勘違いって誰にでもありますよね。
些細な誤解だったり。
自分勝手な思い込みだったり。
笑って済む話ならいいんですけど、中には勘違いのせいで重大事件に発展してしまうこともあります。
本日はその最たる例であろう、江戸時代のとある事件のお話です。
延享四年(1747年)8月15日、四代目熊本藩主・細川宗孝(むねたか)が江戸城で殺害されました。
もくじ
熊本藩主・細川宗孝と御家人・板倉勝該
この時期の江戸城で殺傷事件――というと「忠臣蔵じゃないの?」と思ってしまうかもしれません。
こちらは浅野内匠頭も吉良上野介も全く関係ありません。
犯人の行動は似通ってますが、この事件、被害者の細川宗孝にとっては災難以外の何物でもありませんでした。
というのも、単なる勘違いで殺されてしまったからです。
下手人は旗本(将軍に直接お目見えできる中で最下層の武士)の一人・板倉勝該という人物です。
名字からわかる通り、初代京都所司代・板倉勝重の後裔にあたります。
大名ではありませんが、6,000石の領地を受け継いだ立派な武士でした。
が、この人、普段から情緒不安定で言動のアヤシさがハンパなかったらしく、本家筋にあたる大名・板倉勝清がこう考えるほどでした。
「勝該が何かやらかさないうちに、ウチの息子を養子に入れて跡を継がせたほうがいいんじゃないか……」
この言動が勝該本人の耳に入ってしまったものだからさあ大変。
「俺は真面目にやってるのに、本家とはいえよそに口を出されるいわれはない!ブッコロ!!」とブチキレてしまいます。
だから、その思考の飛躍を懸念していたんだってば……。
しかも、無駄にフットワークの軽い勝該。
江戸城に諸大名が集まる儀式の日に早速実行を思い立ったのです。
勝清ピンチ!
細川家は「九曜星」で板倉家は「九曜巴」
ところが、です。
実際に、勝清へ危害が及ぶことはありませんでした。勝該が斬ったのは、板倉家とは全く関係ない細川宗孝だったからです。
顔を見間違える相手ではないし、なぜ、こんな展開になってしまったのか?
当時の武家が好んで用いたとある家紋のせいでした。
家紋は、戦国時代から武家の目印として広く使われる一方、複数の大名家が同じ紋を使っているという本末転倒なこともよくありました。
少し装飾を施したり、丸で囲んだりするなどして、見分けがつくように工夫されてはいたものの、背後から見ると「あれは○○家かな?それとも××家かな?」なんてことも日常茶飯事だったようで。
運の悪いことに、このときの板倉家と細川家もその一例だったのです。
両家とも「九曜」と呼ばれる、後ろからでは勝清なのか宗孝なのか全く見分けがつかなかったのです。
厳密に言えば細川家は「九曜星」という普通の○で、板倉家は「九曜巴」という人魂が三つ集まった形×9という紋だったのですが、遠目から見ればほとんど同じに見えたのでしょう。
当時は髪型や服装のバリエーションも現代ほどありませんしね。
よほど勝該の腕がよかったのか――即死だった
ブチキレ状態の勝該は、相手をきちんと確かめないまま
「九曜紋=憎き勝清!!」
と思い込んで斬りかかってしまったのでした。
「松の廊下」でなくとも江戸城内での抜刀は厳禁です。
宗孝も、まさか背後から斬られるなんて思ってもいなかったでしょう。
身のこなしがまずかったのか。
よほど勝該の腕がよかったのか。
哀れ被害者の宗孝はその場で絶命してしまいます。
江戸城内での殺人というだけでトンデモない大騒動ですが、残された細川家の人々にとっても大問題となるところでした。
宗孝はこのとき31歳。
当時の基準で言えば若すぎるということはないものの、まだまだ跡継ぎに悩むような歳でもなく、これから藩政や子作りに励もうという頃合でした。
つまり、宗孝亡き後に跡を継ぐべき子供がいなかったのです。
こりゃ、てぇへんだ。
突然の藩主の死。
さらに跡継ぎ不在=即刻改易=全員浪人化の恐怖に呆然とする細川家家臣たち。
もしかすると、藩祖細川忠興やその子・忠利のアレコレが脳裏をよぎったかもしれません。
あるいはさらにその前のミスターチート・細川藤孝(細川幽斎)とか。
どいつもこいつも化けて出てきそうで恐ろしいったらありゃしねえ。
「まだ生きてる」と助け舟を出したのは伊達宗村
が、ここで救いの神が現れました。
「これはとんだご災難、早く手当てをせねば命が危うい。さぁさぁ、細川の衆、早く主をお連れせよ」(※イメージです)
と、わざとらし……もとい、迫真の演技をしてくれた大名がいました。
それはかつて細川忠興と諸々の珍エピソードを生み出した伊達政宗……ではなく、その子孫・伊達宗村でした。
仙台藩の六代目藩主です。
しかし、この白々し……堂々とした言い回しに、細川家一同はハッと我に返ります。
「そうだ、今なら公方様にバレていない。まだ間に合う!」
そう思い直して宗村に頭を下げ拝みつつ(※イメージです)、慌てて熊本藩邸へ宗孝を”連れて”行きました。
こうして表向きは
「江戸城内で殺人未遂事件が起き、宗孝は後日亡くなった」
として処理され、丸く収まったのです。
「結局子供がいないんだからダメじゃん」とはならないのが江戸幕府のアタマ固いんだか柔らかいんだかわからないところ。
この頃は「死に際になってから養子を迎えておk」という”末期養子”の制度が確立しており、細川家はこれを使って難を逃れたのでした。
跡を継いだのは江戸期の名君・重賢だった
養子に選ばれたのは宗孝の弟・細川重賢でした。
後に「肥後の鳳凰」と称えられ、江戸中期屈指の名君として語り継がれることになる人です。
その辺のお話は以前取り上げておりますので、よろしければどうぞ。
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神をも恐れぬスーパー合理主義者・細川重賢 「肥後の鳳凰」が藩財政を建て直す
「 ...
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何だか話がデキ過ぎのような気もしますが、一応事実です。
「勝該は人違いでなく日頃からの恨みがあって宗孝を襲った」説もありますけども、とりあえず定説のほうで書かせていただきました。
ひょっとしたら、宗孝と宗村の背後でご先祖同士が相談でもしてたのかもしれません。
あの二人ならそのくらいできそうな気がします。
ちなみに犯人の勝該は、即座に捕まり、8月23日に切腹を言いつけられました。
切腹は名誉刑ですから、武士の面目を保たせてもらえたことになるわけで、現代でいうところの「責任能力の有無」で情状酌量されたんでしょうかね。
殺されるはずだった勝清については全くお咎めなく、その後も寺社奉行や側用人などの要職を務め、老中にまで登りつめて天寿を全うしました。
頭はキレても体は斬られなかったんですね……なんつって。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
細川宗孝/wikipedia