徳川綱吉/Wikipediaより引用

江戸時代

徳川綱吉って実は名君!暴力を排除し江戸に倫理を広めた犬公方

更新日:

実は徳川綱吉って名君ではなかろうか?

徐々に、そんな見方が広まってきているように感じます。

これまでは【犬を助けて、人の暮らしを不自由にしたバカ殿】扱い。

つまり「犬公方」としての狂気的な一面ばかりが強調されてきましたが、悪名高き「生類憐れみの令」を紐解くと【命の重さ】を広めたとも考えられ、物騒で荒々しい戦国気風と決別したとも考えられるのです。

また、綱吉の時代には赤穂浪士(忠臣蔵)の事件が勃発しており、その際の決断も彼の不人気を決定付けたのではないでしょうか。

現代だからこそ、忠臣蔵の物語などは排除して考えてみたい。

徳川綱吉は本当に暗君だったのか?
それとも名君だったのか?

 

母は八百屋の娘

徳川綱吉という人物はとかく毀誉褒貶にさらされがちです。
それは彼の産まれも影響しているのかもしれません。

母・桂昌院は京都の八百屋の娘でした。

後に綱吉はこの母との関係が密着していると批判されることになるのですが、そもそも当初から綱吉は、父の徳川家光にとって「将軍・徳川家綱の弟」という存在であり、兄の補佐に過ぎませんでした。

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日本では、ヨーロッパの王室とは違って、庶出であっても継承権から外されることはありません。

しかしその一方で「劣り腹」という言葉もありました。
身分の低い女性の腹から生まれた子という意味で、相手を蔑む際に用いられます。父が同じ兄弟でも、母の身分が低ければ劣った存在とみなされるのです。

綱吉という人物を考えるとき、彼の母の身分や、本来は後継者ではなかった――そんな出生のハンディキャップを考える必要があるでしょう。

「あの八百屋の娘から生まれた分際で」
という偏見がなかったとは言い切れないのです。

 

「文治主義」への批判

儒教を重んじ、文治政治を敢行した綱吉。
武力重視の武断政治と対比される言葉で、このこと自体、武士にとって否定すべきものと感じられるものでした。

彼ら武士は、そもそも戦闘こそが本分です。

武器を持ち、戦うからこそ、特権を享受できる。
既に戦国の世は遠くなったとはいえ、刀を帯び、時に暴力的な行為を行うことによって力を示していました。

そんな武士にとって、綱吉の文治主義が疎んじられるのも仕方のないことでしょう。
明治維新後、「廃刀令」に対して不快感と不満を抱く士族が出没しましたが、それと似た不満が綱吉の時代にもあったのです。

綱吉が武よりも文を重んじ、生命を尊重した――。
その代表的存在が「生類憐れみの令」でしょう。

何かと評判の悪いこの法令。
数度に分けて出されたものの総称ですが、犬を極端に愛護するあまり人の命を軽んじたようなものではありません。

むしろ囚人の環境改善や、捨て子を禁止する等、きわめて人道的な部分も多くありました。

詳しくは以下の記事にてマトメておりますので、よろしければご覧ください。

生類憐れみの令は日本人に必要だった?倫理観を矯正した“悪法”に正しい評価を

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『忠臣蔵』という虚構

赤穂浪士事件をモチーフとした『47 RONIN』というアメリカ映画があります。

史実的にはかなり荒唐無稽な作品であり、事件をかなり誇張したものです。

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この作品において吉良上野介は若返り、浅野内匠頭は老人となっています。
しかも浅野内匠頭は温厚で、妖狐の妖術によって惑わされ、斬りつけるという筋書き。

なぜここまで改変されたか?

その理由は推察できます。
史実の赤穂浪士事件は、冷静に考えてみると浪士側にあまり同情できないのです。

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浅野内匠頭長矩は、そもそも素行に問題がありました。
文武の能力や教養にも欠けた青年君主だったのです。

一方の吉良上野介義央に問題がなかったか?というと、おそらくそうではありません。
彼の子・上杉綱憲が藩主となった米沢藩では、吉良義央の贅沢三昧で財政が悪化しています。

米沢藩主の父かつ幕府の要職にある地位を利用し、蓄財に励んでいたことは確かです。

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そうはいっても、人間性で比較すると、おそらく吉良の方がマシ……。
浅野は短気でキレやすく、謎に包まれた刃傷事件も彼の側に問題があったと推察されます。

もちろん吉良の態度も悪かったかもしれません。それは否定しません。
しかし、だからといって暴力、しかも刃傷沙汰に持ち込んだからには、浅野のルール違反は明白でしょう。

『忠臣蔵』のことを忘れて事件を考えてみると、異常でいき過ぎた復讐。

客観的に見れば
【殺人未遂犯の家臣が、被害者の自宅を集団で襲撃して殺害した】
とも言えます。

 

儒学者・佐藤直方は当時から批判していた

当時も冷静に批判した人物がいました。

儒学者の佐藤直方です。
彼の批判を箇条書きでまとめてみました。

・そもそも刃傷沙汰におよんだ浅野側が悪いのに、逆恨みして被害者を襲撃したのはおかしい

・改易に不満があるのであれば、決定した幕府に不満をぶつければよいのに、よってたかって被害者を襲うとはどういうことだ。復讐のターゲットがおかしいだろ
※こういうのをソフトターゲットと言います。本来の標的のガードが堅い場合、民間人など、本来無関係で狙いやすい標的を殺傷すること。テロの常套手段です

・47人で徒党を組んで、相手が寝静まった雪の夜に人の家を襲うなんて、野蛮の極みで卑劣極まりない

・大石内蔵助の当初の目的は、長矩の弟である長広を赤穂藩主とし、家を継続させることであった。それが叶わなかったから襲撃に切り替えたんだろ

・犯罪終了後、幕府にわざわざ知らせたのは何故? 売名行為じゃないの? 純粋な復讐目的ならその場で切腹すべきでは? 本当はワンチャンスあると思っていたんでしょ?

これはなかなか手厳しい話ですが、しかもこの批判は的を射ているようにも思えます。

『忠臣蔵』のロマンを思えば反論したくもなりますが、なんせせ同時代人の評価ですからね。
史実からするとこれが近いのではないでしょうか。

仕官できなかった浪士の苦しみはもっともなことですけれども、ワンチャンで事件の被害者を集団で襲撃するというのは褒められたことではありません。
そう思いたくなるのは、私たちが現代人であるからということもあるでしょう。

 

武士の義よりも、理性的な判断

ここで当時の武士としての規範を考えてみましょう。

襲撃された吉良側の反撃はお粗末で、その不備は武士らしくない。
襲撃した側の赤穂浪士には、主君のために戦ったという忠義心はある。

もし綱吉が、武家の倫理を重視するのであれば、赤穂浪士を死罪としないこともできました。
実際、そうすべきだという意見もありました。

そうなれば、彼らは刑に服した後、忠義の武士として世間から賞賛され、仕官が好条件でかなった可能性があります。
それこそが、浅野家再興がならなかった浪士たちにとって、最後の手段――ワンチャンスだったのでしょう。

しかし、あくまで文治主義者の綱吉は、暴力と流血を伴う武士の義よりも、理性的な判断を重んじました。

一方で、武士の義を称揚したい人々は浪士に行動を讃えました。

では、この事件をどう評価するか?
それは武士の義をどう思うかによって変わります。

忠義こそ最も素晴らしいと考える人にとって、綱吉の判定は憎むべきものであり、その怒りの矛先は綱吉にも向かいました。
そしてそのイメージは『忠臣蔵』というフィクションで、さらに増幅されていったのです。

四十七人の浪士が起こした血みどろの復讐劇に対して、共感できるかどうかは、受け手が武士道を理解しているかどうかが問題となります。

暴力的な手段と、主君への盲従を美徳と見なす。
そんな武士道の美学を理解するかどうか。

同時代人でも儒学者の佐藤直方にとっては、愚かな事件とみなされました。
彼は武士道よりも、儒学が定義する人間の理性を信じていたのです。

 

光圀と綱吉

綱吉の同時代人に、水戸光圀がいます。

フィクションでも人気者であり、若い頃は辻斬りをするような「武」の人。
綱吉と対照的な評価をされています。

偽善的な綱吉の鼻っ面をひっぱたくような逸話が、光圀に残されています。
「生類憐れみの令」が出された際に、犬の毛皮をわざわざ贈ったというものです。

この逸話が真実であるかどうかは、判然としません。

ただ、この逸話が痛快なカウンターパンチとしてもてはやされたことは、当時の人々の心理を示していると言えます。

光圀を褒める一方、綱吉を貶す。
フィクションで大人気の光圀が同時代人として存在することも、綱吉評価にとってはマイナスでしょう。

皆さんご存知の通り、フィクションの『水戸黄門』が大人気であり、名君とされています。

ただし実際のところは、高い税率を課す等、庶民に対しては厳しい主君でした。

 

誤解された名君

柔弱で迷信深く、マザコン気味の暗君と評価させる綱吉。
彼の名は、今でも嘲笑とともに口にされることが未だに多いようです。

当時、綱吉に接したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルの綱吉評を見てみましょう。

「現在統治している将軍綱吉は……偉大で優れた君主である。
父親の美徳を受け継ぎ、法を厳格に遵守すると同時に臣下には慈悲深い。
幼少の頃より儒教の教えを叩き込まれ、国と人々を、相応しいやり方で支配する。
彼の下ではすべての人が完璧に仲良く暮らし、神々を敬い、法に服し、上に立つ者には従い、対等の者には丁重さと好意をもって接している」

ケンペルは、武士道とは無縁でした。
母親が八百屋の娘である綱吉を「劣り腹」とは思いませんでした。

『忠臣蔵』や水戸光圀が主役の物語や、後世おもしろおかしく脚色された綱吉の伝説とも、無縁。
偏見のない同時代人として、綱吉を評価しております。

このケンペルの綱吉評を、軽視することはできないでしょう。
生命倫理を重視した江戸の将軍として、綱吉は再評価されるべき存在です。

彼が統治する以前、日本人は旅人が病気に倒れると、家の外に放り出すことが当たり前でした。
道には動物の死体も、人間の死体も、ゴロゴロと転がっていました。

そんな日本の光景を変え、日本人の心から戦国以来の殺伐とした部分をとりのぞいたのは、徳川綱吉です。
この一事をもっても、綱吉は慈悲深い名君と言えるのではないでしょうか。

文:小檜山青

【参考文献】

『犬将軍―綱吉は名君か暴君か』ベアトリス・M・ボダルド=ベイリー(柏書房)(→amazon link

 



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