こそが孝明天皇への忠義を果たしたと言える資格があるかもしれません。
しかし、彼の天皇への忠義は、幕府の権威低下を招きました。
むろん、彼が意図したものではないでしょうが、徳川家への忠誠心第一であったはずが、どこかで何かを間違えた可能性は否めません。
孝明天皇へ忠義を尽くした結果、会津のみならず奥羽を巻き込む戦乱を招いたとも考えられでしょう。
確かに、彼にとって【義】を曲げることは考えられなかったことあります。
そしてその【義】がもたらした、主に東北の混乱と荒廃について、強く本人に追及するのは酷というもの。
彼の後半生は、慰霊と悔恨の日々であったのですから。
実は長いようで短い150年
後世の我々が声高にしても詮無きことですが、幕末に置いて孝明天皇の意見は無視することが正解でした。
日本が窮地を切り抜けるためには、攘夷というその悲願は避けるしかありません。
幕末の政治史において尊ばれたはずの存在は、誤った思想ゆえに、障害となっておりました。
このあたりが、日本の近代史を学ぶうえで、最大の障害になっているのではないかと思うのです。
明治維新とは、天皇を掲げた戦いでありながら、先帝の意志は無視して突き進んでいる――そんな矛盾があります。
1868年から、長いようで短い152年が経過しました。
孝明天皇の意志を尊重すべきだったか?
よりよい国作りを尊重すべきだったか?
それぞれに正義のあった明治維新の残響は、未だ消えていない気がしてなりません。
加筆:宸翰(天皇直筆の書状)と御製(天皇が詠んだ和歌)
時は流れて、明治31年(1898年)。
かつて会津藩の家老であった山川浩は、肺結核が悪化し、死の床にありました。
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「健次郎、あどのごどは、にしに託した……松平家のこどを頼む。それと、なんとしても殿の汚名を……雪がねばなんねえ……あれを必ず世に出すんだ、頼んだぞ……」
「あんつぁま、あどのごとは任してくんつぇ」
浩は、弟の健次郎に、会津藩の名誉回復を託しつつ、息を引き取りました。
享年54。
こうして、山川健次郎は兄の跡を継ぎ、主君・松平容大(かたはる)の世話をする家政顧問となりました。
そこで山川が直面したのが困窮です。
子爵の家とは名ばかりで、みすぼらしい暮らしぶり。援助しようにも、山川にも金はありません。
仮に金が入っても、みな会津復興のために使ってしまいました。戊辰戦争以降、金銭的に余裕があったことなど一度もありません。
山川家がいよいよ困った時に頼る手段はカンパです。
が、朝敵の家を庇う人などおらず、どうにもうまくいきません。
「なじょしたらよかんべ……」
そう悩んでいた山川の脳裏に、打開策がひらめきます。
山川は松平邸に、長州出身の陸軍中将・三浦梧楼を招きました。
三浦は長州藩出身ですが、藩閥政治には批判的。
かねてより、山川兄弟とは気が合う人物です。
「昔はいろいろなごどがありました。兄の浩は、会津が京都で何をしていだが、まどめておりやして」
「あの頃は、お互え、えろいろあったね。わしは、会津の君臣が一矢乱れず行動いちょったことに、感銘を受けちょったもんじゃ」
「んだなし。実は、先ほど申した本には、容保公が先帝から賜った宸翰(天皇直筆の書状)と御製(天皇が詠んだ和歌)を載せようと思っております」
「まさか、そねえなことが!」
三浦はそう言い、絶句しました。
「信じていただけねえのでしたら、ご覧になっていただきましょう」
山川は主家から、宸翰と御製を借りてきました。
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それこそ、容保が肌身離さず身につけてきた、竹筒の中身であったのです。
【宸翰】
堂上以下陳暴論不正之所置増長付痛心難堪
下内命之処速ニ領掌憂患掃攘朕存念貫徹之段
仝其方忠誠深感悦之餘右壱箱遣之者也
文久三年十月九日
堂上以下、暴論をつらね、不正の処置増長につき、痛心堪え難く、内命を下せしところ、速やかに領掌し、憂患をはらってくれ、朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠、深く感悦の余り、右一箱これを遣わすものなり
【意訳】朝廷で、暴論を展開し、不正な処置を行い増長する者がおり、朕は胸を痛め、耐えがたいほどであった。密かに命をくだしたところ、速やかに処置して、心痛のもとを追い払ってくれた。朕の思いを実行してくれて感謝している。そなたの忠誠には感激した。この御製を感謝の気持ちに贈るものである
文久3年十月九日
【御製】
たやすからざる世に武士(もののふ)の忠誠の心をよろこひてよめる
・やはらくも 猛き心も 相生の 松の落葉の あらす栄へむ
・武士と 心あはして 巌をも つらぬきてまし 世々のおもひて
【意訳】この大変な時勢において、武士の忠誠を喜び詠んだ歌
・公家の柔らかい心も 武士の勇猛な心も 根は同じ相生の松のようなものです 枯れぬ松葉のように ともにこれからも栄えてゆきましょう
・武士と心を合わせることで 岩のように堅い状況も打破できるはずです 今味わっている辛い気持ちもいつかよい思い出となるでしょう
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