勅撰和歌集

『古今和歌集仮名序』/wikipediaより引用

文化・芸術

平安~室町で21回も選定!勅撰和歌集は『三代集』と『八代集』から

日本史を心から楽しめない受験生にとって最悪なのが、とにかくイメージしづらい文化関連。

特に文字モノ(文芸関連)は、いくら字面を眺めても全然アタマにゃ入りはしない。

その最たるケースが【勅撰和歌集】ではありませんか。

今の時代に和歌なんてどうでもええやん!!!

と、声を出しそうになりそうですが、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では源実朝に絡んで取り上げられていますし、編纂の背景などだけでも知っていれば、多少は咀嚼しやすくなってきます。

まずはその概略から見てみましょう。

 


「三代集」「八代集」「二十一代集」

勅撰和歌集とは「天皇の勅命によって、それ以前~当時の和歌を撰(選)んで編まれた歌集」のこと。

平安時代から室町時代にかけて、21回作られました。

以下にリストアップしておきますので、まずは概要を掴んでみましょう。

1 古今和歌集(913-14年)

2 後撰和歌集(957-959年)

3 拾遺和歌集(1005-07年)

4 後拾遺和歌集(1086年)

5 金葉和歌集(1126年)

6 詞花和歌集(1151年頃)

7 千載和歌集(1188年)

8 新古今和歌集(1205年)

9 新勅撰和歌集(1235年)

10 続後撰和歌集(1251年)

11 続古今和歌集(1265年)

12 続拾遺和歌集(1278年)

13 新後撰和歌集(1303年)

14 玉葉和歌集(1312年)

15 続千載和歌集(1320年)

16 続後拾遺和歌集(1326年)

17 風雅和歌集(1349年)

18 新千載和歌集(1359年)

19 新拾遺和歌集(1364年)

20 新後拾遺和歌集(1384年)

21 新続古今和歌集(1439年)

ちなみに、室町時代でSTOPとなってしまったのは、応仁の乱で京都が焼け野原になってしまったため、歌集の編纂をやってる場合ではなかった&古い本が多く失われてしまったからです。

ホント、戦争ってロクなことありません(以下は応仁の乱を簡潔にまとめた記事となります)。

応仁の乱
応仁の乱って一体何なんだ? 戦国時代の幕開け乱戦をコンパクト解説

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勅撰和歌集は古い順から「三代集」「八代集」「二十一代集」と呼ばれ、特に三代集と八代集は重視されています。

八代集までは、小倉百人一首にも採られている歌があるor歌人がかぶるため、どちらかを覚えていれば応用して記憶を広げていくこともできるでしょう。

小倉百人一首の選者である藤原定家が八代集の最後である「新古今和歌集」や、その次に編まれた「新勅撰和歌集」の選者だからです。

定家の生きていた時代からして、それ以降の歌を選ぶことはできないですからね。

受験を意識する方も、だいたい八代集までの順番と代表的な歌人を覚えておけば大体クリアできるはずです。

暗記しにくい項目ということもあってなのか。

ここを押さえておくと苦手意識も払拭され、グッと点数が取りやすくなったりしますので、よろしければ同じ大学を受けない受験仲間サンにも教えてあげてください。

なお、古文では「万葉調」「古今調」「新古今調」が重視されますが、万葉集は勅撰和歌集には含まれないとする見方が強いため、少々注意が必要です。

なぜなら万葉集の成立がハッキリとはわからないため。

今のところ「何人かの天皇や歌人が関与したものを、大伴家持がまとめ上げた」と考えられているので、いずれまた変わるかもしれませんが……まあ、その辺を気にするとキリがないですね。

では、三代集と八代集について簡単にご紹介していきましょう。

1 古今和歌集(913-14年)

2 後撰和歌集(957-959年)

3 拾遺和歌集(1005-07年)

4 後拾遺和歌集(1086年)

5 金葉和歌集(1126年)

6 詞花和歌集(1151年頃)

7 千載和歌集(1188年)

8 新古今和歌集(1205年)

 


1 古今和歌集

勅命:醍醐天皇(在位897-930年)

選者:紀友則(き の とものり)、紀貫之、凡河内躬恒(おおしこうち の みつね)、壬生忠岑(みぶ の ただみね)

最初の勅撰和歌集であるという他にも、多くの特徴を持つ和歌集です。

・4割は詠み人知らず(作者不明)の歌である

・2割は選者4人の歌である

在原業平、小野小町、清原深養父(きよはら の ふかやぶ・清少納言の祖父または曽祖父)など、特に有名な歌人が多い

 


2 後撰和歌集

勅命:村上天皇(在位946-947年)

選者:大中臣能宣(おおなかとみ の よしのぶ)、清原元輔、源順(みなもと の したごう)、紀時文(き の ときぶみ/紀貫之の子)、坂上望城(さかのうえ の もちき)

「選者の歌が入っていない」という点が一番の特徴です。

古今和歌集から40年程度しか経っていなかったので、収録されている歌人も共通点が多く、少々地味というかお馴染みすぎて陰がうす……ゲフンゲフン。

しかし、ここから女流歌人の歌や、皇族や公家の日常生活でやり取りされていた「褻(け)の歌」が増えるなど、時代の移り変わりが感じられます。

ちなみに変わった名前だなぁと思われたのが“源順”でしょう。

「順」の読み方が「したごう」って???と、なったかもしれません。

なお、源氏は源氏でも、中心となる清和源氏ではなく、嵯峨源氏となっておりまして。

この辺の説明は先日取り扱わさせていただきましたので、よろしければ下記の記事をご参照ください。

源氏事情を知っておくと、日本史が色々と楽しくなる場面が増えてきます。

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3 拾遺和歌集

勅命・選者ともに花山法皇(天皇在位984-986年)

「拾遺」の名は「以前の勅撰集に漏れた秀歌を拾い集める」という意味です。

紀貫之を始めとした著名な歌人はもちろん、柿本人麿(かきのもと の ひとまろ)など万葉集の時代の歌人が再評価されました。

また、後撰和歌集に乗っていた歌人の別の歌が多く含まれていたり、身分の低い公家の歌がたくさん収録されているなど、「拾遺」の名にふさわしい選歌がされています。

花山法皇の個人的な好みが強くうかがえるために、長らく日の目を見ませんでしたが、鎌倉時代に藤原定家(小倉百人一首の選者)が拾遺和歌集の価値を広く伝えました。

その関係なのか、小倉百人一首には拾遺和歌集に載っている恋歌が8首採られています。

花山法皇と定家は、歌の好みが似ていたのかもしれませんね。

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