水野忠邦/wikipediaより引用

江戸時代

天保の改革・水野忠邦は野心モリモリ!極度の質素倹約で改革は大ポカ

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今も昔も【改革】ほど難しいものはない。

当コーナーではこれまで江戸の三大改革について
享保の改革
寛政の改革
を見てきましたが、一定の成果を挙げた政策もあれば、ほとんど効果なし――どころか世情を悪化させたものもあります。

特に、もう一つの【天保の改革】については、主導者・水野忠邦の方針がとことんイケておらず、幕府の衰退を招いたフシもあります。

一体どんな内容だったのか?
水野忠邦の生涯と共に見て参りましょう。

 

賄賂を使って出世に励み

彼は元々、唐津藩(佐賀県唐津市)の藩主でした。
そこから幕府の中枢に入るため賄賂を使って転封や昇進を繰り返しています。

客観的に見ると、もうこの時点で嫌な予感しかないのですが、本人はホクホク顔でした。

家督を継いで唐津藩主になったのが18歳で、幕政のTOPである老中首座になったのが45歳ですから、執念のすさまじさがうかがえます。

ちなみに大老というのは臨時職で通常は老中首座が筆頭となります。
その辺は以下の関連記事をご参照ください。

大老・老中・若年寄の違い、ご存知ですか?細分化された江戸幕府の役職

鎌 ...

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ただし、忠邦も単に野心だけの人ではありません。
当時の日本を取り巻く問題が多々あり、特に経済的な改革が必要であることは十二分にわかっていました。

彼が老中首座になった時点では、大御所(11代将軍)だった徳川家斉がまだ存命。
現職である十二代将軍・徳川家慶や幕閣にはほとんど実権がなく、西の丸に住んでいた家斉とその側近たちによって「西丸御政事」という状況になっていました。

そのため、家斉が亡くなる天保十二年(1841年)までの間、忠邦は老中首座の席でヤキモキしていたと思われます。

家斉と家慶は親子仲が悪く、忠邦は家慶に厚く信任されました。

忠邦は現職の将軍という最大の後ろ盾を得て、元・家斉の側近たちを追い出し、いよいよ天保の改革を始めます。

 

東北地方の壊滅的な不作で飢饉が発生した

天保の改革――その本題へ向かう前に、当時社会を取り巻いていた現象をチェックしておきましょう。

国内で大きく懸念されていたのは、なんと言っても1833~1839年【天保の大飢饉】ですね。

1833年に起きた洪水や冷害により、特に東北地方の諸藩で壊滅的な不作。
特に仙台藩では米作への依存度が高かったため、被害が大きくなっています。

また、米作への依存を減らして商品作物の割合を増やしていた藩でも、農民間で貧富の格差が激しくなり、結果、貧しい者から餓死していきました。

力尽きる前に江戸へ逃げ込んだ者もいましたが、幕府が用意した救小屋(すくいごや・現代でいえば災害時の避難所)の定員に対し、100倍以上の人数が救いを求めてきたそうですから、餓死者の惨状も凄まじいものだったことがうかがえます。

収穫される米の量が少ないのですから、当然米価も爆上がり。
百姓一揆や打ちこわしが頻発しました。

これまた有名な【大塩平八郎の乱(1837年)】も天保の大飢饉の影響を受けたものです。
推計では、その影響で日本の人口は92万人ほど減った……とも考えられています。

余談ながら、世界史上まれに見る悲惨さで有名なアイルランドのジャガイモ飢饉も、死者数については天保の大飢饉とほぼ同レベルでした。

なぜアイルランドとイギリスは不仲? 日本人には難しいお国事情をスッキリ解説

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都市部へ農民が流入してきて治安も悪化

天保の大飢饉で生き残った人たち……特に農民の多くは、拾った命を保つために、農村を捨てて都市部へ向かいました。

むろん都市部とて、無限に人を養えるわけではありません。
日雇いの仕事が見つかればまだいいほうで、そこにすら行き着けない人々は、生きるために窃盗などの犯罪に手を染めるしかありませんでした。
よくある治安悪化の流れですな……。

加えて、幕府と諸藩の関係も、決して良くはありませんでした。

というのも家斉が子沢山過ぎたために、あっちこっちの大名家へ養子入りや嫁入りをさせていたからです。

将軍の息子や娘を迎えれば、その家は別格扱いになります。
となると、他の大名にとっては当然面白くありません。

しかも歴史に残るような大飢饉とほぼ同時並行なのですから、不満がたまるのも当たり前の話でしょう。

同時に国外からも、危機が迫りつつありました。

外国絡みの事件が立て続けに起きて

一つ目の騒動が天保八年(1837年)の【モリソン号事件】です。

この当時
【異国船打払令】=「外国の船は片っ端から砲撃で追い払え!」
というトンデモな法律がありました。

モリソン号事件のときは、これが非常にマズイことになりました。
というのも、このアメリカ船は、日本人の漂流民を送還しに来ていたからです。

「漂流民を届けて恩を売って、通称を始めよう」
そんなアメリカサイドの下心もあったようですが……なんにせよ人道的な理由で来航した船を、問答無用で追い払ってしまうのは偏屈すぎますね。

もう一つは、江戸時代後期の話題でよく出てくる【アヘン戦争】です。

1840~1842年に中国で起きた対イギリスの戦争で、幕府や日本は直接関係ありません。
しかし「清の敗北」という結果は大きな衝撃を与えました。

色々と関係悪化や紆余曲折があったにせよ、日本にとっての中国は卑弥呼の時代から「偉大な国」というイメージがあります。

それがあっさり負けてしまったのですから、幕府が「これまでのように、西洋諸国を力尽くで追い払うことは難しい」と考えを変えるのも、ごく自然なことです。

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天保の改革 背景マトメ

少々長くなったので、このあたりで一度スッキリさせておきましょう。

【天保の改革の背景】
・主導者である水野忠邦は、元々野心バリバリの人
・天保の大飢饉で農民も都市部もボロボロ
・大名家は家斉の子女がいるかどうかで贔屓の有無が決まっていた
・モリソン号事件で「西洋の国が日本に通商を求めてきている」ことがわかった
・アヘン戦争で清が負けて「力尽くでは西洋諸国を撃退できない」ことに気付いた

だいたいそんな感じです。
どれを見ても、現代の我々も「ヤバイ」と思いますよね。これ全部とか悪夢でしかありません。

こんな状況の中で、忠邦みたいなやる気満々な人が政治の責任者になったのですから、普通は大なり小なり成功してしかるべきです。

が、結果は前述の通り大失敗。最初に理由を申し上げておきますと、忠邦があまりにも理想主義者だったからです。

彼のモットーは「綱紀粛正・倹約励行・風俗是正で世の中を良くする」というものでした。
しかも彼は「お上」の威光の名のもとに、これらをゴリ押ししまくり、アッチコッチで反感を買いまくります。

中でも厳しく命じたのが
・奢侈=ぜいたくの取り締まり
でした。

 

髪結まで禁止の対象となる

贅沢の禁止は、衣食住をはじめ娯楽などあらゆる面に及びます。
例えば、高価な装身具や女髪結などが槍玉に上がりました。

女髪結とは、現代でいえば女性の美容師のことです。

江戸時代の前半あたりまで、一般の女性は自分で髪を結うのが当たり前でしたのですが、日本髪のバリエーションが豊かになるに従って、自分で結えないような髪型のほうが人気になっていきます。
となると、専門家に結ってもらうのが当たり前になるわけです。

とりわけ遊郭の遊女たちや大きな店の女将なども、女髪結にとって「太い客」でした。大口顧客ですね。

忠邦主導の幕府からすると、これは
「髪なんぞ自分で結えるのに、他人にやらせるとは何たるワガママで贅沢! ケシカラン!!」
となるわけですね。

それで世の中に米が一石でも多く出回るのなら意味もありましょうが、髪型を地味にしたからといって、そんなことが起きるはずもありません。

こうして庶民の生活にまで口を出しまくるくらいですから、もともと派手な業界はさらに激しく弾圧されました。
例えば……。※続きは次ページへ

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