尾高惇忠

尾高惇忠の生家(左)と当人/wikipediaより引用

幕末・維新

尾高惇忠(青天を衝け田辺誠一)の史実は意外と波乱!富岡製糸場を成功させ

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彰義隊・振武軍に協力するも敗戦

新政府軍を相手にするべく規模を拡大していった彰義隊

「いよいよ決戦か?」と思われた最中に、彼らはまさかの内紛で瓦解してしまいます。

原因は、頭取の喜作と副頭取の天野八郎間に生じた対立で、派閥争いに敗れた喜作は組織を去らハメに陥ったのです。

当然ながら惇忠も離れ、彼らは彰義隊とは別に【振武軍(しんぶぐん)】を立ち上げ、新政府軍との戦いを決意します。

袂を分かったとはいえ、彼らの目的は同じ。彰義隊が交戦状態に入ったという知らせを聞くや、加勢のため江戸へ向かいます。ところが……。

彰義隊はわずか一日で壊滅。

喜作と惇忠は飯能まで兵を引き、この地で再起を図ろうとしました。

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一方、新政府軍はそうした動向を把握しており、惇忠らの振武軍は大軍によって包囲・殲滅されてしまいました。

喜作と惇忠はなんとか生き延びて戦場を離脱できましたが、惇忠の弟・尾高平九郎は脱出に失敗。

逃走中に自害を余儀なくされます。

平九郎は、フランス留学中だった栄一の代わりとして戦場へ赴いていたため、その身代わりとして敗死したという見方もできましょう。

ゆえに帰国後の栄一は『腸がひきちぎられる思い』だったと述懐しています。

この時点で惇忠は故郷へと舞い戻り、喜作は抵抗を続けました。

が、奥州(東北)から旧幕府軍最期の地・箱館まで転戦し、最後は新政府軍に降伏して命を繋いでいます。

それは取りも直さず戊辰戦争の終了を意味しました。

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富岡製糸場の初代所長として活躍

幕末から明治維新へ。

薩長主体の新時代が幕を開けると、栄一は大蔵省に入省し、官営の製糸場作りに乗り出します。

当時、日本産の生糸は主要な外貨収入源ではありながら、粗悪品が多すぎることに政府は危機感を抱いていました。

大蔵省にいた伊藤博文渋沢栄一は製糸場の模範となるべく官営の工場設立を企画。

初代所長として重責を担ったのが惇忠でした。

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彼はまず、お雇い外国人工場のポール・ブリューナとともに用地選定に乗り出します。

様々な場所を見学し、決定したのが養蚕業の盛んな群馬県の富岡でした。

世界遺産としてご存知【富岡製糸場】です。

設計から携わっていた惇忠は、工場に必要な大量の木材を確保するため、樹齢500年とも言われた妙義山の木を、村人に何度も何度も頭を下げて入手するなどタフな活動に勤しみました。

さらに大変だったのが女工の募集です。

当時、工場の首長ブリューナがフランス人でワインをたしなんだことから「西洋人は夜に生娘の生き血をすするらしい」という風評がたっていました。

そのためまるで女工が集まらず困っていたのですが、そこで名乗りを挙げたのが惇忠の娘・ゆうでした。

惇忠がこれを受け入れ、彼女を「女工第一号」に命じると、先の風評はたちまち消えていきます。

しかも、です。

人手に困っているにもかかわらず、あえて「女工は良家の娘限定」と条件を出したところ、たちまち応募が殺到したのです。

かくして操業開始にこぎつけた惇忠は「至誠如神(この上なく誠実なことは、神のように尊いものだ)」を基に、教育者としての才覚を発揮。

・女工たちへの製糸教育

・同時に一般教養の教育

・最先端のホワイト労働環境

というスローガンも掲げて、富岡製糸場で学んだ女工たちが各地の製糸工場に技術を伝達できるまでになりました。

それだけではありません。

養蚕技術の進歩にも貢献し、最新のフランス製機器を存分に活用して質の高い糸を輸出するようにまでなったのです。

富岡製糸場というと「世界遺産」という冠ばかりが目立ちますが、その背景には尾高惇忠の奮闘があったことも忘れてはならないでしょう。

惇忠は明治9年(1876年)末に所長の職を辞すまで、同工場で働き続けました。

 

経営者としての才覚は持ち合わせず?

惇忠の話を聞いていると「富岡製糸場は素晴らしい工場だったんだな」と思われるでしょう。

『女工哀史』などでのイメージから「女工=ブラック」というのも間違いではないですが、この時代はまだそれほど過酷な労働だったわけではありません。

では、富岡製糸場に関する致命的な問題とは何だったのか?

答えは非常に明快で「大赤字を垂れ流していた」ということでした。

確かに労働環境はホワイトで、生糸の質や知識の集積に実績を残したのは間違いありません。

しかし、とにかく儲からなかった。

その理由は大きく分けて3つ考えられます。

・官営なのでそもそも採算度外視

・お雇い外国人たちへの給料がバカ高い

・女工たちの労働環境もホワイトすぎた

惇忠の退任後も富岡製糸場は赤字経営を解消できず、やがて三井家へと払い下げられます。

この頃から経営状態は徐々に改善されていきますが、同時に我々のよく知る「壮絶な女工の労働環境」が生み出されていくのです。

工場を去った後の惇忠は、栄一の誘いで第一国立銀行の盛岡と仙台支店長を歴任。

高い学識に期待して招き入れたようですが、あまり芳しい実績を残すことはできなかったといいます。

金融業と、農業工業では、必要な知識経験が大きく違うため、致し方ない結果かもしれません。

晩年の惇忠は『蚕桑長策』『藍作指要』などの農業書を記し、日本の養蚕・藍作事業の発展に尽力しました。

そして明治34年(1901年)に72年の生涯を閉じています。

以上の点から、惇忠の「教育者・学者」としての姿を評価する声は多い一方、「経営者」としての資質に疑問を投げかける見方も存在します。

「赤字を垂れ流しながらでも従業員や製品にとって素晴らしい工場を造るのがいいのか?」

「スーパーブラックでも儲かる工場が良いのか?」

個人的な考えですが「どっちも不正解」でしょう。

工場を運営する以上は営利の追求も必要ですし、一方で労働環境の整備も不可欠です。

たとえ「絵に描いた餅」だとしても、それを実現化してこそ優秀な経営者と呼ばれるのだと思います。

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文:とーじん

【参考文献】
『朝日日本歴史人物辞典』(→amazon
渋沢栄一記念財団編『渋沢栄一を知る事典』(→amazon
渋沢栄一著:守屋淳編訳『現代語訳渋沢栄一自伝:「論語と算盤」を道標として』(→amazon
鹿島茂『渋沢栄一』(→amazon
事業構造「尾高惇忠と『人づくり』」(→link
深谷市HP「8.渋沢栄一翁と尾高惇忠」(→link
上部絹の道「尾高惇忠」(→link

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