篤姫(天璋院篤姫)

篤姫(天璋院篤姫)と13代将軍・徳川家定/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末に薩摩から将軍家へ嫁いだ篤姫ってどんな人?47年の生涯まとめ

薩摩藩主・島津斉彬の子として育てられ。

公家の養女として、十三代将軍・徳川家定の妻となり。

幕末の動乱では、故郷の薩摩が、嫁ぎ先の徳川幕府を倒す――そんな波乱万丈な人生だったことでお馴染みの篤姫

鹿児島生まれだけあって、就寝前にお酒を飲んでいたなんて話もありますが、実際は、どんな女性だったのか?

天保6年(1836年)12月19日に生まれた篤姫の生涯を振り返ってみましょう。

 

薩摩の有力一族から生まれた天璋院篤姫

「篤姫(篤子)」という名前になったのは養女になったときです。

実はその後に「敬子(すみこ)」と改名していいるのですが、記事中では「篤姫」で統一させていただきます。

篤姫の初名は「一(かつ)」と言いました。

大河ドラマでも「一、と書いて“かつ”」という台詞が何回か出てきていましたので、ご記憶の方も多いかもしれません。2018年の『西郷どん』では「於一(おかつ)」と記されておりましたね。

実父の島津忠剛(ただたけ)は、島津家家臣のうち最上級とされる「一門」の一員。

今和泉(いまいずみ)島津家の五代目当主でした。

これまたドラマでは

「御台所になるには身分が低すぎる」

とさんざん言われていましたが、それはあくまで将軍家から見た話です。

世間的な彼女の立場は立派なお姫様であります。

ただ、後述する大奥でのふるまいからすると「深窓のお姫様」ではなく、武家の女性としてシッカリした考えを持っていたようですね。

そんなお姫様の篤姫ですが、もしも彼女が今和泉家にずっといた場合、おそらくや家中の重臣である誰かと結婚していたでしょう。

しかし、当時の特殊な事情により、彼女の運命は大きく変わりました。

将軍・徳川家定(1824-1858年)と、その周辺に複数の問題があったのです。

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将軍家安定のため正室に男児が欲しい

大きな問題は2つありました。

一つは、家定自身が病弱だったこと。

生まれつきのことですから誰が悪いわけでもありませんし、手を打つのも難しいところ。

二つめは、家定が迎えた正室が立て続けに亡くなっていたことです。

将軍の正室である「御台所」は、公家の五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)から迎える慣習がありました。

五摂家とは、摂政関白に就ける藤原一族の中でも断トツTOPのエリートで、家定もそのようにしていたのですが、最初の御台所が若くして亡くなり、二人目も同じような経過を辿ってしまいます。

そして、この時点で次の将軍候補が確定していなかったことも、大きく影響しました。

ただでさえ天災の多い江戸時代

将軍の正室が不在、かつ正式に後継者が決まっていない――というのは幕閣や大名だけでなく、社会不安を引き起こすには充分過ぎる事態です。

解決方法は二つです。

家定に新たな正室を迎えて、男子が生まれることを祈ること。

もう一つは、息子ができないならできないで、早めに徳川家の血縁者から次期将軍を決めること。

では現実的にどうだったか?

言わずもがな「将軍の息子が生まれ、そのまま後継者になる」ほうが望ましい話です。

儒教がほぼ全ての行動基準になっているこの時代、実子がいるのに養子を迎えて跡を継がせるようなことはほとんどありません。

江戸幕府でも、六代将軍・徳川家宣

「私の息子(七代・徳川家継)は病弱だから、御三家の中から養子を迎えて将軍職を継がせたほうが良いのではないか」

と考えたことがあります。

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しかし、当時の幕臣たちが

「実子がいるのに養子を迎えるのは筋が違います。私どもがしっかりとお支えしますので、家継様の将軍継承は問題ありません」

と大反対し、家継が後継者になった……ということがありました(結局、家継が幼いうちに亡くなったため、紀州家から徳川吉宗が入って八代将軍になります)。

いずれにせよ幕府としては、より安全を期するためどちらの道も取れるように準備をしておきたいところです。

 

側室・お志賀の方は性格に難アリで

「江戸時代なんだから、側室をいっぱい用意すればいいじゃん」

そう思った方もおられるかもしれませんね。

たしかに家定にも、お志賀の方という側室がおりました。

と、この彼女の性格が問題だったのです。

お志賀の方はとても独占欲が強く「御台様のところへ一度行ったら、自分のところには二回来てくれなければ嫌だ」というほどでした。

正室である御台所が相手でもそんな調子なのですから、もしも篤姫が側室となって対等な立場ができてしまった場合、お志賀の方がどのような暴発をするかわかったものではありません。

大奥は女性同士の抗争のイメージが強いですけれども、それと同じくらい怪奇事件というか、怪談の類も多いところですし……。

そんなわけで、家定が側室を増やすのは難しく、新たに御台所を迎える他ない状況だったのです。

通常ならば、上記の通り、公家の五摂家から適当な年頃の女性を……となるところですが、これまでの家定の正妻2名が既に亡くなり、彼女らが公家出身だったこと、そもそもこの頃の五摂家に条件の合う姫がいなかったことから、人選が難航。

武家の中から選ぼうにも、ヘタをすると選ばれなかった大名から反感を食らいます。

仮に、元々は親戚である松平姓の人々であっても、同じだったでしょう。

そこで、薩摩に白羽の矢が立たったのです。

十一代将軍・家斉の正室が、ちょうど島津重豪(しげひで)の娘・茂姫(しげひめ)だったことから、

「島津家の姫なら前例があるし、大丈夫だろう」

ということになりました。

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ちなみに茂姫のときの婚姻は、家斉が将軍になる前だったため、当時は問題視されることはありませんでした。

家定の頃は、島津家の姫以外に選択肢がなかったともいえます。

 

薩摩藩主・斉彬に適切な娘がおらず分家から

ただ、話を持ちかけられた島津家のほうでも若干困りました。

なぜかというと、ときの島津藩主・島津斉彬(なりあきら)の子女で無事に育った者が少なく、家定と合う年頃の姫もいなかったのです。

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そこで分家まで探した結果、篤姫が適当であると判断されます。

なお、斉彬の父と篤姫の父が兄弟なので、いとこ同士で養父・養女の間柄になっています。

まぁ斉彬と篤姫は27も歳が離れているので、文字通り親子のような年齢差でしたが。

養女になった後、篤姫は斉彬の下で、お妃教育ならぬ御台所教育を受け、嘉永六年(1853年)8月21日に鹿児島を出立し、陸路で江戸へ向かいました。

大河では海路を取ったと描かれていましたが、それは収録後に「篤姫は陸路で江戸へ行った」という史料が見つかったからです。

そして江戸の薩摩藩邸で改めて教育を受けた後、安政三年(1856年)に形式上は右大臣・近衛忠煕の養女となってから、江戸城へ輿入れします。

このとき西郷隆盛が色々と準備に活躍したという話があり、『西郷どん』の原作でも同シーンが出て参ります。

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ちなみに、この薩摩藩邸で篤姫を教育し、側に仕えた老女を幾島(いくしま)と言います。

大河ドラマ『西郷どん』では斉藤由貴さんが演じる予定だった役で、ドタバタの末に南野陽子さんに決まった人物ですね。

幾島は「女丈夫」とか「心たくましく肝が太い女性」等と称された女性で、生まれは薩摩、京都生活も長く体験しており、その先、江戸で心細くなるであろう篤姫の側に仕えるのにピッタリな方でした。

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こうした経緯によって篤姫は肩書上は「五摂家の姫」となり、将軍御台所にふさわしい身分になったわけです。

茂姫も、夫の家斉が将軍になってから、形だけ近衛家の養女になっています。

その後は斉彬の意向で、次期将軍に水戸家出身の徳川慶喜を推す……はずでした。

しかし、篤姫自身が慶喜の資質に疑問を感じたようで、決して二人の関係は良好ではなく、家定の後継者は紀州家の慶福(後の徳川家茂)になります。

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この辺の政治的な話は上記の記事にお譲りして、この先は、篤姫の日常生活を少し覗いてみましょう。

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