緋色の陣羽織を着た松平容保/wikipediaより引用

幕末・維新

斗南藩の生き地獄! 元会津藩士たちが追いやられた御家復興という名の流刑

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
斗南藩
をクリックお願いします。

 

会津藩 厳しい御家再興への道

会津戦争から1年2ヶ月後。

会津藩士に嬉しい知らせが届きます。

松平容保(かたもり)の子であり、生後間もない松平容大(かたはる)を藩主として、奥羽に3万石で会津藩の再興を許す――。

そんなお達しが下されたのです。

松平容大/wikipediaより引用

滅びた会津藩の再興となれば、うれし泣き必須。

しかしその背景には、会津藩への思いやりだけではない裏事情がありました。

敗北後の会津藩の領地には、駐留する西軍兵士がおりました。

彼らの態度は傲慢そのもの。これに怒った幽閉中の会津藩士が脱走し、駐留西軍兵士を襲撃する事件が多発していたのです。

これをどう対処するか?

アイツら、自分の殿様にしか従わないしな――。

ということで元の殿様に登場していただき、一家揃って会津から追い出そうとしたんですね。

しかし、減封の幅が28万石から3万石ですから、どう見たって無理があります。

餓死者も避けられない。

それでも御家再興は喜ばしい。

揺れる彼らに提案された候補地は、会津からはるか北にある【三戸郡・北郡・二戸郡】(現在の青森県)でした。

「なじょしてそっだ北になるだ! 会津から離れたら、殿様の墓守りもできねえべした」

会津藩士の町野主水らは、この決定に激怒しました。

 

猪苗代か? 南部か?

実は、3万石ならば、うってつけの土地がありました。

会津藩の猪苗代です。

この町は、もともと城下町の若松に次ぐものです。

それというのも、藩祖・保科正之を祀る「土津神社」や代々の藩主墓地があるのです(磐椅神社公式サイト)。

江戸城に本丸がない理由
なぜ江戸城には天守閣がない?大火後に再建されなかった理由がナルホド

続きを見る

名君と知られる藩祖・保科正之が、徳川秀忠の子だったために許されたのか。「一国一城令」の違反になりかねない猪苗代城まであった土地です。

徳川秀忠
徳川秀忠(家康の三男)関ヶ原の遅刻は冤罪か?二代目将軍の実力まとめ

続きを見る

その猪苗代にすればいいのに、なぜ青森県の斗南(となみ)になったのか。

昨今のネットでは、その理由を

「会津藩の首脳部がマヌケだったから」

「会津藩の民の反抗が激しくて、猪苗代を選べなかったから」

なんて囁かれたりもするようです。

しかし、本当にそうなのでしょうか?

確かに会津藩が京都守護職になって以来、増税が続きました。

戊辰戦争に巻き込まれた民が、一揆を起こした、とされています。

ただ、この話はそう単純なものではありません。

会津藩士の死骸から刀剣を盗んで売り払った民が、他の住民から白眼視された話。

白虎隊士を、命の危険を冒してまで民が救った逸話もあります。

白虎隊の生き残り・酒井峰治『戊辰戦争実歴談』が生々しい!愛犬クマ可愛い

続きを見る

そもそも、猪苗代にやって来た会津藩の上層部が、民にあっさりと殺される可能性があったのか?

それを考えてみるべきです。

実は彼らには、猪苗代を選べない別の理由がありました。というのも……。

 

激論! どこで会津藩を再興する?

そもそも会津に駐留していた西軍は、会津藩士の襲撃に悩んでおりました。

鬱陶しい会津藩士を、第二の都ともいえる猪苗代に残したところでどうでしょうか?

根性を出せば、スグにまた反乱されかねない。

そう懸念して当然です。

一方の会津藩士たちも、とにかくは御家復興が大事なワケです。

そこで東京組の会津藩家老たちは話し合いました。

山川浩(25)

広沢安任(やすとう・40)

永岡久茂(30)

「会津の猪苗代サいだら、薩長どもから反乱を起こすつもりかと、疑われちまうべした」

「んだんだんだ!」

これがまず、第一の論点でした。

明治政府は初期の頃、不平士族の反乱に悩まされました。

維新サイドの土地でもそんな状態ですから、会津藩士を地元に置き続けるなんて危険視されて当然です。

不平士族の反乱
不平士族の反乱まとめ(佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱・西南戦争)

続きを見る

もうひとつ。
幕末にロシアやフランスまで見た山川浩には、こんな考えもあったことでしょう。

「会津には海がねえ。海がありさえすれば、都合のいいこともたくさんあるべや!」

山川浩
まるでマンガ! 元会津藩士・山川浩の西南戦争は凄まじき戊辰リベンジ

続きを見る

海がない――。

実は会津藩士が幕末で痛感した弱点、それが海でした。

最近は原発のイメージからでしょうか。

福島県には海があると一緒くたにされがちですが、会津藩は内陸。

それゆえ薩摩藩や長州藩のように海外事情に通じることもできず、ましてや海軍力となる戦艦を持つこともできず、貿易による収入増も見込めなかったのです。

この結論を、おそらくは山川自身も悔やんだはずです。

広沢安任としては、この土地を通過した経験だけはあったようですが、それでも知識が充分と限ったわけではありませんからね。

広沢安任/wikipediaより引用

現在のように、インターネットでGoogleアースを参照できるわけでもない時代。

そのあたりは察しましょう。

しかも若松県知事・四条隆平も、早く南部へ移住するよう急かしていたとか。

一方で町野ら会津在留藩士は、東京組に大反発。

実は猪苗代か南部かで揉めたのは、藩士同士だったのです。

ついには永岡と、東京まで押しかけた町野は、刀を抜き放つところまで争ったほど。

両者は譴責、謹慎処分を受けましたが、この闘争の結果、友情も芽生えたとも言います。

かくして南部地方が会津藩士の新天地となりました。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-幕末・維新