奄美大島での西郷隆盛

西郷の流罪先となった奄美大島

幕末・維新

奄美大島へ流罪となった西郷はどんな生活を送ったか?狂人と呼ばれて

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奄美大島の西郷
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【黒糖地獄】への目線

奄美大島は、薩摩藩によるサトウキビの搾取に苦しんでいました。

【黒糖地獄】と呼ばれるほどの圧政を、西郷が目にしなかったはずがありません。

木場伝内に宛てて、「砂糖惣菜買入制」の状況について、詳細なレポートを書き送っています。西郷がこの制度を観察し、記録していたことがうかがえるのです。

元治元年(1864年)には、制度の問題点を指摘し、改善案をあげています。

その内容は以下の通りです。

代官以下の島役人は、人選をしっかりと行うこと。賞罰もきっちり行うべきである。

大島の「正余計砂糖」(生産税から上納糖と鍋代をひいたもの)を現在は無償で取り上げているが、他の島と同じく代金を払うべき。その方が島民のモチベーションがあがる。

茶・煙草・木綿と、砂糖を交換する際の比率を公正にし、不正をしてはならない。

木綿と砂糖交換の際は、木綿を今より値下げすべき。南の島とはいえ冬は寒く、島民は木綿を必要としている。

砂糖車(砂糖搾り器)の金属製の輪が高すぎる。あまりに高いため木製の輪を使っているため、効率が下がっている。藩の利益にもならないから、金属製の輪の値段を下げるべき。

砂糖を入れる樽に中身の量を書けば便利だ。

こう書いてくると、西郷はやっぱり優しい、島民のために制度改革を提言しているのだ、と思うかもしれません。確かにそういう一面もあるでしょう。

しかし彼は、島民よりも藩の利益や効率を追求していたのではないかとも思えます。

幕末の政局において、薩摩藩の原動力となったのは経済力。

西郷が敬愛する島津斉彬の代には【大島・喜界島・徳之島から沖永良部島・与輪島まで】黒糖専売の範囲が広がっておりました。

名君として知られる斉彬ですが、西洋流の改革には大金がかかります。

その資金はどこから出てきたのか? と言いますと、領内での増税分や、島々への専売の拡大にからでもあったのです。

薩摩から見れば名君でも、島の人からすれば別の見方があるということです。

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西郷の成し遂げた倒幕も、豊富な軍資金がなければできたかどうかは不明です。

その背景には交易があり、その品目にはサトウキビがありました。

心優しい西郷が、島民の生活改善を訴えたというストーリーは確かに魅力的でしょう。

ただ、それ以上に斉彬の影響を強烈に受けた薩摩藩士として、藩を第一に考えていたのは当然のことでした。

 

「大島商社」で黒糖地獄の延長戦

この西郷の姿勢を裏付ける話があります。

明治4年(1871年)。

西郷は、薩摩の盟友・桂久武にある計画を提案しました。

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当時、西郷は政府の筆頭参議でした。

にもかかわらず政府の砂糖勝手販売(自由売買)を批判し、専売商社を作ることを着想。

薩摩藩の圧政から逃れた島民を商社の元で管理し、砂糖売買を独占しようというのでした。

なにも西郷は私腹を肥やそうだなんて考えてはおりません。貧窮した薩摩の士族を救うためです。

が、島民からすればたまったものではない。

そもそも、こんな計画が政府に発覚したら相当危険なものです。西郷自身もそのことを意識しており、目立たぬようにすべきであると、桂久武に指示しております。

政府の中枢にありながら、政府を欺こうとする――。

西南戦争へと続く政府との断絶は、征韓論の前から、既に始まっていたことを感じさせますね。

この強引な計画は、言葉だけでなく実行にも移され、明治5年(1872年)には「大島商社」が設立。

厳しい搾取が始まり、奄美大島からは何度も陳情団が鹿児島県へと向かいました。

が、彼らの嘆願は聞き入れられません。

それどころか投獄・拷問されることすらありました。

西南戦争が始まったあとは、不運な陳情団の人々が、強制的に従軍させられたことすらあったのです。

そして明治12年(1879年)に「大島商社」が解散されるまで。

西郷による、士族を救うための【黒糖地獄 延長戦】が行われていたのでした。

 

「敬天愛人」と言うけれど

天を敬い、人を愛する、崇高な人類愛――。

「敬天愛人」とは、西郷隆盛を最も端的に表す言葉の一つですね。

ところが、です。

奄美の人に対する姿勢や「大島商社」の行動を考えると『西郷は本当に人を愛していたの?』と疑問を覚えませんか。

振り返ってみれば、西郷隆盛にとって鹿児島の士族、情けをかけた庄内藩士らは「人」の範疇に入りました。

しかし、薩摩藩が一段下の存在と見なしていた島民は別です。

西郷にとって彼らは「けとう」であり「えびす共」でした。

「人」ではなかったのです。

ただし、これは西郷一人の問題ではありませんし、そのことを責めたいという話でもございません。

1789年にフランスで「人間と市民の権利の宣言」が議会によって採択された際、「人間と市民」に含まれていたのは、あくまでフランス人男性のみでした。

女性や有色人種が「人間と市民」に含まれるまでは、長い紆余曲折がありました。

19世紀後半、自国の男性だけを人間扱いしたからといって、それはある程度仕方のないことかもしれません。

ただし。

フィクション作品等で、西郷を「島の恩人」であると過剰に描くのは問題があるかもしれません。

そうなると島の方々から反発されても、仕方の無いこと。

そもそも西郷隆盛の功績は「奄美大島の救世主」とムリに作り上げるより、もっと他にふさわしいものがあるでしょう。

フィクション作品は、そちらにより強い光を当てたほうが無難な気がするのです。

皆さんはいかがお考えでしょうか。

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文:小檜山青

【参考文献】
箕輪優『近世・奄美流人の研究』(→amazon
国史大辞典

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