新井白石/wikipediaより引用

江戸時代

新井白石69年の生涯をスッキリ解説!将軍・家宣に引き立てられ、吉宗に追い出され

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学者と政治家――。
明確に線が引かれているようで、その実、行ったり来たりしている2つのフシギな職業。

実は今に始まったことではなく、歴史的必然なのかもしれません。

平安時代の貴族しかり。
戦国時代の僧侶(太原雪斎や安国寺恵瓊)しかり。

『机でのお勉強が、リアル社会でどんだけ使えるんだよ』
と鼻息荒くなる向きもありますが、やはり知識こそが政治や経済政策での武器にもなり得ましょう。

そんな学者の中でも、江戸時代、際立って名を馳せたのが新井白石

新井白石と言えば朱子学。
小中学校の授業では、そんな風に習いますが、彼の生涯となると深く突っ込んだ経歴を見る機会は少なかったように思えます。

本日は、新井白石が如何にして政治の舞台に立ち、消えていったのか。
その足跡を追ってみましょう。

 

祖父の主君は関が原に破れ

新井白石の家は、戦国末期からなかなかの苦労をしています。

白石の祖父・勘解由(かげゆ)は、常陸下妻城主・多賀谷宣家(岩城宣隆)に仕えていました。
しかし、関が原で主君が改易されて自身も浪人となり、そのまま慶長十四年(1609年)に亡くなっています。

そして白石の父・新井正済(まさなり)は、9歳の時に勘解由と死別し、豪農に養われてたと伝わっています。

暫くの間、正済本人はそのことを把握してなかったそうで、13歳のときにそれを知ると江戸に出奔。
当時、流行っていた傾奇者(江戸時代版ヤンキーみたいな人)になっていたのですが、31歳のときに縁あって上総久留里城主・土屋利直に仕えはじめました。

もちろん真面目になり、主君から信任を得て、目付職を務めるまでになっています。
1657年に生まれた白石も、幼い頃から利直に気に入られていたようです。

しかし、利直の跡を継いだ長男・土屋直樹が心身に支障を来したことを理由に、正済は勝手に出仕をやめてしまいました。

そのため、親子揃って藩を追い出された上、
【他藩へ仕えることも禁じられる】
という憂き目を見ることになります。

いわゆる「奉公構(ほうこうかまいorほうこうかまえ)」ですね。

戦国時代の水野勝成が、父親にこの奉公構に処され、豊臣秀吉加藤清正黒田長政など名だたる大名のもとを転々とした話が割と有名かもしれません。

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商売より学問 そして大老・堀田正俊に仕える

奉公構で出されても、白石の名は密かに社交界で知られていたようです。

土屋家を追い出されると、複数の豪商から
「商家の婿養子にならない?」
という話を持ちかけられます。

生活のことを考えれば、この話を受けたほうが良かったでしょう。
しかし、白石はあくまで『学問に生きていきたい』と考えたようで、この手の誘いを全て断っています。

一方、そのころ土屋家では、久留里藩の領主という立場から引きずり降ろされ、一旗本に没落してしまいました。
これにより土屋家からの奉公構も解除され、白石は改めて武家に仕えることができるようになります。

天和二年(1682年)、白石は、当時の大老・堀田正俊に仕えました。

これでやっと順風満帆……といいたいところですが、残念ながらそうはいきません。
白石の責任ではなく、正俊が、親戚で若年寄の稲葉正休に殺されてしまったからです。

原因は未だ不明ですが、当時の価値観だと、この手の事件は
「武士のくせに不覚を取るとは情けない」
と見られ、被害者側もそれなりの処罰を受けてしまいます。

このケースでは、堀田家に対して将軍・徳川綱吉やその他幕閣からの冷たい目が向けられました。

白石としても、せっかく腰を落ち着けられそうだと希望を抱いていたところに水をさされて、さぞ落胆したことでしょう。
しかし、彼の学問への情熱は消えませんでした。

 

「木門の五先生」「木門十哲」の一人に

貞享三年(1686年)、白石は綱吉の侍講(儒学などの師)でもある木下順庵の門下に入り、初めて学問の師を得ることができました。

実はこのときまで師匠と呼べる人がいなかったのです。
ほぼ完全に独学で30歳になるまで勉強をしていたのですから、これはもう根っからの学者気質といえますね。

木下順庵/wikipediaより引用

数年で白石は、順庵の代表的な弟子たちをまとめた呼び名「木門の五先生」あるいは「木門十哲」の一人とみなされるまでになります。

もちろん、師匠にとっても自慢の弟子の一人。
順庵が以前加賀藩に仕えていたため、その縁で白石を紹介しようとしたこともあったようです。

しかし、兄弟弟子の岡島忠四郎が
「加賀に母がいるので、できれば私が行きたい。先生に私を取り次いでもらえないか」
と相談してきたため、白石は加賀行きを譲ったのだとか。エエ話やで……。

当時の加賀藩主は四代・前田綱紀です。
学問や文学を尊ぶ方針を採っており、学者としては得難いタイプの主君でした。

白石も少なからず加賀に興味があったのではないかと思われますが、もしもここで譲らなければ、彼の名は今ほど有名にはならなかったかもしれません。

というのも、この後にやはり順庵の推挙で、甲府藩主・徳川綱豊の侍講になったからです。

 

徳川綱豊が甲府藩主から六代将軍へ

徳川綱豊は、後に六代将軍・徳川家宣となる人です。
つまり、加賀藩に行っていたら、白石が家宣に仕えることもなく、彼が幕政に関わることもなかった……ということになります。

徳川家宣/wikipediaより引用

「残り物には福がある」とは少々違いますが、まぁ、かなり得をしたのではないでしょうか。

そこから綱吉が亡くなり、家宣が将軍位を継ぐまでには数年のブランクがありました。
同時にそれは、白石が家宣から厚い信任を受けるのに十分な時間となります。

宝永六年(1709年)に家宣が将軍になると、白石は積極的に幕政へ意見を出し、その才能と学識を活かそうとしました。
働きも認められ、従五位下・筑後守という官位と、1,000石の領地も貰い、領主の仲間入りもしています。

しかし、正徳二年(1712年)に家宣が死去。
白石の前途に影がさし始めました。

家宣の遺児である七代将軍・徳川家継は幼い上に病弱で、側用人・間部詮房と白石だけではいかんともし難かいものがありました。
他の幕閣からは
「先代将軍の威光を笠に着る下賤の者ども」
という目で見られていたため、政治的にも孤立してしまいます。

そして家継もまた、将軍就任から数年で亡くなり、将軍の座は紀州藩からやってきた吉宗のものに……。

 

1,299日も講義をしていた

吉宗はこれまでの政治で山積みになった問題を一気に片付けるべく、人事にも大胆にメスを入れました。
新井白石も間部詮房も、このとき政治的な力をほぼ完全に失っています。

彼の代表的な著書『折たく柴の記』は、政治から去った後に書かれたものです。

白石は儒学者ではありましたが、日本の文化・歴史、そして西洋の文化にも非常に高い関心を持っていました。
当時の儒学者は漢籍に偏りがちな人が多かったのですけれども、白石は様々な文化や文献を比較することで、新しい見解を生み、それを書き残そうとしたのです。

家宣に対しても、中国の聖人的な君主である堯(ぎょう)や舜(しゅん)のような立派な将軍になってもらおうと、積極的に講義をしていました。
甲府藩主時代から亡くなるまでの間に、なんと1,299日も講義をしたそうです。

毎日していたとしても、ざっと三年半はかかる計算。
家宣はもちろん、政務や行事、儀式などもこなさなければなりませんから、この数字は驚異的なものといえるでしょう。
いかに白石が家宣に期待していたか、家宣がそれを受け入れていたかがわかりますね。

『折たく柴の記』以外で白石の著作物として有名なのは『藩翰譜』(藩譜)でしょう。

史料を元に作ったものではなく、当時の伝聞をまとめたものなので、史料的な価値よりも文学的な価値が高いとされている本です。
とはいえ
「当時、どこの大名家が世間一般的にどう思われていたか」
「資料と比較した際、どのような点に差異がみられるか」
という視点で見れば、全くの無価値ともいえないでしょう。

 

イタリア人司祭ジョヴァンニを尋問

その他、彼の著書は多岐にわたります。
ただし、残っているものはさほど多くありません。

『折たく柴の記』『藩翰譜』の他に注目すべきものを挙げるとすれば『西洋紀聞(せいようきぶん)』と『采覧異言(さいらんいげん)』あたりですかね。

まだ幕政に携わっていた頃、不法入国していたイタリア人司祭ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティを尋問。
白石は、キリスト教とそれに基づく道徳観念については否定しましたが、シドッティから聞いた西洋の文化・学問・地理には大きく感銘を受け、書き残したのです。

尋問というより学問的な話のほうが目的だったようです。

とはいえ、鎖国体制がバリバリだった時期ですから、大っぴらには公表されませんでした。
この二冊が世の中で注目されるようになるのは、白石が亡くなって80年ほど経った1800年代初頭のことです。

白石に関して総じると、
「学者としては極めて優秀だが、政治には向かない」
「あくまで将軍の顧問や学問の師という立場にとどまり、具体的な政策には口を出さないほうがよかったかも……」
という感じですかね。

本当に頭がいい人ほど世間に対して献身的なものですが、うまく噛み合わないと悲劇になル――そんな好例かもしれません。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「新井白石」

 



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