人間、誰しも腹の中に幾ばくかの黒い部分がありましょう。
しかし、ごく稀に、文字通りの「聖人」としか思えないような人もいます。
今回は江戸時代にいた、そんな人のお話。
文久三年(1863年)6月10日は、緒方洪庵(こうあん)が亡くなった日です。
この時期に活躍していた蘭学者・医師の中でも特に高名な人ですが、前半生は苦労の連続。
まぁ、晩年もある意味、不幸なのですが…….
いつも通り順を追ってみていきましょう。
もくじ
家督は継げず藩の財政も逼迫 とにかく勉強!
洪庵は、現在の岡山県西部にあった足守藩士の三男として文化七年(1810年)に生まれました。
長兄は夭折していたため、次兄が跡継ぎになっています。この次兄が健康かつ文武両道で、いかにも武家の跡継ぎらしい人でした。
他に姉が一人いて、和歌を得意としており、洪庵にも素養があったようです。
父は身分が高いとはいえませんでしたが、藩の経済や訴訟に関する仕事をしており、学問や文化も身につけていた知識人でした。
そんな環境のもと、洪庵は早いうちに自身の将来をどうするか、と意識するようになったようです。
武家の男子は、跡継ぎでない場合はどこかへ養子に行くか、出家するか……あるいは部屋住みという名の穀潰しとして白眼視されるかのどれか。
跡継ぎ候補の次兄が健康で無事に家督を継ぐと思われていれば、その下の洪庵が将来に不安を抱いたのもごく自然なことだったでしょう。
また、洪庵一家がお世話になっている足守藩も、経済的にはご多分に漏れず窮乏しており、藩校や私塾が機能していないという厳しい状況でした。
洪庵の父を含め、藩士の給米なども半減されるほどです。
そのため、洪庵は父や兄から読み書きや漢籍を学んでいたと考えられます。
また、小さい頃体が弱く、兄のように武道に励むということも難しく思われました。
医師を目指して大坂の中天游塾へ入門
運命がにわかに動き始めたのは洪庵13歳のとき。
長崎にシーボルトが来日し、西洋医学の噂が聞こえ始めます。
身の振り方を決めかねていた洪庵は、ここで「医師になって生計を立てられるようになろう!」と決意。
16歳で元服し、翌年大坂の中天游塾へ入門します。
事後承諾ではありましたが、父から「息子に学問をさせたいので、藩を離れることをお許し下さい」と藩主に頼んでもらっていたため、脱藩ではありません。
藩としても武士が多すぎると養いきれませんし、自力で稼げるようになりたいというのは大歓迎だったでしょうね。
洪庵の最初の師匠である天游は、大槻玄沢の弟子だった人です。医学の他に国学や神道、蘭学にも造詣が深く、洪庵は幅広い分野の知識を得ることができました。
一方、そのヤル気と頭脳を評価した天游は、洪庵に対して「江戸でもっと勉強したほうがいい」と勧めます。
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江戸にはスグに入れない!? 木更津で1年ほど準備を整え……
かくして師の勧めに従い、21歳で江戸に向かった洪庵。
当時の私塾は入学金として師匠に進物を送らなければならず、すぐに用立てることができませんでした。
そのため、木更津あたりで一年ほど、周辺の医師に蘭学や西洋医学の知識を与えて、対価にお金をもらって準備しています。
当初は泊まるところもなく、見かねたとあるお寺の住職が「それならうちにお泊まりなさい」と声をかけてくれたのだとか。
これぞ正しき聖職者という感じですね。
このお寺が何というところだったのか。
洪庵に声をかけた僧侶が誰だったのか。
この辺はハッキリわからないようです。
徳川家康の歌で有名な證誠寺という説もありますが、どうだったんでしょうね。
というか、天游も推薦するならせめて下宿先を斡旋するなり、頼れそうな人物を紹介する成まではしてもいいと思うんですが(´・ω・`)
苦労の末、一年後にやっと当初の目的である坪井信道の塾へ入門します。
何の後ろ盾もない洪庵は、入塾後のビンボーぶりもスゴイもので、内職をして学費を稼いでいました。
そんな姿を、他の塾生にpgrされることもありましたが、師の信道は、洪庵の熱意と立場を理解し、目をかけるようになります。
信道も、かつては洪庵に負けないレベルのビンボーで苦学していたので、他人事とは思えなかったのでしょう。
おそらく洪庵をpgrしていた連中は、昔のお師匠様の境遇を知らなかったのでしょうが……気の短い人だったら、引っ叩かれていてもおかしくありませんね。
長崎での診療生活を経て戻ってきたよ、大坂へ
信道はさらに、自分の師匠(洪庵からすれば大先生)の宇田川玄真に紹介。
様々な人との繋がりに助けられ、洪庵は知識を貪欲に吸収していきます。
そして一通り江戸で医術を学んだ洪庵は、26歳のとき長崎に行き、西洋医学を吸収しながら医師として身を立てることにします。
江戸にいた頃、薬屋を営んでいた億川百記の娘・八重と婚約しており、長崎での学費は舅からの工面でやりくりすることができました。
婚約の段階で金を出してやるというのも随分気前のいい事ですが、百記は信道の塾に出入りしていたので、洪庵の人となりをよく知っていたのでしょう。
娘を安心して託せる人物だと確信したからこそ、夫婦揃って苦労しないように、未来の婿の世話を焼いたということでしょうか。いい話や。
長崎では、3年ほど診察をしていました。
オランダ人の誰と付き合いがあったかは不明ですが、当時の長崎では通詞(通訳)のツテでオランダ人と交流したり、オランダ商館を訪ねることができたそうです。
洪庵も、オランダ人と接触する機会は多々あったでしょうね。
その後一度、足守に帰り、家族と再会。その年のうちに大坂の瓦町で適塾を開業します。
この頃の大阪は、「大塩平八郎の乱」や「蛮社の獄」が起きた後で、西洋の学問が白眼視されていた頃です。かなりの度胸ですね。
師匠の天游も塾を続けていたので、お互い励まし合いながら教育や医学に励んでいたのかもしれません。
適塾は「勉学第一! 個性尊重!」
開業して一段落した頃、八重と結婚しています。
挙式は大坂だったため、岡山県の両親は臨席していません。
翌年夫婦で足守に行き、正式にあいさつを済ませました。その後も双方の実家と良い関係を築いていたようです。
また、足守藩主・木下利愛(としちか)から無事に医学を修めたことを褒められ、特別に三人扶持を受け、さらに励むよう命じられています。
洪庵は開業して次の年に、大坂の医師番付で「前頭」と評価されており、仕事が順調だったことがうかがえます。
それに従って塾生が増えたため手狭になり、洪庵35歳のときに瓦町から過書町へ移転しました。
現在残っている適塾はこちらのほうです。
塾の気風としては、勉学第一・個性尊重といったところでしょうか。
塾の中では階級があり、蘭学の理解度によって上がっていきました。階級が上がると塾の中でより良い場所が使えるので、みんなやる気を出したといいます。
その他のことについては洪庵はあまり口出しせず、塾生の個性を尊重していました。
門下だった大村益次郎や福澤諭吉があんな感じになったのも、お師匠様のポリシーによるものということでしょう。
生活ぶりについても奔放なもので、これは福澤の回顧録「福翁自伝」がわかりやすい……というかぶっ飛びすぎてて笑えます。
「事に臨んで賤丈夫(せんじょうふ)となるなかれ」
適塾での蘭学の勉強は、まずオランダ語の文法などの基礎的なことから始まります。
当たり前といえば当たり前ですが、基礎をきっちりやる期間が長いので、医学の実技に入るまでが非常に長いという欠点もありました。
そのため、実家の困窮などによりすぐ医師として身を立てねばならなくなった塾生は、洪庵に頼んで別の塾を紹介してもらうこともあったといいます。
塾の方針を曲げず、適した場所へ移せば、他の塾生からやっかみを買うこともない……ということですかね。理由がわかっていても、いらぬ嫉妬をたぎらせる輩というのはどこにでもいますし。
適塾には毎年十数人~数十人入ってくるので、卒業する人数も多くいました。洪庵からは最後の教えとして「事に臨んで賤丈夫(せんじょうふ)となるなかれ」という言葉が送られたそうです。
まだまだ西洋医学に対する偏見が強かった中ですから、かなり意訳すると「心無い罵倒などに負けて医学の本質を忘れるな」という意味でしょうか。
ほとんどの卒業生は、故郷に帰って開業医になったようです。洪庵は卒業生ともよく手紙のやり取りをして、治療方針の相談や近況報告などもしあっていたとか。
あまりにイイ人・イイ先生すぎて胡散臭いほどですが、温厚な人柄で知られていた洪庵ですので、本当にこうだったんでしょうね。むしろ日頃から塾生がアレコレやっても洪庵が何もいわないので、「先生が微笑んでいるときのほうが怖かった」と思われていたそうです。やましいと思うんならもうちょっとおとなしくしろと。
「牛になってしまう」デマと戦いながら種痘摂取を推し進める
さて、洪庵が40歳になるあたりから、世界情勢の変化により、英語の必要性を感じてカリキュラムに取り入れるようになりました。
また、佐賀藩から種痘(天然痘のワクチンのようなもの)を入手し、大坂で除痘館という接種施設を作っています。
後には故郷の足守藩からも要請され、同じ施設を開設しました。
当初は「種痘は牛から作っているから、射たれると牛になってしまう」といったデマが広がり、なかなか進まなかったそうです。
しかし治療費をとらずに努力した結果、接種人数が増えていきました。うまくいき始めたかと思いきや、今度は偽業者が現れるという有様です。次から次へと出る問題でイライラしたでしょうね。表には出さなかったかもしれませんが。
洪庵はめげずに幕府にかけあい、除痘館だけを公認の種痘接種所にしてもらうことにします。
天然痘という当時屈指の難病を予防した偉業に対し、幕府は奥医師と西洋医学所頭取という職務を与えることで報いようとしました。洪庵はあまり乗り気ではなかったようですが、お上のいうことなので従い、数十年ぶりに江戸へやってきます。
しかしその翌年のことです。
突如の喀血による窒息で亡くなってしまいます。一体何の病気だったんですかね。
奥勤めをするようになってからは無用な人付き合いのために出費がかさんだり、蘭学者であることからやっかまれることも多く、かなりのストレスを感じていたともいわれていますので、その辺が原因でしょうけれども。
洪庵が亡くなった頃は、福澤が文久遣欧使節の任務を終えて帰国し、いろいろと忙しくしていた時期とかぶります。
もし洪庵の健康がもっていれば、福澤が直接見てきた西洋のあれこれを伝え聞いて、江戸城内で活かすこともできたのでしょうね。
何とも惜しい話です。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『緒方洪庵 (人物叢書)』(→amazon link)
緒方洪庵/Wikipedia
適塾/Wikipedia