池田光政/wikipediaより引用

江戸時代

池田光政の頭脳明晰エピソード 家康にも愛された2才児は名君に育つ

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突然の転勤で職場が変わる――会社員の方にはままあることで、新しい環境に慣れるのが大変ですよね。

実は、江戸時代の大名たちも、たびたびそういう経験をすることがありました。単語としては「移封」の一言になってしまいますが、規模がデカいので『これは大変だっただろうなぁ』と思うようなこともしばしば。

本日はそれを見事に乗り切った、とある藩主のお話です。

慶長十四年(1609年)4月4日は、岡山藩初代藩主となる池田光政が誕生した日です。

どこの藩でも初代藩主は濃いエピソードを持っていることが多いですが、彼の場合、特に逸話に事欠きません。
なんせ2歳のときの話が残っているくらいなんです。

 

家康もビックリ!脇差し抜いて「本物じゃ」

それは、徳川家康に謁見したときのことです。

光政が2歳のときだと、家康は既に67歳。
豊臣家はまだ片付いていませんが、駿府城に隠居した後という時期でした。

このときの家康はかなりの上機嫌で、光政を膝元に呼んで撫でながら「早く立派になれよ」と声をかけ、さらには脇差を与えるというデレデレぶりだったといいます。

何人かの自分の息子たちにもその優しさを見せてあげればなぁ……(ボソッ)。

まぁ、光政の母が、徳川四天王の一人・榊原康政の娘なので、家康にとっては我が孫のように可愛かったのかもしれません。

驚く……というかコーヒー噴いてしまいそうになるのが、このときの光政です。
なんと、与えられた脇差を抜いて
「本物じゃ!」
と言ったそうで。

いや、いくら何でも、2歳児が脇差をスムーズに抜いた、というのは若干無理があるような気がするのですが。

家康は、笑いながら脇差を鞘に収めてやり、光政が退出した後「あやつの眼つきはただ者ではない」と言ったそうです。おそらくは、この家康のコメントを強調するために脇差とこじつけられたのでしょう。

何はともあれ、こうして鮮烈な公的デビューをした光政。

7歳のときに父の姫路藩主・池田利隆が32歳の若さで亡くなったため、幼くして家督を継ぐことになります。

しかし、翌年「幼いからやっぱダメ」という無茶苦茶な理由で、鳥取藩(32万5000石)に移封されてしまいました。
一度「おk」って言ったのに、幕府ひどすぎ。

天球丸の巻石垣で知られた鳥取城

 

板倉に求めたアドバイスを終生心がけ

こうして年齢一ケタで国替えという困難に見舞われました光政。
家康の見込み通り、彼はただ者ではありませんでした。

十代半ば頃に論語を読んで、民衆への教育の大切さを知ってから、学問を中心として国政を行っていこうと決意します。

また、書物からだけではなく、京都所司代・板倉勝重にアドバイスを求めたり、家臣に「私に至らぬところがあれば遠慮なく申せ」と諫言を推奨したり、人から学ぶことも強く意識しています。

よほど頭の良い人でなければそういった考えは出てきませんし、実行できないですよね。

ちなみに、勝重からのアドバイスは「四角い箱に味噌を入れて、杓子ですくうようにすれば良い」というものでした。

光政が「隅に残った部分はどうすればいいのですか」と質問したところ、勝重は「貴公の藩のように、大きな国で厳重に政をしようとしても、人心がついてきません。寛容な心をお忘れなく」と重ねて助言したとか。

ナルホド。わかりやすい例えで。
光政も、生涯これを心がけていたといいます。

実際、統治は随分苦労したようです。
領地が減っても家臣の召し放ち(辞職)を行わなかったことや、鳥取周辺が歴史的に統一されておらず民心掌握に時間がかかったこと、さらには、城下町の拡大に努めたことが原因ですね。

光政は藩を豊かにするため粉骨砕身働きます。

しかし!
やっと落ち着いてきたところで、またしても転封という……。

叔父の岡山藩主・池田忠雄が亡くなり、その嫡男である池田光仲が3歳という幼さだったので、領地を交換せよというお達しが出たのです。

岡山が31万5000石、鳥取が32万5000石なんですけどね……。
山陽道の要衝である岡山というのが加味されたにしても、やはり幕府の基準がよくわかりません。

そして岡山城へ

 

陽明学から朱子学へ 民衆には質素倹約を

これ以降、岡山藩主は光政の家系になっていきました。

相変わらず財政的な余裕はなかったものの、光政は質素倹約と教育を主軸とした政治を行ってよく治めました。
この方針は「備前風」と呼ばれています。

教育では幕府の推す朱子学ではなく、陽明学(心学)を重視していました。

陽明学では、朱子学が禁じている感情や欲を否定しません。
「感情や欲も、天から授かったものなのだから悪いものではない、それを良い方向へ使う努力をすべきだ」
という風な考えです。

とはいえ、幕府は朱子学を重視していたため、後年には光政も朱子学に移行しています。
ただ単に陽明学を一通りやって、他の学問をしたくなったからかもしれませんね。対立する考えを学ぶのも大きな勉強になりますし、頭の良い人であれば自分の専門分野でなくても興味を持つものですし。

教育関連では、藩校や庶民向けの学校を作り、藩内の知的活動を促進してもいます。

しかし押し付けるようなことはせず、自分の家臣や息子にも強制はしませんでした。「少し真面目に取り組んでみろ」と勧めたり、息子には家臣を通してそれとなく勉学を促してみたり、と、あくまで本人がやる気を出すように誘導していくという方針だったそうです。

その一方で、庶民に対して厳しい倹約を命じています。

例えば、
・神輿やだんじりを用いるような派手な祭りを禁じた
・元日、祭り、祝宴以外での飲酒禁止
・食事は一汁一菜
こんな感じです。

酒を控えさせたために、岡山藩では米がよく育つわりに、光政の存命中は銘酒が生まれなかったとまでいわれるほどです。

とはいえ庶民も盲従するばかりではなく、魚や野菜を飯に混ぜて栄養を補ったとか。
したたかですね。

 

なぜだか衆道は厳しく弾圧

光政は、幕府からも領民からも、概ね良い藩主と思われていたようです。

その理由の一つとして、光政が自ら倹約を心がけ、できる限り下に負担を負わせないようにしていたからだと考えられます。
家臣の給料を借財することはあったものの、百姓にできるだけ負担をかけないよう、年貢を上げることはほとんどなかったといいます。

逸話は後世になってから作られたものも多いといわれておりますが、
「加賀藩の二代目・前田利常が、孫である四代・前田綱紀に対し、お手本として光政の話を聞かせたことがある」
と言うほどです。
決して盛りすぎではない気がしますね。

「火のないところに煙は立たない」ように、全く善行がなければ名君という評判も立たないものです。
おそらく「年貢をあまり上げなかった」ことから名君としてのイメージが強まり、逸話も創作されるようになったのでしょう。

しかし、光政にも欠点というか、よくわからんコダワリがありました。

例えば、なぜだか衆道を毛嫌いしてたことです。

岡山城・城主の間

この時代、衆道は今ほど珍しい話ではなかったのですが、光政は厳しく弾圧しています。

理由はよくわかりません。

光政に稲の品種を見分けることができるほど農業の知識があり、重んじていたことが関係するかもしれません。衆道=男性同士=人口が増えない=人手が増えない=いずれ国力が弱まる、として嫌ったというのはありそうですよね。

「何となくイヤだから」といった漠然とした理由で弾圧するのは考えにくいですね。
おそらく彼なりの理にかなった根拠があったのでしょう。たぶん。

長月 七紀・記

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【参考】
国史大辞典
池田光政/wikipedia

 



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