楠本イネ

楠本イネ/wikipediaより引用

幕末・維新

父はあのシーボルト~楠本イネが日本初の女医として歩んだ茨の道

文政十年(1827年)5月6日は、後に日本初の女医となる楠本イネの誕生日です。

母が日本人女性で、父は外国人男性。今では珍しくもありませんが、当時は、外国と交流をほぼ絶っていた江戸時代の日本です。

では、なぜイネが誕生したのか?

理由はシンプル。彼女の生地は長崎で、母・滝が、出島に出入りしていた遊女でした。

おそらくやイネの他にも、同じような出自の子供はいたでしょう。

しかし、イネの場合は父親の職業がその後の運命に大きく影響します。

なぜなら、その父とはフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト

すなわち「鳴滝塾」を作ったあのシーボルトだったからです。

※以下はシーボルトのまとめ記事となります

シーボルト
シーボルトは生粋の親日家? あの事件から30年後に再来日していた

続きを見る

 


楠本イネの父・シーボルトは地図の持ち出しがバレ

シーボルトは、当時長崎のオランダ商館所属の医師として働いており、そこで滝と出会っていろいろあった結果、楠本イネが生まれたのでした。

二人はイネをそのまま放り出したりはせず、自分の家に引き取っていたので、きちんと家族として認めていたようです。

しかし、イネが物心つく前、2歳のときに悲劇が起きます。

シーボルトの一時帰国の際、日本の地図を持ち出そうとしたのが幕府にバレ、再入国禁止処分になってしまったのです。

いわゆる【シーボルト事件】であります。

シーボルト事件
シーボルト事件に巻き込まれて獄中死した高橋景保が不憫でならない

続きを見る

地図を持ち出したらマズイ理由は至極単純。国防上の観点からです。

戦争をするとき、地形というのは非常に重要になってきます。

中国の儒学者・孟子も「天の時、地の利、人の和」が重要であると説いていますね。

「日頃の行いが正しければ自然と国は治まるモンだから、戦なんてする必要ないんだけどね」(超訳)

なーんて言っておりますが、まぁその話は置いておきましょう。

大きな山を回りこむように動けば敵に悟られずに背後を突くことも可能ですし、海でもまた同じようなことがいえます。

というわけで、そもそも国防のために鎖国状態を続けていた幕府としては、外国人による地図の持ち出しというのは厳罰にすべき事柄だったのです。

シーボルトは「そんなつもりじゃなかったんです。日本がどんな国なのか、故郷の人にも広めたくて」と言いましたが、そんな言い訳は通用しませんでした。

 


混血児ゆえに普通の幸せは望めない!?

そうしたシャレにならないうっかりのせいで、イネは父としばらくの間、別れ別れになります。

シーボルトも、幼い娘と情を交わした相手のことは気がかりだったのでしょう。

医学の弟子達に二人の生活を面倒見てくれるように頼んでから日本を後にしました。

楠本イネの母・滝の肖像画/Wikipediaより引用

帰国後もたびたび滝とイネへ文物を送っているので、いつか再会するつもりだったはずです。

その中にはオランダ語の教本や医学書も含まれていました。

もしかするとそれらは弟子達に宛てて送ったものだったのかもしれませんが、これがイネの人生を決めるきっかけになります。

混血児ゆえに周囲から冷たい視線を浴びることもあったイネは。

「普通の女性と同じように、結婚したり家庭を持つことはできない」

そう考えていたようで、本から医学やオランダ語を学び始めたのです。

それまでも女性の助産師(いわば”産婆さん”)はいました。

が、解剖学まで学んだのはイネが日本で初めてだといわれています。

師の一人には、大村益次郎もいます。

大村益次郎
靖国神社で銅像になっている大村益次郎(村田蔵六)って何者なんだ?

続きを見る

シーボルトの門下生の一人が宇和島藩の人で、藩主・伊達宗城(だて むねなり)の覚えもめでたく、その縁で益次郎とも知り合ったようです。

宗城は「幕末の四賢侯」とも呼ばれる賢人であり、イネ本人のことも引き立ててくれ、足場が固まり始めます。

幕末の四賢侯

薩摩藩第11代藩主・島津斉彬

宇和島藩第8代藩主・伊達宗城

福井藩第14代藩主・松平慶永(松平春嶽

土佐藩第15代藩主・山内豊信(山内容堂)

そんなこんなで女医としての知識を深めていったイネ。

しかし、ここで思わぬ事件が起きてしまいます。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-幕末・維新
-,

×