原田左之助

幕末・維新

新選組十番隊組長・原田左之助は幕末をひたむきに生きた青年剣士

漫画『るろうに剣心』で、主人公・緋村剣心と共に戦う人物がいます。

相楽左之助――。

明るく漢気にあふれた彼の名前、幕末に生きて散った二人の人物から取られていました。

◆相楽総三(赤報隊長)

原田左之助(新選組・十番隊組長)

近藤勇土方歳三沖田総司などの幹部でもなく、永倉新八斎藤一のように明治を生き抜いたわけでもない。

それでも「馬賊になった」という伝説があるほど人気者だった快男児・原田左之助。

本稿では、慶応4年(1868年)5月17日が命日である原田左之助に注目してみたいと思います。

 

お好きな項目に飛べる目次


左之助は苦み走ったいい男

原田左之助といえば、トレードマークがあります。

それは腹部に走る横一文字の傷痕(きずあと)。

要は、切腹未遂による痕でした。

現代人からすれば、一体何なのかと不思議に思えるかもしれません。

しかし、時代は江戸です。

梅毒が「花柳病(=遊郭で罹る遊び人の病気)」とされるような価値観があり、切腹の痕も、こんな風に褒められるものでした。

「すげえじゃねえか! あいつァ、生きるか死ぬかの喧嘩をするほど鉄火肌ってことでぇ」

江戸っ子の鉄火肌。人情。オラつき。

火事と喧嘩が華であり、火消しに喝采を送る庶民にとっては、むしろ大絶賛する傷跡だったのです(以下は江戸の大親分・新門辰五郎に関する記事となります)。

新門辰五郎
偉大なる親分・新門辰五郎~慶喜に愛された火消しと娘・芳の生涯

続きを見る

腹部の傷がアピールできるのは、当時の服飾事情も影響しております。

ご存知の通り、江戸は高温多湿です。

露出が高く、過ごしやすさを求めた江戸っ子の知恵でした。

例えば当時の写真をご覧いただくと、次のような様子が見てとれます。

・幕臣や旗本、武家の奥方であっても、着付けはかなりゆるい

・乳房がいやらしいという意識が希薄であることもあり、女性だろうとギリギリ限界まで胸元をはだける

・飛脚、職人、足軽ともなれば、夏場や労働時は褌一丁でも問題なし!

訪日外国人は見た驚いた!幕末ワンダーJAPANの文化・風習・生活とは

続きを見る

現代人にとって、夏場の無駄毛処理といえば女性の手足や脇の下のものというイメージがあります。

江戸時代はそうではありません。

モテを気にする男性は、尻の割れ目周辺の無駄毛処理に気を使っていました。

当時の下着は褌(ふんどし)。

裾をはだけるにせよ、褌だけで歩くにせよ、無駄毛があればこうなります。

「キモっ! 褌で歩く江戸っ子なのに、無駄毛ボーボーとかありえなくない?」

イケてる男は尻まで気遣う必要があったんですねー。

はい、江戸っ子の無駄毛処理事情はこのへんまでとしまして、原田の傷痕。

腹部まであらわにした足軽中間で、腹部にうっすらと切腹のあと……これがどんだけイケてるか!

「マジで? マジでやばくない? 見た目だけでなくて漢気まであふれているとかすごくね!!」

江戸の娘がうっとりする。男だってお友達になりたい。

そんな無茶苦茶かっこいい存在――それが原田左之助でした。

原田左之助は、容貌についてこう言われております。

「苦み走ったいい男でねえ……」

今となっては「小股の切れ上がったいい女」と並ぶ謎めいた表現ですが、ともかく以下のような評判でした。

・シブい、凛々しい、美形である

・無口でとっつきにくいようで、慣れてくると人情味がある

・なんか頼りがいがありそう

映像表現ですと、東映仁侠もの、ヤクザ路線でしょうか。

鶴田浩二さん、高倉健さん、菅原文太さんあたりが典型例とされております。

 

史実でもハンサムでとにかくモテる。俳句も好きで、アパレル店員だったこともあった――典型的なイケメン・土方歳三。

土方歳三
土方歳三35年の生涯まとめ~生き急いだ多摩のバラガキが五稜郭に散る

続きを見る

フィクションにおける沖田総司のような、儚げな美青年路線。

沖田総司
沖田総司は新選組の最強剣士か?享年27で夭折した一番隊組長の生涯

続きを見る

そんな二人とはタイプが違い、シブくてイケてる男。

本稿では原田左之助の生涯を見ていきます。

 


松山藩の足軽

原田左之助は天保11年(1840年)、松山藩の城下・矢矧町(現・松山市緑町)で生まれました。

新選組で仲が良かった永倉新八のひとつ歳下。諱は忠一と言います。

永倉新八
永倉新八こそが新選組最強か?最後は近藤と割れた77年の生涯まとめ

続きを見る

身分は中間――武家の身分でも最下層の足軽でした。

大名行列で槍を捧げ持ち、挟み箱(長柄つきの箱)を運んでいる姿をご想像ください。

 

左之助は安政2年(1855年)、江戸三田藩屋敷で小使として働くこととなりました。

帰国して若党をつとめたこともありますが、気が荒かったのか、その3年後の安政5年前後には出奔。このとき、止めようとした相手の武士と揉めております。

どうやら相手は、こういう挑発をしたようです。

「腹の切り方も知らぬ下劣な輩めが」

そこで原田は「切腹の作法くらい知っている」とばかりに、腹を切ってアピールしたのでした。

腹部をかっさばいて死ぬとなるとなかなか難易度が高く、そのため介錯人がいるわけですが、だからといっていきなりやらかすのは相当のものです。

前述の通り、これが切腹の痕として残り、カッコいいアピールポイントになったのですから、当時の感性は興味深いものがあります。

「俺の腹は金物の味ってもんを知ってんのよ。“死に損ね左之助”たぁ俺のことよ」

「マジパネエな……左之助はよぉ!」

と、こうなったわけですね。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-幕末・維新
-,

×