もしも江戸幕府が存続できるとしたら何をどうすべきだったか――。
そんな”if”を考える幕臣たちの、たどり着く答えはいつも同じでした。
「あのとき長州をきちんと潰していれば……」
これは幕府側だけでなく、長州側も意識していたことでしょう。
長州は潰される寸前だった。
まさに首の皮一枚。
そんなところで幕府のオウンゴールで勝てた。
幕末の政局で、さほどに浮沈のなかった薩摩藩と違い、長州藩は佐幕側に徹底して厳しい態度をとり続けています。
なぜそこまで苛烈になったのか。
それまでの状況を考えれば、自ずと見えてくるでしょう。
「もしも幕府のように手を抜いたら、復活して逆襲されるかもしれない」
【長州征伐(長州征討)】であと一歩のところまで追い込まれながら、詰めの甘かった幕府に助けられた長州は、常にそんな恐怖を抱いていたのです。
それはまさに薄氷を踏む、逆転勝利。
一方で、グダグダと腰が砕けてしまい、崩壊へと導かれてしまった幕府。
両者の趨勢が交錯した長州征伐では一体何が起こっていたのでしょう?
※文中の記事リンクは文末にもございます
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まずは5W1Hで長州征伐の概要確認
まずは5W1Hで概要だけスッキリさせておきたいと思います。
【長州征伐の5W1H】 | |
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Who: | 江戸幕府 vs 長州藩 |
When: | ◆第一次 1864年8月24日〜1865年1月24日 ◆第二次 1866年7月18日〜10月8日 |
Where: | 長州藩(周防国・長門国) |
Why: | 長州藩の暴走に激怒した孝明天皇および朝廷が幕府に討伐を頼む |
How: | 結局ろくに戦いもしないまま、不発に終わる。幕府側の自滅 |
What: | 幕府権威の決定的失墜、薩摩が長州と手を組み、討伐へ |
実は当時から、幕臣の間でも
「外国の力を借りてでも長州は絶対に潰すべき!」
という意見がありました。
しかし、海外勢力に助力を求めれば、その後、政治介入を招くリスクもあり、慎重論もありました。
結果を考えれば何が何でも潰しておくべきでしたが、今となっては結果論でしょう。
孝明天皇 長州の横暴に激怒
そもそも、なぜ長州藩は幕府の征伐対象となったのか?
発端は【八月十八日の政変】あたりから議論されてきました。
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禁門の変(蛤御門の変)が起きたのは孝明天皇が長州藩の排除を望んだから
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マトメますと、長州藩が暴走し、偽勅を出しまくったことに対して、孝明天皇の我慢の限界が訪れたのです。
確かに当時の長州藩過激派らは、久坂玄瑞らを筆頭にやり過ぎでした。
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幕末一のモテ男・久坂玄瑞~25才で夭折したのは松陰の遺志を継いだから?
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すでに詳細記事が他にあり、重ねる部分も含めて説明させていただきますと……。
八月十八日の政変で京都を追い出された長州藩は、その後、懲りずに池田屋事件でテロ計画を建てようとします。
そこへ突撃してきたのが新選組であり、永倉新八や土方歳三などが大活躍。
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永倉新八こそが新選組最強か? 最後は近藤と割れた77年の生涯まとめ
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続けざまに長州藩は天皇を強引に連れ出そうとして【禁門の変】に発展、ほどなくして長州征伐へと追い込まれるのでした。
すべては長州藩の暴走行為が影響しております。
特に孝明天皇の怒りはひどく、元治元年(1864年)正月、参預会議で長州征討も決定されました。
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孝明天皇の生涯を知れば幕末のゴタゴタが超わかる~謎に包まれた御意志
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しかしこの計画は参預会議の崩壊と共にお流れになってしまいます。
この辺のグダグダ感は以下の松平春嶽の記事でご覧下さい。
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松平春嶽(松平慶永)幕末のドタバタで「調停調停調停」だった生涯63年
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そして同年7月、八月十八日の政変によって都を追われていた長州藩過激派は、武力による解決を目指し、結果、敗北します(禁門の変)。
よりによって御所を砲撃するとは、とんでもない行為です。
生来が生真面目な会津藩は、孝明天皇の意志をくみ取り、絶対に長州藩が近づかぬよう、ガードを固めたのでした。
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