三島通庸/wikipediaより引用

幕末・維新

「鬼県令」と呼ばれた三島通庸~元精忠組メンバーだった薩摩藩士の生涯

2015年の大河ドラマ『花燃ゆ』に登場した楫取素彦(かとりもとひこ)。

初代群馬県令(現在の県知事)を務め、ヒロイン美和子の夫である彼は、高崎から前橋へ県庁を強引に移転したため地元に大きな禍根を残したのですが……。

ドラマでは、それがばっさりカットされておりました。

群馬県民が「美化もいい加減にせいよ」と反発するのも自然な反応であり、こうした例は他にもあります。

というか、維新の敗者たちの地で薩長県令らの横暴は幾例もあり、その中でも最たる人物が【泣く子も黙る】と言われた鬼県令。

薩摩の三島通庸(みちつね)です。

以前私は、福島県出身の方にこう言われたことがあります。

「福島県はいつまでも戊辰戦争のことを引きずっているなね言われますけど、そうじゃないですよ。三島ですよ、三島」

なんでも福島のある地方では、先祖代々「三島県令は酷かった」と語り継がれてきたというのです。

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それを補うような話が2013年大河ドラマのヒロイン新島八重にあります。

彼女は、夫・新島襄の体調管理をあまりに厳しくしたため、からかい半分、襄からこう呼ばれました。

「三島総監」
「三島巡査」

つまり、三島という名が当時から悪名高かったというわけです。

しかも、です。

この三島通庸、薩摩出身で元は【精忠組】のメンバーでした。

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要は『西郷どん』の大久保利通らと関係が深いだけでなく、その息子・三島弥彦は、2019年大河ドラマ『いだてん』にも登場したのです(生田斗真さんが演じました)。

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フシギな縁で繋がった鬼県令。

一体、三島通庸とは、どんな人物だったのでしょうか。

※文中の記事リンクは文末にもございます

 

激しき薩摩武士道の宿命に生まれる

通庸は天保六年(1835年)、三島通純の長子として鹿児島城下に生まれました。

土方歳三福沢諭吉と同年であり、激動の幕末を駆け抜けた志士の一人。

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そんな三島家は、代々、鼓(つづみ)をもって島津家に仕えておりました。

こう書くと風雅なイメージがあるかもしれませんね。

しかし三島自身はゴリゴリの薩摩隼人です。

殺人剣の薬丸自顕流を修得し、伊地知正治に兵学を指南。家は貧しい下級藩士の出でありながら、三島家は極めて真面目な一家でした。

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通庸もまた、厳しい冬でも熱心に鼓を拍ち、感心されていたと伝わります。

薩摩自顕流の稽古では、海江田信義と同じ小野道場で学んでいました。

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決闘の末に少年を殺害し、切腹に処された弟

少年時代の三島は、不幸な家庭環境でした。

嘉永6年(1853年)、ペリー来航の年。弟・伝之丞が、郷中仲間の一人から侮辱されたのです。

「やーい、太鼓(てこ)打ち、太鼓打ち」

三島家の家伝である鼓を馬鹿にされたわけです。

薩摩隼人がこんな侮辱を許せるわけもなく、伝之丞は決闘の末に少年を殺害。その処分として、切腹に処されたのでした。

なんとも凄まじい、薩摩武士道です。

父・通純は、我が子の死のせいで精神に異常を来してしまい、やむなく三島は父の幽閉という決断を迫られます。

通庸自身も、郷中仲間に侮辱されたことで一触即発となりました。

彼の所属していた上之園郷仲は、後に人斬り半次郎として恐れられる中村半次郎桐野利秋)をはじめ、薩摩隼人の中でも特に血気盛んな者が揃っていたのです。

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通庸自身のケンカは、なんとかその場は収まったものの、このままでは相手を殺し、弟に続いて切腹という羽目になってしまう。

周囲は慌てました。

そこで通庸が相手と接触しないよう、隅之城で3年間、謹慎生活を送ることになったのです。

あまりに悲しい青春時代でした。

 

「精忠組」の一員として

黒船が来航してからというもの。

薩摩藩の若手藩士たちは、政治改革の望みを抱き、大久保利通を中心として【精忠組】を結成します。

三島も、これに加入しました。

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そして文久2年(1862年)に起きた、幕末で屈指の惨劇。

寺田屋事件】にも連座して謹慎処分を受けております。

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それだけでなく田中河内介殺害にも関わっていたとされたり。

【鳥羽・伏見の戦い】を皮切りに、薩摩藩兵の一員として東北各地を転戦したり。

武勇での実績を着実に積み上げていきました。

そして明治新政府が成立すると、大久保の同志であった精忠組の仲間たちは、維新の功労者として引き立てられることとなります。

明治4年(1871年)。

六等出仕(奉任官)として、東京府庁入り。

銀座煉瓦街のミニチュア(江戸東京博物館)/photo by Electroliner wikipediaより引用

通庸の、新政府官僚としてのキャリアがスタートしました。

彼はまず、東京銀座の煉瓦街の建築等に関わりました。

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