岩倉使節団

岩倉使節団/wikipediaより引用

幕末・維新

岩倉使節団って実はトホホでお粗末……だから明治政府は分裂した?

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イギリスで大金紛失「世間に対してなんといわくら」

その後、一行は、アメリカからイギリスへ渡りました。

ここでも無駄に長引く部分があり、もっと計画的にできなかったのかとツッコミたくなります。

例えば、ヴィクトリア女王に面会しようにも、女王はスコットランドで休暇中で全然会えない。

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彼ら王族がスコットランドで長いこと休暇を取るのは、英王室の慣習なんです。

このイギリス滞在中に大久保利通が、財務の大切さを痛感したというのも驚きです。

実は明治政府、廃藩置県くらいまでしかビジョンがなかったのです。

軍事や警察のように【武士好みの改革】は薩長も前のめりでしたが、財務については

「そんな商人みたいなことやってられるか!」

と言わんばかり。

福井藩出身の由利公正に任せきりのうえ、彼が失敗するとすぐクビにするという無責任ぶりでした。

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しかも、金銭についてはもっと差し迫った危機が迫ります。

使節団が預金していたブールス銀行が破綻。

2万5千ドル、千両箱にすれば25箱が消えてしまったのです。

伊藤博文のように宵越しの金は持たない系の遊んでばかりの者は、被害なし。

生真面目に預金していた者ほど、被害甚大でした。

この事件、長州藩出身、高杉晋作の従弟にあたる南貞助が大きく絡んでいました。

日本人と西洋人の国際結婚第一号(のちに離婚)でも名を知られた人物です。

ロンドン留学後、ブールスという銀行マンに協力を要請されたのですが、その内容とは、

「きみの母国の使節団のお金、是非預からせてくれんか」

というものでした。

日本人留学生の南に頼まれ「欧米では現金を持ち歩きません」という言葉にコロッと騙されたのです。

しかも、このブールス、どうも怪しげな男で、はなかっら金を奪う気マンマンだったようで……。

日本国内は、薩長政府への怒りが滾るようになります。

薩長中心の使節団が、長州藩出身留学生の口車に騙され、大金をドブに捨て。

アメリカで条約にミソをつけられた話に続き、イギリスではこの始末。

しまいにはこんな強烈な狂歌が詠まれました。

【狂歌】条約は 結び損ない 金とられ 世間に対して なんといわくら

留守政府では、ただでさえ不平士族の反乱に頭を抱えているのに、使節団がこの調子ですからね。

後に明治政府と対立する西郷隆盛江藤新平らの台頭や不満も、ジワジワと募っていくのでした。

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このあと使節団は帰国どころか、ヨーロッパやアジアを歴訪。

帰国後の明治政府は、かなり大変な状況に追い込まれます。

確かに使節団は、実りはありました。

しかし、それだけではありません。

 

西郷の征韓論、そして明治政府は

使節団の派遣期間は、明治4年(1871年12月23日)から明治6年(1873年9月13日)。

政府を揺るがす「明治六年政変」は、使節団の帰国直後に発生します。

実は、留守を守っていた西郷隆盛は、このころストレスで精神がかなり傷ついておりました。

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迷走する使節団に、世論は激昂。

それを受け止めて、精神がガタガタでも、おかしくはありません。

この西郷が、板垣退助とともに練り上げたものが、「征韓論」でした。

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しかし帰国した使節団は、征韓論を却下。

派遣中は国家の大事を決めぬようにしていた「十二ヵ条の約定」を持ち出します。

確かに西郷の「征韓論」は、おかしなところがあります。

西郷が、朝鮮半島で死ぬことを覚悟していたとしか思えない点が、最大のものです。

自ら決意を示すことで道を切り開いていた西郷。朝鮮側に殺害されることで、攻め込む口実を探していたと思われても、仕方ない部分があります。

実は西郷は、使節団とは異なる危機感に焦っていました。

旧幕府が滅びたのは西洋に阿(おもね)り、東洋としての自覚や誇りを捨てたと信じていました。その西郷からすれば、使節団の派遣だけでなく、西洋にあまりに媚びる明治政府が、東洋の美徳を捨てようとしてるように見えたのです。

このまま西洋に阿るならば、国は滅びてしまう――そんな危機感が西郷を突き動かし、西南戦争での滅亡にまで駆り立てたのでしょう。

薩摩の二大英雄、西郷隆盛と大久保利通。

この二人は、使節団の派遣前から「アラビア馬」の台頭に危機感を抱いていました。

西郷は、彼らと別れ国に残りました。

一方で大久保は、アラビア馬が引っ張る使節団という馬車を制圧することで、国を動かす手綱を握ろうとしました。

西郷と同じ年には、長州の英傑であった木戸孝允も死去します。

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使節団という馬車に乗ることを選んだ大久保こそ正しかった――そんな結論が出たかのように思えますが、その大久保も、西郷の死の翌年(1878年)、暗殺者の凶刃に斃れます。

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岩倉具視は、使節団のリーダーでありながら、西洋こそがよいとは流されませんでした。

刺客に襲われても斃れなかったほどの運もありました。

しかし、癌には勝てず、明治16年(1883年)に死去してしまいます。

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東洋的な仁政と、西洋の技術を両立させる――「和魂洋才」の政治的な対立は、彼らの死後、キレイに失われたかのように思えます。

かつて西郷、大久保、木戸、岩倉らが目を光らせていた「アラビア馬」こそが、政府の中心となったのです。

結果、失ったものもあるかもしれません。

西洋に従うだけがやり方ではないという反抗心。

先住民を武力で追いやったアメリカ政府への軽蔑。

西洋文明に驚嘆しつつも、日本は別のやり方があるという意識は、明治が深まるにつれ失われたかのようで。

確かに明治政府は、西洋流を真似て、文明国になったとされています。

それでも、西郷隆盛や岩倉具視が目指したような、東洋の仁政と西洋の技術がかみ合った国がもし成立していたら?

日本史のみならず、世界史も変わっていたのではないかという思いも、どうしても生まれてしまいます。

岩倉使節団は、成功もしましたし、苦い失敗もした――同時に問いを投げかける、そんな派遣であったのです。

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文:小檜山青

【参考文献】
『岩倉使節団という冒険 (文春新書)』(→amazon
『西郷隆盛:人を相手にせず、天を相手にせよ (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon
国史大辞典

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