本日は「江戸幕府の中枢にいて多大な影響を与えていたのに、知名度がイマイチ」という珍しい人のお話。
文政十年(1827年)2月20日は御三卿の一つ・一橋徳川家当主の徳川治済(はるさだ)が亡くなった日です。
ただでさえ御三家と区別のつきにくい御三卿の当主ですから、つい最近まではよほどの江戸時代ファンでもない限り、ほとんど知られていなかった人でしょう。
しかし、よしながふみ先生の『大奥』で「怪物」とまで呼ばれるほどの活躍(?)をしたことで、かなり知名度が上がりましたね。
あの漫画はもちろんフィクションではありますが、治済の足跡と同時期の出来事を非常にうまく絡めています。
実際はどんな感じだったのか見てみましょう。
もくじ
四男なのに跡継ぎの座が巡ってきたのは御三卿だから
治済は、八代将軍・徳川吉宗の四男、一橋家の初代宗尹(むねただ)の息子です。
吉宗から見れば孫にあたります。
治済は四男だったため、順当に行けばどこかの大名へ養子入りしていたでしょう。
しかし、兄たちが既に他家の養子になっていたため、一橋家自体の跡を継ぐ人が治済しかおらず、順番が回ってきました。
「自分の家を後回しにしてよその養子になる」というのは不思議なものですが、これは御三卿という家自体がそういう目的で設置されたものだからです。
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そんなこんなで一橋家を継いだ治済は、宗家の跡継ぎが途絶えた場合、充分将軍の位を狙える位置にありました。おそらくこのことが、治済の行動を決めるベースになっていたと思われます。
白羽の矢が立ったのが、治済の息子・家斉(いえなり)だった
実際のところ、八代から十代までの将軍は、徳川吉宗→徳川家重→徳川家治の順でそれぞれの息子に継承。
家治が将軍になった時点で、治済自身が将軍になる可能性はほぼなくなりました。
しかし、家治唯一の男子・家基は若くして亡くなってしまいます。
このとき家治は42歳。
これから子供を授かったとしても、家治が亡くなったとしたら、幼い将軍が立つことになってしまうでしょう。
かつて七代・徳川家継が幼くして位についたとき、熾烈な後継者争いによって幕府の内部が乱れたことは、皆が覚えていました。
かといって、当時の御三家や御三卿の当主が直接家治の養子になり、次期将軍になるというのもなかなか不格好な話です。
同世代間の将軍位継承というのは、異母兄弟である四代・徳川家綱→五代・徳川綱吉の例がありますが、その際は綱吉に男子がいなかったため、やはり後々混乱を招いています。
ややこしくなりましたが、大雑把にまとめると
「家治の跡継ぎは、御三家・御三卿の中で、今後男子をより多く授かる可能性がある若い人」
が理想的だったのです。
そこで白羽の矢が立ったのが、治済の息子・徳川家斉(いえなり)でした。
定信が大反対!上方の事件が影響していた……
家斉は8歳で家治の養子となり、家治死去の後、十一代将軍となります。
そして治済は「将軍の父」として、実権を握ることになるわけです。
家斉が将軍になってから治済が気にしたのは、
「将軍の父であり、実務も十分に行っている自分が、臣下扱いされるのは解せぬ」
ということでした。
そこで「ワシを大御所と呼ぶように」と幕閣たちに要求したのですが、ここで寛政の改革を行って失敗していた、松平定信が大反対します。
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ただ単に政敵だからというのではなくて、上方での事件が絡んでいました。
当時の天皇は、第119代・光格天皇です。
この方は先代の後桃園天皇に嫡子がいなかったため、親王家から養子入り・即位しています。
そして、「父よりも息子が上の位になる」こと、さらに「禁中並公家諸法度により、親王は摂関家よりも下の位である」ことから、「天皇の父が摂関家よりも下の序列になってしまう」という事態を引き起こしました。
光格天皇はこれを不服とし、実父である典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈ろうとします。いわゆる「上皇」のことです。
これに反対したのも、松平定信でした。
「一度も皇位についたことのない方が、上皇と呼ばれるようになるのはおかしい」
という、これはこれでまっとうな理由です。
尊号一件 最後は鷹司と定信で手打ちの調整
しかし朝廷では「徳川さんのほうではそうなっとりますけど、昔はそういうこともあったんどすえ」(超訳)と故事を引き出してきて反論します。
過去に複数例あるものですから、朝廷からすればきちんとした反証でした。
が、定信はあくまで「昔は昔ですし、過去の例は南北朝の動乱時にやむなくしたこと。今は今ですから、徳川の定めた掟に忠実でいただかないと困ります!」と言い張ります。
朝廷からすれば、「東夷(あずまえびす)がなんと図々しい!」としか見えなかったことでしょう。
この静かな戦いは三年経っても埒が明かず、光格天皇はついに辛抱を切らし、
「幕府の意向なんぞどうでもいいわ! 公家の中で、父上に尊号を贈るのに反対な者はおるか!」
と会議を開いてしまい、圧倒的な賛成を得ました。
そして、典仁親王を上皇としてしまったのです。
「このままでは幕府と朝廷の全面対決になってしまう……」
そんな風に憂慮した公家が、典仁親王の弟であり、光格天皇にとっては叔父である鷹司輔平(たかつかさ すけひら)でした。
どうにか幕府に渡りをつけて、事を穏便に収めるべく、定信に連絡。
「私から陛下に上皇宣下を取り下げるようお話しますので、親王の待遇をもうちょっと良くしてもらえませんか」
ともちかけたのです。
しかし、定信は「幕府が政治を預かっているのですから、皇室や公家の処分を決めるのも幕府です」とあくまで譲りたがりません。
結局、上皇宣下の取り消し・何人かの公家と勤皇家の学者に免職・捕縛するかわりに、典仁親王の領地を増やすことで、この事件は解決となりました。
この一連の騒動を「尊号一件」といいます。
テストに出る……かも。
松平定信が追い出された理由は寛政の改革だけじゃない
さて、ようやっと治済に話が戻ります。
尊号一件で「例え朝廷や皇族であっても、敬称をつける決まりに例外はない!!」と強調してしまった定信は、当然ながら治済を「大御所」と呼ぶわけにもいかなくなってしまいました。
もしここで「どうぞどうぞ」と言ってしまったら、朝廷から「お身内には随分優しいですなあ」と言われてしまうからです。
そんなわけで定信は
「大御所というのは将軍位に就かれていた方が名乗るものですから、治済様には当てはまりません」
と言い続けることになります。
これで治済も家斉も完全に敵に回してしまったため、定信は幕府の中枢から追われてしまいました。
「白河の魚の清きに住みかねて 元の濁りの田沼恋しき」
なんて狂歌があるくらい、寛政の改革も成功していたとは言いがたかったですしね。
女好きのバカ殿だったわけではない……と思いたい
定信は白河藩主としては成功を収めているので、領民にとってはよかったかもしれません。
憎き政敵を追い落とした治済は、その後も亡くなるまで豪奢な生活を送りました。
おそらくは、政治へ大いに口を出しながら。
確実に多大な影響を与えているのに、具体的な逸話がはっきり伝わっていないあたりが何とも不気味です。
家斉は子沢山な将軍として有名ですけれども、それほど漁色にふけったのも、父に逆らえないストレスからだったのかもしれません。
家斉は一生のうちに数回風邪を引いたくらいで、めちゃくちゃ頑丈な人でしたから、外出どころか政治すら自分の意志を出せないというのは、相当窮屈に感じていたでしょう。
まあ、「子供をたくさん作って、跡継ぎはもちろん徳川の血筋全体をウチで固めるように」とも言われていたようですが。
「娯楽が少ないと夜頑張る」というのは、現代のあっちこっちの国でも同じです。
家斉がただ女好きのバカ殿だったわけではない……と思いたいところです。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
徳川治済/Wikipedia
尊号一件/Wikipedia